何事もなかったかのように私は今朝も朝食を作っている。
そして『優斗の母』からも電話が来るけど今朝は無視をしておいた。
優斗はいつも通り遅刻するかしないかぎりぎりで起床する。
あの夜、外泊したあと帰宅したら、優斗は戻っていなかった。
着替えも持って出かけたから、おそらく浮気相手の家から直接出勤したのだろう。
「おい、そろそろ反省したか?」
起きてくるなり優斗は私にそう言った。
あれから優斗は私のことをずっと無視している。
余計なことを話さなくていいので、それはそれで都合がよかった。
以前の私なら無視されるのがつらくて、いちいち機嫌を取っていたけど、もういいやって思う。
優斗は私がまったく動じないことに焦りを感じたのかもしれない、
自分から声をかけてくるのはめずらしい。
「私が何を反省するの?」
「俺と母さんを怒らせたことだよ。母さん、言ってたぜ。紗那は女らしさがないってさ。俺に教育しろって言われちゃったよ。あはは」
だめだ。怒りで震える。
ここで言い返したいけど、今は耐えなきゃいけない。
引っ越し先が見つかるまではここにいなきゃいけないんだから。
「ああー、そうだ。俺、土曜は友だちと遊びに行くから。お前、母さん連れて買い物行ってこいよ。母さんも気晴らしがしたいらしいからさ」
なんで私がお前の母親とふたりきりで買い物しなきゃいけないんだよ!?
今までも頼まれて買い物に付き合ったけど、あの人ぜんぶ私におごらせたのよ?
百歩譲って話の通じる常識人ならまだしも、ずーっと私への説教&息子愛炸裂なママと一日中一緒なんて死ぬほど無理。
「ごめん。私も友だちと約束があるんだよね」
「ふうん。まあ、結婚したらそんな時間なくなるしな」
何言ってんの、こいつ?
「そうだね。お互いに協力してやっていかないとね」
「いや、俺は関係ないじゃん? 男だから」
「え?」
「女は子育てがあるから自由なくなるけど、俺は男だから」
やばい。こいつ、ほんとに昭和男。いや、大正男か? もっと前かな?
うちの兄も似たようなものだけど、母親が息子を溺愛しすぎる失敗例を間近でこんなに見ることになるなんて、私のまわりにはフツーの人はいないのだろうか。
私はその夜、こっそりスマホでNoaのSNSをチェックした。
彼女はいくつか更新していたが、その中にやっぱりあった。
【土曜日はカレとおうちデート♡】
【かわいい下着買っちゃったぁ♡♡♡】
もはや匂わせどころか挑発だ。
まあ、いい。おうちデートを存分に楽しんでくれたまえ。
私は私でしっかり計画の準備を進めておくからね。
*
そして土曜日。
私は午前中に掃除をして自分の大事なものと捨てていいものを分けていた。
優斗は昼まで寝てから食事もせずに出かけていき、私は少し時間を置いて出かけた。
月見里さんと約束した最寄り駅に着くと、彼は普段着でそこに立っていた。
簡易な白シャツとスラックスというラフな格好だが、似合いすぎる!!
「お待たせしました」
「いや、今来たとこ」
「モデルみたいですね」
「よく言われる」
「そこはフツー謙遜するもんですよ」
「素直だから」
うーん、これは……ナルシスト系?
でもまあ、格安のマンションを提供してくれるというのだから、ここは余計なことを言わないでおこう。
最寄り駅からしてそこそこ値の張る路線沿いだからおそらく築年数の古い物件だろうと思ったら、新築のマンションだった。
そのマンションを見たとき、私は目が点になった。
同時に怒りがわいてきた。
騙されたんだ。
どう考えてもここは家賃30万以上するマンションだよ!!
「月見里さん、傷心の私をからかって楽しいですか?」
私が抗議の目を向けると、彼はきょとんとした顔をした。
「どういうこと? 俺はこの前言った通り親戚が運営するマンションを紹介してるだけだよ」
「だ、だってここ、家賃すごいでしょ?」
「そんなことないよ」
「そんなことありますよ! 騙されませんからね」
私はスマホでこのマンションの家賃を調べて彼に見せつけた。
「ほら、1LDKで一番安くて21万じゃないですか」
「ああ、理由があるんだよ。とりあえず入ろう」
いまだ疑心暗鬼な私に彼は笑顔で穏やかに言い放つ。
「安心して。部屋に連れ込んで何かしようと思っていないから。今日はね」
「今日は……?」
表情を歪める私に彼は笑顔のまま告げる。
「この前未遂だったから。次こそはきちんと最後までしないとね」
「え? ちょっと意味がわからないんですけど」
すると彼は私の肩に手を添えて、わざわざ顔を近づけると耳もとでそっとささやいた。
「ホテルまで行っといてなかったことにできると思う?」
本性出したなーっ!!!
しかし、酔った勢いでホテルにほいほいついて行った私が悪い。
あのとき何もなかったのが不思議なくらいだ。
「君も期待してついて来たんだろう? でも彼氏と別れていないと言っていたから遠慮しておいたんだよ」
何それ、理性しっかり保った俺すげーってやつですかね。
「あ、ありがとうございます……おかげで不貞になりませんでした」
「別れるときに少しでもこちらに非があると面倒だろう?」
「……どうして、そこまでしてくれるんですか? ハンカチ拾ってもらったの私のほうなのに」
月見里さんはオートロックを解除して私を中に招き入れる。
エレベーターの前で彼は言った。
「俺、誘った女に断られたことがないんだ」
私は目が点になった。
いったい何度、彼の言動に絶句したことだろう。
エレベーターが1階に到着し、ドアが開いた瞬間に彼は私に中へどうぞと促した。
「月見里さんは女好きなんですね」
「そんなことないよ」
「だってさっき……」
「飲みに誘って断られたことはないっていう意味で言ったけど」
「えっ……?」
彼はわざわざ斜め上から覗き込むようにして私に顔を近づけて言った。
「いったい何のことだと思ったの?」
だめだ。完全に手のひらの上で転がされている。
ああ、そうか。こんなだから私はろくでもない男に引っかかるんだきっと。
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