リオンがベルトランからの応援と食糧支援を受けて腹を決めてから初めての週末、仕事を鬼のような勢いで終えて一度自宅に戻り、汗と埃とタバコのにおいが染みついた衣類を脱ぎ捨て、コインランドリーにまで出掛けて洗濯をしたジーンズに片足を突っ込みながらウーヴェの携帯に連絡を入れると、いつもよりは固さを感じさせる声がそれでもお疲れ様と労いの声を掛けてくれる。
「うん、疲れた。でも平気だ」
今着替えているけれどそっちに行っても良いかと問いかけるが返事がなく、名前を呼んで回答を促すと小さな声にそちらに行ってはダメかと逆に問われて瞬きをする。
「へ?」
『……ダメ、か?』
「んー、平気だけど、食うものとか何もないんだよな…」
もしもこれから俺の部屋に来るのならば何か食べるものを買ってきてほしいと情けない声で告げると用意をしてあることを教えられて苦笑するが、その返事からリオンからの連絡を待っていたらしいことに気付いて目を細める。
自宅ではなく何故か好きだと言ってくれるこの部屋に来てやりたいことがあるのだろうかと思い、それが先日の悩みを解決することであれば良いと思いつつ、食い物とビールを持って来て欲しいと笑うと安堵した気配が伝わってくる。
「気をつけて来いよ、オーヴェ」
『ああ』
出掛けなくて済むようになったが片足だけジーンズをはいたままの姿でウーヴェを出迎えられるはずもなく、いそいそと着替えを済ませて室内を見回し、ウーヴェが来れば呆れて何も言えなくなるような散らかり具合に気付いて頬を一つ叩いて気合いを入れると、せめてウーヴェが安心して腰を下ろせるように床に散らかっている洗濯物をコインランドリーに向かうときに使っているどこかのスーパーの大きなエコバッグに一纏めにして投げ入れ、脱ぎっぱなしにしていたブーツは揃えてドア横の壁に置き、キッチンのシンク前に小さな折りたたみのテーブルと丸椅子を置けるように部屋の片付けに取り掛かるのだった。
ウーヴェが荷物を片腕に少し暗い顔でやってきたのは、リオンの部屋が近年まれに見る綺麗さ-でもウーヴェの部屋に比べれば遙かに散らかっている-になった頃だった。
ドアが控えめにノックされて煙草に火をつけていた手を止めてドアノブに手を掛けながら除き穴に目を押しつけたリオンは、いつもとは何かが違う顔で佇むウーヴェを発見し、ドアを開けて両手を広げる。
「ハロ、オーヴェ」
「…何かしていたのか?」
「へ?ああ、部屋片付けてた!」
リオンの身体越しに部屋を見たウーヴェの目が軽く見開かれ、確かにいつもに比べれば片付いている室内に気付いて今度は目を細め、ゼンメルのサンドとビールを持って来たことを教える為に荷物を少し掲げると、リオンの顔に笑みが浮かび上がる。
「ダンケ、オーヴェ!」
「ああ」
だからこれを少し片付いた部屋で食べようと笑い、中に入ってドアを閉めたウーヴェは、シンクの前に小さなテーブルがセッティングされていることに気付いて丸椅子に腰を下ろして足を組む。
「本当に片付けたんだな」
「うん。綺麗になっただろ?」
「…そうだな」
自分の部屋と比べればまだまだだがと片目を閉じると途端にリオンの顔が不満に歪み、冗談だと手を立てるといつもの文句が返ってくる。
「お前の冗談は笑えねぇ!」
ウーヴェと向き合うようにもう一つの椅子を引いて腰を下ろし、持って来てもらったゼンメルのサンドやビールをテーブルに出すが、何故か生卵がタッパーに入れられている事に気付いて首を傾げる。
「オーヴェ?」
「ああ、フライパンを貸してくれ」
ウーヴェの言動の真意が分からずに場所を譲ってウーヴェがたった今立ち上がった椅子へと移動したリオンが頬杖を突きながら何をするんだと問いかけるが、それに対しての返事はなく、シンクの壁に申し訳程度に設えられている棚から唯一存在している小さなフライパンを出し、大ぶりのマグカップに持ってきた卵を割り入れ、同じく自宅から持ってきただろう牛乳や生クリームと卵を手早く混ぜたウーヴェは、コンロにかけたフライパンが温まってきたのを確かめると、バターを溶かしてフライパンにそれを流し入れ、フォークを使って手早く混ぜていく。
その、躊躇いもない流れるような作業をウーヴェの肩越しに覗き込んでいたリオンは、出来上がるものが何であるのかに気付いて顔を輝かせ、出来上がると同時に歓声を上げそうになる。
「……どうぞ召し上がれ」
「ダンケ!」
皿-といってもロクなものがこの部屋にあるはずもなく、卵を入れていたタッパーに出来たてのスクランブルエッグを入れてリオンの前に差し出したウーヴェは、恋人の顔がきらきらと輝いていることに苦笑と安堵が混ざった笑みを浮かべてどうぞと掌を向けて促すが、リオンがフォークにそれを載せてウーヴェの前に付きだした為、目を丸くして首を傾げると破顔一笑しながら口を開けろと促される。
「ほら、オーヴェ」
早く口を開けろと急かされて暫く考え込んだウーヴェだったが、リオンの顔がいつもとかわらない子どもじみたものだった為に安心し、口を開いて差し出されるそれを食べる。
「…美味しいな」
「だろー?幸せだよな、オーヴェ」
世間一般で言われる、高級レストランでのディナーや恋人同士に人気のスポットでのデートと比べれば情けなさに涙すら枯れ果ててしまうようなこんな何もない散らかり放題の部屋で食べるスクランブルエッグとゼンメルのサンドがこんなにも美味しいなんて、なんて安上がりな幸せだと笑うリオンに、何を食べているのかではなく一緒に食べているのがお前だからだとウーヴェが伏し目がちに告げると、今度はリオンが目をぱしぱしと瞬かせる。
「…オーヴェ」
「そうじゃないか?」
「うん…へへ」
ウーヴェの静かな告白に照れたように笑みを浮かべるが、二人分のビールやデザートのリンゴもあることを思い出し、途端に覚えた空腹を宥める為に二人でささやかすぎるディナーにありつくのだった。
ウーヴェが持って来た空腹を満たしてくれる食事とビールが綺麗さっぱり二人の腹の中に収まった後、片付けをするぞと言われることを覚悟していたリオンだったが、特に何も言わずに片付けを始めたウーヴェの背中を見守るが、何かを思い出した顔で呼びかける。
「そうだ。オーヴェ、シャワー使ったか?」
「ああ、家で使ってきた」
「そっか。じゃあちょっとシャワーしてくる」
「ああ」
片付けをする背中に声を掛けて背後にあるドアを開けたリオンは、ドアを閉める寸前に見たウーヴェの横顔が不安と安堵に彩られていることに気付き、その不安が今夜中に解消できればいいと願い、手早く脱ぎ去った服を便器の蓋を下ろしてそこに投げ出すと、ボロボロのシャワーカーテンをお座なりに引いて頭から一気にシャワーを浴び、その気持ちよさから思わず鼻歌などを歌ってしまっていたが、シャワーカーテンの向こうに人影が見えたことに目を瞬かせる。
「……リオン」
「んん?どうした、オーヴェ?」
いつもなら一緒にシャワーを浴びるかと問いかけるだけで馬鹿だの何だのと悪態をつくウーヴェにカーテン越しに呼びかけられてただ驚きに目を丸くするが、髪に残っていた泡を総て洗い流し、シャワーカーテンを半ば開け放って顔を出すと、何やら思い詰めた顔のウーヴェが佇んでいることに気付いて更に目を丸くする。
「オーヴェ?」
名前を呼んでも表情は変わらず、どうしたんだと問いかけながらタオルでお座なりに髪を拭くと、ウーヴェの手が伸びてきてタオルを取り上げられてしまう。
何がしたいのか全く見当が付かない為に好きにさせようと決めたリオンは、ウーヴェの手の中のタオルが再度髪に載せられ優しく髪を拭きだしたことに苦笑し、自分で出来るとを伝えるもののウーヴェの口から言葉が流れ出す事は無く、溜息一つでその行為を受け入れることにするが、俯き加減の表情が気になり、白い手首をそっと掴んで手を止めさせてしまう。
「オーヴェ、何か言いたいことがあるのか?」
その切っ掛けを求めて髪を拭いてくれているのならばすぐに話を聞いてやるから気にしなくて良いと笑うと、そうじゃない、聞いて欲しい話はあるがただそれをしたいから髪を拭いている訳じゃないと答えられて口を閉ざす。
「じゃあオーヴェの好きなようにどうぞ」
髪を拭いてくれるのも嬉しいしそのまま身体を拭いてくれるともっと嬉しいと男の貌でにやりと笑うリオンを細めた目で見つめたウーヴェは、丁寧さよりも躊躇いを強く感じさせるゆっくりさで髪から肩、腕へと水気を拭き取っていくが、胸の上でその手を止めてしまう。
ウーヴェの手が止まったのをチャンスと捉えたリオンが再度手首を握ってウーヴェの手からタオルを奪い取ってその両手を組ませると、身を少し屈めてウーヴェの腕が自然と作る輪の中に頭を突っ込んで驚くターコイズの双眸を見上げて片目を閉じる。
「オーヴェ」
名前を呼んで何を望んでいるのかを伝えるリオンにただ驚いたように目を瞠っていたウーヴェだったが、感じ取ったことを実行する為にリオンの首の後ろで手を組み直して寄り掛かると、嬉しそうな息が一つ耳の傍に落とされ、背中から腰へと腕を回されて自然と溜息を零してしまう。
「一緒にシャワー浴びるか?」
「…今拭いたばかりだろう?」
互いに背中と首を抱きながら囁いた二人だったが、どちらからともなく小さく吹き出してしまい、こんな狭い場所で抱き合っているおかしさに気付いて笑いを増幅させた時、リオンが何かに気付いて匂いを嗅ぐようにウーヴェの首筋にそっと鼻先を押しつけると、ウーヴェも僅かに身動ぐ程度でその行為をいつかの友人のそれとは違って何の抵抗もなく受け入れる。
「……俺の香水使った?」
ウーヴェの身体から仄かに立ち上る香りがいつものものでもなければお気に入りのシャワーソープのものでもなかった事から問いかけると、無言でウーヴェが頷いて借りたことを教えてくれる。
「あれだよな、オーヴェが使うとまた違う感じがするな」
いつも自分でつけている香りがまた違ったものに感じると目を細め、もう一度確かめるようにうなじ辺りに顔を寄せると、首筋に掛かる微かな息にウーヴェがくすぐったさを感じ取って首を竦める。
「…やっぱイイ匂い」
これは香水ではなくウーヴェが良い匂いを発生させているのだろうと、まるで世紀の大発見を成し遂げた科学者の顔で断言するとウーヴェが小さく笑い声を零す。
「そうか?」
「そう!」
笑って断言しウーヴェの頬にキスをしたリオンは、同じように笑みを浮かべるウーヴェを半ば肩に担ぐように抱き上げると、さすがに驚いたウーヴェがそれでもバランスを取るようにリオンの肩に手をついて身体を支える。
「リオンっ」
「じっとしてなきゃ落としちゃうぜ」
いつかも同じような事を言いながらこうしてバスルームからベッドにウーヴェを運んだことを思い出し、落とされたくなかったらしっかり捕まっていろと太い笑みを浮かべて自身は素っ裸のままでベッドに向かい、驚く恋人を荷物よろしくベッドに投げ落とす。
「っ!!」
腕をついて上体を起こすウーヴェの身体を跨ぐように腕をついて顔を寄せたリオンは、間近にある顔が緊張に強張ったのを認めて目を細めると、そのまま体重を掛けてウーヴェの背中をベッドに沈ませる。
「…リ、オン…っ」
「イイ匂い」
びくんと揺れる肩に顎を載せて首筋に鼻先を近づけながら囁くと、リオンの素肌の胸と重なるシャツの下から速くなった鼓動が伝わってきて、ウーヴェが感じている緊張感が強くなったことを教えてくれる。
自分といる時にそんなに緊張する必要はないと囁いて耳朶にキスをし、再度手をついてウーヴェの顔を見下ろせば、何かを堪えるように唇を噛み締めながら背けられていた。
「何か言いたいことがあったんだろ?」
話をしてくれと囁いて促すと噛み締められていた唇が震えながら開き、か細い呼吸が流れ出す。
ベルトランが先日教えてくれたキーワードが脳裏を掠めるが、出来るならばその言葉を使わずにウーヴェが今感じている思いを伝えて欲しくて、小さく溜息を零すことで己の心を鼓舞すると、向き合うように顎に手を添える。
「オーヴェ。何か話があるんだろ?言えよ」
この一言で思いを口にしてくれれば最高だが、そんな素直な性格ではないことは良く知っている為に根気強く待ち構えていると、躊躇いとそれを振り切りたい思いが見下ろす顔から滲み出てきて、少しだけ期待をしながら更に待っていると長い睫毛が伏せられて顔に影を落とす。
「な、オーヴェ、いつも言ってるけどさぁ…」
素直じゃないお前も好きだけど素直なお前はもっと好きと、ウーヴェの耳朶に顔を寄せて囁くと、びくんと肩が竦んだ後で全身から力が抜けたように腕が投げ出される。
「────っ…、リオ…ン…」
「うん」
投げ出された手が再度上がってリオンの背中に周り、感情を込めたように握りしめられたことに気付いて見守っていると、途切れがちの声が聞こえてくる。
その声からウーヴェが何を感じていたのかを察し、それが己が予想しつつも外れてくれと願っていた通りであることに気付いて胸を痛めるが、ウーヴェに思いを総て吐き出させた方が良い事にも気付いて己の痛みを押し殺す。
「…何が怖いんだ?」
初めて聞かせてくれた怖いという思い。その根源を教えてくれと促して返事を待つが次の言葉は聞こえて来ず、さすがに少し苛立ちを覚えてウーヴェの顔を覗き込むように腕を掴んで距離を取る。
「オーヴェ」
口に出したいが出来ない、その狭間で揺れ動くターコイズの双眸を見つめ、次に出てきて欲しい言葉を待ってみるが、時間が経ってもウーヴェの口から言葉が出てくることはなかった。
ウーヴェと付き合う以前のリオンならば、ここまで素直でない相手に対しては早々に匙を投げるどころか無関心になってしまっていただろうが、過去の己が見れば衝撃のあまり腰を抜かしそうなほど根気強くウーヴェの言葉を待つものの、埒があかない思いも強くなり、荒療治が必要なのかと考えると同時に脳裏にウーヴェの涙が思い浮かぶ。
今まで何人もの涙を見てきたリオンだが、ウーヴェが何度か見せた涙ほど心をざわつかせ胸を締め付けるものはないと気付き、またその涙を見るのはともかく自らの言動で浮かべさせることだけは避けるべきだと決めたことを思い出してウーヴェの額を指の背で撫でた後にキスをする。
「オーヴェってさ、意外と物忘れが激しいみたいだから言っておくな」
「……っ…何、を…?」
「うん。オーヴェが思ってる事を口にしても、俺は怪我もしねぇし死なねぇ」
「────!」
ウーヴェが抱えている過去の一端を初めて知った夜、涙を流しながら思いを告げればお前が死ぬと言われ、その深い意味をまだ教えてもらえない焦燥感を覚えつつも二人で色々な出来事をあれから乗り越えたが、ウーヴェの言動が原因で怪我をした訳でもなければ当然ながら死んでもいないと、聞かされたウーヴェが目を瞠ってしまうほど晴れ晴れとした笑顔で告げたリオンは、強い光を双眸に湛えてウーヴェを見つめ、にやりと笑みを浮かべる。
「オーヴェが思ってる事を口にして怪我をしたのって、ベルトランぐらいだろ?」
誰も怪我をしていないのだし死んでいないのだからもうそんな過去のしがらみから解き放たれても良いはずだとも告げ、キスをした額に額を重ねてウーヴェを呼ぶ。
「言ってくれよ、オーヴェ。言ってくれなきゃ分からねぇ」
額を重ねて真摯に言葉を紡ぎ、どうかこの思いが伝わってくれますようにと必死に願ったリオンの思いが伝わったのか、ウーヴェの口から途切れて震えていても紛れもない彼自身の言葉が流れ出す。
「リ、オン…っ…リー…っ!」
「うん。お前が俺を信じてくれてるのはすげー分かる。だから、俺を信じてくれてるお前自身を信じてくれ」
今まで行ったことがないことをするのは力が必要だし躊躇いを感じるかも知れないが、どうか自分を信じて一歩を踏み出してくれと囁き、見開かれている双眸を愛おしそうに見つめて目元を和らげる。
「俺が愛するオーヴェは、どれだけ辛い事があっても前を向いて一歩を踏み出せる強い男だ。そんなお前だから愛しているし、そんなオーヴェに愛されてることが俺の自信になるし自慢にもなる」
だから俺が愛してやまないオーヴェを信じて欲しいことをウーヴェの心に届けるようにゆっくり丁寧に告白したリオンは、何だか照れてしまうと笑いながらウーヴェの鼻先に鼻先を擦りあわせる。
「オーヴェ、オーヴェは俺の誇りだ」
「リオン…っ!」
「お前が愛してくれるから俺も強くいたいと思う。だからさ、俺にそれだけの力を与えるお前を信じてくれ」
例えどのようなことを言われても受け止める覚悟はあるつもりだと笑い、最後には笑顔でウーヴェの心の扉を開かせたリオンは、震える声が同じ言葉を告げたことに気付いて頷く。
「怖かっ…!も、しも…っ」
もしもいつものように抱き合っている時、自分が抱いているのがリオンではなくオイゲンだったらとの恐怖に囚われていたことを告白し、ただ見つめてくるリオンの素肌に顔を寄せて歯をカチカチと鳴らしたウーヴェの背中を抱き、先日の事件の傷口がまだ閉じていないことを実感しつつ唇を噛み締める。
「そっか……それはイヤだよなぁ」
そう同意を示した直後、震える声が大丈夫だと分かっていても怖いと告げたために頷いてウーヴェの背中を撫でると、胸に抱えていたものを吐き出した安堵からか、ウーヴェが大きな溜息を吐いてリオンへと限界まで身を寄せる。
「でもさ、もうあいつはいない。それは分かってるだろ?」
怖いと思うのは分かるがもうあいつはいないのだ、それに自らが望まない限りお前と抱き合うのは俺だけだと震える背中を何度も撫でてウーヴェの顔を覗き込み、自分の言葉がちゃんと伝わっているかを確かめる。
「な、分かってるよな?」
「…っ…、あ、あ…っ」
途切れながらもしっかりと答えてくれるウーヴェに笑みを見せ、他に怖いものがないか念のために確かめようと少しだけ茶目っ気を混ぜた声で囁くとウーヴェの目が見開かれ、その目に片目を閉じて腕を掴んで身体を引き起こす。
ただされるがままに座るウーヴェのシャツに手をかけ、驚いたように口を開くウーヴェの唇に小さな音を立ててキスをしてボタンを外すことを伝えながら実行していく。
ひとつひとつボタンを外してシャツを肩から落とし、アンダーシャツの裾をたくし上げて肌に手を添わせると、最初はぴくりと肌が震えるものの、じっとウーヴェの目を覗き込みながらアンダーシャツを脱がせると、細いチェーンとその先に揺れる鍵が姿を現す。
「あ、まだ付けてくれてるのか?」
「……外せる筈が…ない」
「そっか」
鍵っ子のようだとこれを渡した夜も思ったが、リオンが思う以上の気持ちをこの鍵に込めているらしいウーヴェが僅かに目を伏せてこの鍵は天国への鍵だからと小さく笑うと、その頬にリオンがキスをして耳朶に直接言葉を流し込む。
「……お前の為だけに開く扉だな」
その天国の扉は、例えどれだけ辛く悲しい出来事を経験したとしても優しく笑って前を向くことの出来るお前にだけ開かれるんだと囁き、微かに震える腕が背中に回された事に気付いて白い髪を胸に抱き寄せる。
「ずっと持ってろよ、オーヴェ」
この決して広くて綺麗とは言えない天国、そこに入るための鍵をずっと持っていてくれとも囁いて白い髪にキスをするが、何かを思い出したように顔を上げ、首を傾げるウーヴェに片目を閉じてベッドから立ち上がると裸のままバスルームに駆け込んで同じ速さで戻ってくる。
「……オーヴェ専用の天国だな」
「リオン?」
訝るウーヴェの額にキスをし、手にした香水をベッドの上から一振りしてシーツや枕に微かに匂いを付けたリオンは、香水のボトルをサイドテーブルに置いて真剣さと茶目っ気が絶妙なバランスで入り混じる態度で、ウーヴェだけを招待するように手を差し伸べる。
「ほら」
リオンの匂いに強く惹かれるウーヴェへのささやかだがとっておきのプレゼントだと笑い、己の手に手を重ねるウーヴェの背中をシーツに沈めて見開かれるターコイズに太い笑みを見せつけながら白い髪を囲うように腕をついて額を重ねれば、くすぐったいのかウーヴェが顔をくしゃくしゃにする。
「…リーオ」
「イイ匂いだろ?」
「…うん」
「…大丈夫だよな?」
何が大丈夫なのかをはっきり言わずに問いかけるとそれを察したウーヴェがリオンの背中に腕を回して吐息で大丈夫だと答え、リオンがその勇気を称えるキスを額にひとつ、そのあと唇にもキスをするのだった。
熱の籠もった息を吐き、下半身から全身へと伝播する快感を吐息と共に体外に吐き出すと、それを体内に生み付けたリオンが満足そうに目を細めながらウーヴェの手を握り、そのまま顔の傍に軽く押しつける。
あの事件以来となる情を深めて確かめるセックスだが、リオンが己と向き合っていることを思い出させるようにキスをし、ウーヴェの視線と意識を奪っていた為にウーヴェが考えていたようにリオンを避けてしまうほどの恐怖を感じる余裕はなかった。
そのお陰かウーヴェの脳裏にオイゲンの顔は浮かばずに大きな手で身体を愛撫しキスをするリオンだけを見つめることが出来、両足の膝裏を抱えられた時にウーヴェの脳裏を占めていたのは、久しぶりにこうして抱き合うリオンの蒼い瞳と自分よりも遙かに高く感じる熱だけだった。
そして程なくして息が詰まる瞬間が訪れ、最奥を隙間なく埋め尽くす熱と質量に自然と声が挙がり、至近距離で蒼い瞳を見上げてその口から微かに零れる快感の吐息にウーヴェの身体が震え、身体の奥に入り込んでいるものに纏わり付くように中が蠕動する。
オイゲンに抱かれている時には全く無かった自身の身体の動きが以前のように感じられたことに目を瞠ると、間近にあったリオンの双眸が細められて目尻に優しいキスが降ってくる。
そのキスが一歩間違えれば恐怖に囚われそうな心を優しく守ってくれるようで、目を伏せて軽く顎を上げると今度は唇が重ねられ、絶対的な信頼感を与えてくれる恋人に思いを伝えたくて薄く目を開くと、総てを感じ取っている顔で頷かれて腰を押しつけられる。
久しぶりに挙げてしまう高い声も、知覚した途端に羞恥のあまり叫び出しそうな嬌態も今だけは忘れて白い髪を左右に振って与えられる熱と刺激をただただ享受していたウーヴェだったが、細く開いた視界で見えるリオンの顔にも快感の汗が浮かんでいて、己だけがそれを享受しているのではないと気付く。
自分だけではなく二人で気持ちよくなっている実感を得ると同時に、一方的に思いを押しつけられるそれとの違いも実感すると、快感とは違う強くて大きな何かが胸に込み上げてきて息が詰まり、その苦しさから救いを求めるように手を握ると重ねられていた手が一度離れ、金属の冷たさを伴って戻ってくる。
その冷たさが何に由来するのかを考えようとした矢先、思考のすべてを奪うように腰を押しつけられ、胸に溢れる思いと快感とが綯い交ぜになって呼吸が乱れてしまう。
重なった掌の間にある金属が何であるのかを教えて欲しいと、朦朧とする意識の中で口に出したようで、手がリオンの口元に引き寄せられてキスをされ、短い一言を返されて納得する。
自分の為だけに開かれる天国の扉、その扉を開ける為の鍵をリオンの手と重ねていることに事実以上の思いを込めたウーヴェが湿り気を帯びた息を長く吐き、声を震わせながら何度も自分だけが出来る呼び方でリオンを呼び続ける。
「────ああ」
熱に浮かされたように繰り返し名前を呼ばれてもひとつひとつに返事をしたリオンは、重ねた掌の間で鍵がどちらのものかはっきりしない熱を帯び始めたことに気付き、ウーヴェの手の甲にキスをすると再度顔の傍に軽く押しつける。
快感と熱とそれ以上の感情に潤む目を見下ろし、持てる最大限の情を込めて額にキスをするとウーヴェの手を握り直し、同じ強さで握り返されて太い笑みを浮かべる。
その後は二人の間で会話らしい会話はなく、本能よりも強く大きい情からウーヴェの身体を揺さぶり、熱の籠もった嬌声をいつまでも聞いていたいと願いつつ、白熱の瞬間が訪れるまで快感を与えあうのだった。
週末の夜の繁忙時を過ぎてそろそろメニューに欠品が出始めた頃、業者や従業員が出入りする勝手口が静かに開いて中の様子を窺うように白い髪が見え、次いで躊躇っているようなターコイズ色の双眸が厨房内を見回して目当ての人を発見したのか、安堵に細められる。
「あれ、ウーヴェ?どうしたんだ?」
そんな所にいないで入って来ればいいだろうと声を掛けたのは、ベルトランの片腕である気の良い青年で、彼の声に釣られるように皆が顔を勝手口に向けた為、ウーヴェが咳払いをしつつ後ろ手でドアを閉めて入って来る。
「今日のオススメメニューはもう終わったか?」
「まだ残ってるよ。…オーナー、オススメ一つ追加です!」
「は?──なんだ、素直になれないガンコ者か」
冷蔵庫に貼り付けた紙を見ながら考え事をしていたベルトランに青年が笑顔で料理のオーダーをすると、何事だと驚きながらベルトランが振り返り、そこに幼馴染の姿を見出して悪態をつく。
ベルトランの言葉に誰が素直になれないガンコ者なんだとウーヴェが口の中でのみ反論するものの、数日前の己の態度を思い出せばその通り過ぎて声に出して反論する気力もなくなり、作業台を撫でながら小さな声で幼馴染みを呼ぶ。
「…バート」
「…今日は車か?」
「もうすぐリオンも来る」
だからお前が心配してくれる飲酒運転に関しては問題ないと小さく笑い、腕を組む幼馴染みの顔を正面から見つめて目を細める。
「…昨日、話をした」
「そうか」
「ああ────俺の取り越し苦労だった」
目を伏せ昨夜のリオンの顔や言葉を思い出しながら報告をしていると自然と笑みが浮かんでしまい、人を心配させておいて何を笑っているんだとベルトランが瞼を平らにした為、お前が忠告してくれたから今こうして笑っていられるんだと素直に返すと、平らだった瞼が綺麗な弧を描いて顔中に笑みが浮かび上がる。
「そうか」
同じ言葉を全く違う感情で伝えたベルトランは、幼馴染みの顔に仄かに赤味が差している事に気付き、更にいつもとは違ってシャツの胸元から肌が見えてきらりと光るものも見えていることに気付くと、ウーヴェをいつものテーブルに着かせて自らも椅子を引く。
「おい、ウーヴェ」
「何だ」
「お前…そのチェーンは何だ?」
お前が首元や胸元を見せていることにも驚きだがそのネックレスは何だと、ウーヴェの過去を良く知るからこその驚きを表しながら片肘をついて身を乗り出したベルトランに軽く驚いたように目を瞠ったウーヴェだったが、ベルトランが見た中でも片手の指に入るほど穏やかな笑みを浮かべてチェーンの先端がある辺りに手を宛がう。
「天国への鍵だ」
その言葉がウーヴェの心が平和で穏やかなことを示すことに気付いたベルトランが呆気に取られたように見つめると、自慢と羞恥の入り混じった顔を少し伏せてリオンの部屋の鍵だと告げる。
「……そっか」
「ああ──本当にお前の忠告がなければ…今頃随分とひどい顔をしてここに来ていただろうな」
「どうだ、素直になって良かっただろう?」
「あいつに対しては、な」
「ったく、本当に素直じゃねぇな、ガンコ者!」
「うるさい、ぽよっ腹」
幼馴染み同士の言い合いだったが、それを制止したのはチーフの呼び声で、ベルトランが慌てて席を立って厨房に戻り、代わってチーフが白ワインとグラスを運んできて片目を閉じる。
「今日の一押しのワインとチーズです」
「ああ、ありがとう。このチーズはまだあるかな?」
「リオンの分ならちゃんと残してあるよ」
片目を閉じての告白にただ苦笑し、礼を言いながらワインを飲んで喉の渇きを癒すと、チーズを摘んでぼんやりとパーティション越しの店内を見回す。
「そのチェーン、珍しい」
「うん?ああ…そうだな」
チーフの言葉に苦笑して頷くと何だかウーヴェがするようなチェーンではないと他意なく笑われてしまって一瞬考え込んだウーヴェは、にこにこと笑みを絶やさない青年を見上げて似合わないかなと問いかける。
「そんな事は無いけど、ウーヴェなら金よりもプラチナとかレザーかなって」
「…そうか」
「チーフ、これをそこのガンコ者に出してやってくれ」
ウーヴェが思案気に目を伏せたと同時に厨房から声が掛かり、誰がガンコ者だとウーヴェがすぐさま言い返した結果、お前以外にいないと指を突きつけられて絶句してしまう。
「チーフ、あそこのバカを叩いてくれ」
「…了解」
笑いを堪えながら幼馴染みの愛情のある文句を聞き流した青年は、どうぞ召し上がれと満面の笑みで受け取った皿をウーヴェの前に置いてそれでもまだまだ忙しそうな厨房に戻っていく。
チーフには珍しいと言われたチェーンだが、今のところは他のものに変えるつもりはなく、いずれ時期を見て交換しようと決めてとっておきのメニューを食べ始めるが、ドアが開いて金色の嵐が浮かれた足取りでやってきた事に気付き、パーティションの影で席を移動する合図をベルトランに送ってさり気ない動きで立ち上がると、カウンターの内側でベルトランと話し込んでいた風を装ってリオンが先に席に着いた窓際のいつものテーブルに向かう。
「お待たせ、オーヴェ」
「ああ。お疲れ様」
いつものように向き合ってテーブルに着いた二人は、ワインとビール、そして一押しだというチーズの山盛りを運んできたチーフに礼を言い、リオンの前にチーズの器をそっと差し出す。
「わ、食って良いのか?」
「ああ」
自分の好物を目の前にしてじっとしていられるリオンではない為、きらきらと眼を光らせながら見つめられるとイヤとは言えず、どうぞと掌を向ければ嬉しそうにチーズを口に運び始める。
「今日の仕事はどうだったんだ?」
「うん、そんなに面倒くさいことはなかったかな」
「そうか」
週末だが今日も仕事だったリオンが一日を振り返って平気だったと笑うが、その笑いの質を一気に変化させた為、ウーヴェが不気味な目をするなと身体を仰け反らせる。
「オーヴェ、俺がシャワー浴びてても起きなかったよな」
「!!」
今朝出勤する為にリオンがいつものように目覚ましをセットしていたのだが、その目覚ましの音にもリオンが立てる物音にも気付かなかったようにウーヴェがシングルベッドでぐっすりと眠っていたのだ。
そんなに昨日は良かったのかと、ぞくりと背筋が震えるような声音で問われて精一杯の虚勢を張るように何の事だと呟くと、本当に素直じゃないんだからぁと、いつものお決まりの文句がリオンの口から垂れ流される。
「久しぶりだったからさ、俺もちょっと頑張ったけど……」
昨日のウーヴェは本当に本当に、言葉が出ないほど壮絶に可愛くて色っぽかったと片目を閉じられてあまりの言葉に絶句したウーヴェは、震える声で男に向かって可愛いと言うなとだけ何とか言い放ち、羞恥を隠すようにグラスのワインを飲み干す。
「……何の話だ?」
「おー、ベルトラン!このチーズ最高!」
美味すぎて山盛り食べてしまうけど、ウーヴェが食べているものを自分も食べたいとアピールしたリオンは、ベルトランが微苦笑を浮かべてチーフにオーダーを通してくれた為に満面の笑みを浮かべてウーヴェにも笑いかける。
「そうか…おい、ガンコ者、そのワインはどうだ?」
「…一ダース取っておいてくれ」
「分かった」
まだ購入したばかりだから残っていることを思い出して頷いたベルトランは、リオンの顔が不気味に笑み崩れていることに気付いてウーヴェに顔を近づける。
「どうしたんだ?」
「…何でもないっ」
ベルトランとウーヴェの色の違う瞳が視線を交わしあうが、その前ではリオンがいつまでも顔をにやつかせていて、いい加減にしろとウーヴェがリオンを睨み付ける。
「おい、キング、何があったんだ?」
「ん?────いや、オーヴェが本当に可愛いなぁって話」
「は?」
これのどこが可愛いんだとベルトランが素っ頓狂な声を挙げ、ウーヴェがこれとは何だと幼馴染みを睨み付けるが、素っ頓狂な思いから好奇心へと気分を切り替えたらしい彼がリオンに更に顔を寄せて教えろと囁くと、リオンの顔が一瞬にしてきりりと男前なものになる。
「今朝オーヴェが起きられないほど愛し合ったってはな……ぃたい痛い痛いイタイっ!!」
リオンが言い切る寸前にウーヴェが無言で手を伸ばし、青い石のピアスが填っている耳を掴むと同時に思いっきり引っ張った為、リオンが情けない顔で悲鳴を放つ。
「うるさい」
「いたーい!ごめーん、オーヴェぇ!!」
調子に乗りました、ベッドの中のオーヴェが本当に可愛くて、失神してしまった後も一回抜いてしまってごめんなさいと、更にウーヴェの顔を青ざめさせることを捲し立てたリオンは、己の周りの空気が凍り付いたことに気付き、思わずベルトランの服を握りしめて一緒に凍り付いてくれと懇願する。
「ちょ、冗談じゃないぞっ!」
「ベルトラン、助けてくれー!」
情けない顔でベルトランに縋り付く恋人を極低温の視線で睨み付けたウーヴェは、反省しているのかと問いかけ、何故かベルトランと一緒に頷くリオンに溜息を吐き、オススメメニューのクヌーデルにやるせなさや羞恥をぶつけるようにフォークを突き刺す。
「…ったく、八つ当たりをするな」
「うるさい、ぽよっ腹」
ウーヴェの一言にベルトランが身体を仰け反らせ、このままここにいれば間違いなく針山に座る方がマシな状況に追い込まれることに気付いてそそくさと立ち上がって厨房に戻っていく。
逃げてしまったベルトランを名残惜しそうに見つめたリオンだが、確かに調子に乗ったと反省して許しを請うように下手に出るが、じろりと睨まれてしまって肩を落とす。
「…頼む、から、あまりああいうことを言わないでくれ」
「…うん」
ごめんと素直に謝ったリオンは、程なくして運ばれてきた料理に顔を輝かせ、ウーヴェが召し上がれと言ってくれるのをしおらしく待ってみると、微苦笑混じりに掌を向けられ、二人揃って食べ始める。
「…なぁ、オーヴェ」
「どうした?」
半ばまで食べ進めた時、不意にリオンが手を止めてウーヴェをじっと見つめ、どうしたんだと首を傾げると小さな声でもう怖くないかと問いかける。
その質問にすぐに答えを出さなかったウーヴェだったが、見つめてくる蒼い瞳を信頼の目で見つめ返して自然な笑みを浮かべると、お前がいるから平気だと小さく囁く。
「……そっか」
「ああ」
その短いやり取りを交わした後はその話題についてどちらからも触れることはなく、今回の一連の事件がウーヴェに与えた傷がリオンによって癒されつつあることを改めて気付いたウーヴェがそっと礼を言う。
「……ありがとう、リオン」
「どういたしましてー」
あんなにも可愛くて色っぽいウーヴェを拝めたのだからと戯けた風で全てを受け入れてくれるリオンに内心でも感謝をし、胸元にぶら下がっている鍵をシャツの上から手で押さえて目を伏せて小さな笑みを浮かべるのだった。
そんな二人の姿を厨房の中からベルトランが安堵に目を細めながら見守っているのだった。
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