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まなこ〜友
117
#ますしき
T
5,800
朝の光で目を覚ますと、私はまだ雅の腕の中にいた。
昨夜の自分は、どうかしていたと思う。好きだと言われたわけでも、関係を定義されたわけでもない。気になっていた人との恋を、始まる前に自分で壊してしまった。
これ以上の惨めさに耐えられず、そっと腕を抜け出した。床に散らばった衣類を拾い集め、腕を通しボタンを留めていく。
「ん……、夏帆?」
背後から伸びてきた腕に、そのまま引き戻された。
昨夜、ただ抱かれただけの相手に、こんなにも優しく触れられるだけで泣きたくなってくる。
この優しさに意味なんてない。きっと、彼にとっては一夜限りの暇つぶしに過ぎない。そう自分に言い聞かせれば言い聞かせるほど、胸が抉られるように苦しい。
「私、帰りますね。もうこれっきり来たりしないので安心してください」
顔を覗き込もうとする彼に、必死で物分かりの良い女の笑顔を取り繕った。重荷になりたくなかったから、せめて後輩という居場所だけは守りたかったから。
雅は私の顔をじっと見つめた後、ふっと微かな笑みを浮かべて私の頬に手を添えた。逃げられないように顔を固定され、降ってきたのは恋人に贈るような、甘く、深い口づけ。
私の気も知らないで、なんて酷い人。
唇が離れても、鼻先が触れそうな距離で視線が絡み合う。
「……何で。これっきりとか言うなよ」
彼の掠れた声が私の鼓膜を震わせ、思わず目を見開いた。自分にとって都合のいい夢を見ているのではないかと、耳を疑うような言葉だったから。
「だって、もう次無いですよね……?」
「物わかり良くしようとしなくていいよ。これで最後にする気無いから」
「え……?」
彼は私の髪を掬い、そこに唇を落とした。けれど、そんな甘美な仕草も今は目に入らない。
言葉の意味を必死に探る私を彼は逃がさず、ふっと柔らかく笑みを零した。
「付き合って、夏帆」
そんな最低な形で、私達の恋は幕を開けた。今思えば、これ以上ないほど最悪で、最低な始まりだった。
それから大学内では、雅とは廊下などで時々すれ違ったが、私はその度に照れくささと緊張で、わざと視線を外し、別方向を向いた。
だけど彼は、すれ違いざまに私の指先をするり、と撫でたり、肩をぶつけたりと悪戯を仕掛けてくる。
お互いに恋人がいるという事実は公言していたけれど、その相手が誰なのか、などは周囲には一切伏せていた。
その理由は私が”交際を隠したい”と頑なに主張したからだ。
「交際隠したい? 何で?」
「雅先輩は……、その、凄くモテますし、そんな方と入学早々一年の私が付き合ったってなると、凄く目立ちますし……」
そう問われた時の、雅の不機嫌そうな顔を今でも覚えている。今ならわかる。付き合いたての彼女に隠したいなんて言われれば、誰だって面白くないとは思う。だけど、当時の私にとっては平穏な大学生活こそが最優先だった。
雅と付き合っているなんて知れ渡れば、彼に好意を持つ先輩方からは睨まれ、同級生からは好奇の目に晒される。根も葉もない噂や悪口の標的になるのは目に見えていた。
目立つことが何より苦手な私にとって、それは平穏な日常の終わりを意味している。
「じゃあ、夏帆はこれまで通り俺が誰かに迫られたりしても平気なの? 俺は、夏帆が誰かに口説かれてても見て見ぬふりしろってこと?」
「自分の身は自分で守りますし! 彼氏がいるというのは言っておくので口説かれないです!」
「……いつまでお子ちゃまな恋愛を想像してんだか。大学で相手が分からない彼氏を気にする奴なんかいないよ」
「……雅先輩との仲を誰かに何か言われるのが嫌なんです」
必死に訴えると、彼は面倒そうに頭を掻いて「わかった、じゃあその通りにする」と引き下がった。あの時は物分かりの良いふりをして、そう答えていたくせに蓋を開けてみればこの有様だ。
すれ違いざま、約束を破る雅を睨みつけると、雅は子供っぽく舌を出して笑った。悔しいけれど、そのクソガキじみた表情さえ今の私には愛おしく思えてしまった。
それからも、彼は執拗に私に近づいては揶揄う様な態度をしていた。
学食で目が合えば、雅先輩はふっと笑みを浮かべ、わざわざ私のすぐ隣のテーブルに陣取る。私は必死に距離を保とうとしているのに、あの男はこの秘密が露呈するかしないかのスリルを、心底楽しんでいる。
本当に、性格が悪い男。
至近距離に座られれば、嫌でも向こうの会話が耳に入り込んでくる。私は平然を装いながらも、全神経を隣のテーブルに座る雅たちの会話に集中させていた。
「最近雅付き合い悪くね?」
「今は付き合いはじめで、可愛い彼女にお熱だから」
「きっしょ」
友人たちに揶揄われても、雅先輩はどこ吹く風。なぜか私の顔ばかりが急速に熱を持っていく。
隣に座っていた友人が「夏帆、大丈夫?」と顔を覗き込んできた。私は何とか頷いて見せ、震える手で水を飲み干す。
私がすぐそこにいると知っていて、なぜ平然とそんな爆弾を放り投げられるのか。雅先輩のように器用になれない私は、隠し通すことに人一倍の労力を費やしていた。
「同い年?」
「いや、年下。大人っぽいのに初々しくて可愛い」
私の前では一度も口にしたことがないような甘い言葉を、第三者の前で、あえて私に聞こえるように吐き出す。
友達の前で分かりやすく惚気けて、反論できない私の反応を見て楽しんでいる。人がこれほど苦労していようが、奴にとってはただの遊びでしかない。
「夏帆、耳と顔真っ赤。本当に大丈夫? 熱あるんじゃないの?」
「ちょっと熱くなってきたよね、もうすぐ梅雨入りだし」
自分でも呆れるほど苦しい言い訳を口にする。
堪りかねて彼を睨みつけると、雅先輩もこちらを見ていた。そし私にしか分からない様に、ふ、と笑みを零している。
ずるくて、意地悪で、怒りたいはずなのに、胸の奥から湧き上がる喜びを抑えきれない。
私にしか届かない視線を投げかけられるだけで、それだけで何もかも許せてしまう。
こういうところがずるくて、好きだ。
「にしても、雅先輩彼女出来ちゃったのか。どんな美人な彼女なんだろ」
隣で溜息を吐く友人に、私は苦笑いを返す。
同時に、喉の奥に苦い罪悪感が込み上げた。
(ごめんなさい。美人でも何でもないんです。私がその彼女なんです)
そう心の中で何度呟いても、自信のなさが勝って、公表なんて、とてもじゃないけれどできなかった。
「てか夏帆も最近年上の彼氏出来たって言ってなかった? 二つ上の」
「えっ」
思わぬ方向から飛んできた話に、心臓が跳ねた。
雅が年下の彼女の話をした直後で、結びつけられやしないかと、背中に冷たい汗が流れた。
だけど、ここで動揺して嘘を重ねるわけにもいかず、私は辛うじて真実だけを口にした。
「あー、うん。一ヶ月くらい前に」
「えー、じゃあラブラブじゃん? いいなあ、彼氏。私もサークルに良い人居るけど、アタックするの難しくてさあ」
「そうなんだ」
ラブラブなのかどうかなんて、私自身には分からなかった。
”外でデートすればバレるから”という彼の言葉を鵜呑みにして、会うのは決まって彼の部屋か、私の部屋。
これほど遊び場所には困らない土地だと、知り合いに会う確率なんてたかが知れている。
たとえ出くわしたとしても、言い訳なんていくらでも作れるはずなのに、彼は頑なに、私を外へ連れ出そうとはしなかった。
もしかしたら私は彼女という名前を貰っただけの、ただのセフレなんじゃないか。
彼を知れば知るほど、好きになればなるほど、芽生えた不安はじわじわと私の心を侵食していく。
コメント
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第12話、読み終えました……。 朝、逃げ出そうとする夏帆を引き戻して「付き合って」って言う雅、ずるすぎる。あの優しいキスのあとであれって、卑怯だよ。 学食でわざと隣の席に座って、夏帆にだけ聞こえるように惚気るのも、完全に遊んでる。でも「私にしか届かない視線」に胸がときめく夏帆の気持ち、すごくわかる。 「セフレなんじゃないか」って不安に飲み込まれていくラスト、続きが気になりすぎる……。