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縁側に優しい月光が降り注いでいる。夜叉ヶ池から夏の風に乗り、蛍が漂ってくる。フワフワと浮かぶ緑色の光は、闇に咲く花の様だ。
「イナリ……」
典晶の声に、縁側に腰を下ろしたイナリがこちらを向いた。
緑色の浴衣を着たイナリは、足をたらいに張った水の中に付けて涼んでいた。腰まである長い髪は首筋で一つに纏められ、頭の上で団子に結ってある。露わになっているうなじが淡い光を受けて艶っぽく輝いている。
「典晶か。どうした、明日も学校なのだろう? 休まなくてもいいのか?」
典晶はイナリの隣に腰を下ろすと、持っていたアイスを手渡した。しげしげとアイスを見ていたイナリだが、典晶が口にする所を見ると同じように口に運んだ。
「ン…ッ! 冷たくて甘いな…」
イナリが眉間に皺を寄せる。
「あ、冷たいのは平気か? 甘いのは苦手だったか?」
人の姿をしていると言っても、イナリは狐だ。人と嗜好が違うだろうし、食べてはいけない物もあるのかも知れない。
「いや、平気だ。初めて食べたからな……少し驚いた」
ペロペロと赤い舌を出して、イナリはアイスを舐め始めた。ホッと肩の力を抜いた典晶を見て、イナリがクスリと笑った。
「私は幸せ者だ。こうして典晶と向き合っていられる。早く宝魂石を集めて、常にこの姿で典晶の隣にいたい」
イナリの言葉を聞く度に、典晶の心は重くなる。イナリが如何に美しかろうと、自分を愛していようとイナリは人ではない。何故、イナリのような美人が典晶の事がそこまで好きなのだろうか。典晶は、イナリの言葉を額面通りに受け取ることができずにいた。
「そうは言うけど、宝魂石を集め終わっても、俺がお前と結婚するとは限らない。……宇迦さんとお前には悪いけどさ」
「………分かっている。すぐに決めろとは私も言わない。もし宝魂石を集め終わって、それでも私のことを好きになっていなかったら、私は潔く典晶の前からいなくなる」
典晶は言葉に詰まる。どうしてイナリは迷うことなく典晶のことを想ってくれているのだろう。典晶と結婚して、イナリに何かメリットがあるとでも言うのだろうか。
「まあ、そんな事は断じていないがな」
イナリはアイスの棒をペロペロと舐めていた。
「私は絶対に典晶を惚れさせる」
「余程自信があるんだな」
棒に付いたアイスの最後の一欠片を口に入れた。
「当然だ。私は宇迦之御魂神の娘だぞ? 美貌、スタイル、献身的な性格、どれをとっても妻として最高だろう。典晶を惚れさせるくらい朝飯前だ」
口元を押さえコロコロと笑うイナリ。典晶はイナリの横顔に目を奪われながらも、ずっと気になっていたことを尋ねた。
「何で俺なんだ? 確かに、お前だったらどんな男だってものにできるだろう。人間じゃなくて神様だって……。土御門家がモノノケの嫁をもらうのが仕来りでも、イナリにも相手を選ぶ権利があるはずだろう?」
時や場所が変われば女性の『美しさ』の概念が変わることを典晶も知っている。神の基準が人間と同じとは限らないが、イナリは決して悪くはないはずだ。
典晶の言葉を聞いたイナリは、たらいに付けた足を動かした。飛沫がキラキラと闇夜に舞い散る。
「典晶が良いんだ。私は典晶と添い遂げると昔から決めていた」
「ずっと疑問に思っていたんだ。昔、イナリと遊んだことは覚えている。だけど、それだけの理由でイナリが俺を好きになるとは思えない。土御門の姓を名乗ってはいるけど、俺は何の力もないし、家には神様が欲しがるような家宝だってない。……単純に、モノノケと結婚するって言う、晴明の作った仕来りが理由なのか?」
一瞬、真面目な顔をしたイナリだったが、すぐに吹き出した。今まで見た事の無い笑顔で、イナリは笑い出した。
「何を言い出すかと思えば。そんな事を考えていたのか? 私がそんな理由で人間と添い遂げると思っているのか? 仕来りだろうが、土御門が素晴らしい力を持っていようが、神器を持っていようが、私は好きでもない男と褥(しとね)を共にしようとは思わない。何度も言っているが、私は典晶だから一緒に居たいと思っている」
一頻り笑ったイナリは、零れる涙を指先で拭った。
「……典晶は、あの時の事を忘れてしまったのか?」
少し寂しそうな表情を浮かべ、イナリは上目遣いでこちらを見つめてくる。
「あの時の事?」
イナリは頷く。
『あの時』という言葉に、典晶は心当たりがなかった。イナリと出会ったのは、小学生低学年の頃だ。あの時に何かあったというのだろうか。断片的な記憶しかなかったが、典晶が覚えているのは夜叉ヶ池の回りでイナリと一緒に遊んだことくらいだ。
「何かあったっけ?」
「覚えていないのか?」
イナリは不満そうに頬を膨らませる。
「じゃあ、宝魂石を集めている間に思い出すんだな」
「何だよ、教えてくれたって良いじゃないか」
「私が話してしまったら興が冷めるだろう。時間はある、ふとした切っ掛けで思い出すこともあるだろう」