「あの、高原さん……?」
彼の少し後ろを歩いていた私はきょろきょろと周りに目をやった。それはよく知る街並みだった。
彼は歩を緩め、私の隣に並ぶ。
「どうした?」
「いえ、どこに向かっているのかな、と」
「あぁ、すぐそこだ」
高原の目が示したその入り口を目にして、私は動揺する。
「もしかして、楡の木ですか?」
「知っている店だった?」
「え、えぇ、まぁ、知っているというか……」
短期間ではあったが、学生時代にアルバイトで世話になった、とてもよく知る店だ。二か月ほど前には、高原と初めて会った飲み会の後、飲み直したくなって一人で店を訪れていた。
「何かまずいことでも?」
「いえいえ、そんなことは全然」
笑顔で答えながら、心の中では焦っていた。あの夜私はマスターの田上を相手に、高原のことをさんざん愚痴ったのだ。しかし、その愚痴の対象と私が一緒にいるとは田上も思わないだろうし、黙っていればきっと分からないはずだ。気を取り直して、とりあえずの話題を探し、もっとも平常心でいられそうな仕事の話を持ち出す。
「えぇと、今回頂いた契約というのは、このお店の方のですか?」
「あぁ、ここのマスターのね。ずっと前から知っている店なんだ。いわゆる常連っていうのかな。もっともここ何年かは、前ほど頻繁にも来ていなかったんだけど」
「常連……?」
その言葉を聞いた途端、背中に変な汗が吹き出しそうになった。
視線を感じて見上げると、高原はなぜか笑いをこらえたような顔をしている。
「早瀬さん、大丈夫か?」
「え?えぇ、全然問題ありません」
私は固い笑顔を作った。
「そうか?さて、行こうか。席を取ってもらってるんだ」
どういう顔をして入るのが一番いいのか考えた。しかし答えは出ず、階段の手前で登るのをためらう。
後を着いてこない私に気づいて高原が振り返った。
「早瀬さん、行くよ」
「は、はい」
こうなったら成り行きに任せるしかないと諦める。小さなため息をつき、階段にゆっくりと足をかけた。
登り切って少し行った先にあるドアを開けて、高原は私が来るのを待っていた。
うつむき加減に彼の前を通って店の入り口をくぐる。
私たちを出迎えてくれたのはよく知る声だった。
「いらっしゃい!」
私の頭の上を通り越して高原を見た田上は、その顔にぱっとした笑みを浮かべた。
二人が顔なじみなのはどうやら本当らしいと思いながら、私はさり気なく高原の後ろに下がる。
「高原君、待ってたよ。窓際の席にしておいたけど、それで良かった?」
「はい。それと、今回は契約もありがとうございました。今日来たのはそのお礼も兼ねてます」
「こっちこそ色々とありがとね。ところで、確か二人って言ってなかった?」
「はい、二人でいいんです。俺と……」
高原は自分の肩越しに振り返り、私を呼ぶ。
「早瀬さん」
私は彼の背中の陰からおずおずと顔を出した。照れ臭い。
田上の目が大きく見開かれた。
「あれっ、佳奈ちゃんっ!えっ、何?どういうこと?」
私は曖昧に笑いながら説明した。
「えぇとですね。今、仕事でお世話になっているんです。こちらの高原さんから」
田上は私と高原の顔を意外そうに見ていたが、何かを納得したかのように頷いた。
「なるほど。そう言えば、佳奈ちゃんはそういう関係の会社で働いているんだったね。ほぉ、しかし高原君とねぇ……。まぁ、まずは座って!」
どこか浮足立って見える様子で、田上は私たちを席へと案内した。
テーブルに着き、彼の背中を見送りながら、先程ちらと気になったことについて思いを巡らせる。それは田上が私を下の名前で呼んだ時のことだ。
その呼び方から、私たちが親しい間柄だということに、高原は気がついたはずだ。それなのに、どうしてそのことに触れなかったのだろう。彼は以前からこの店に来ていると言った。もしかしたら、実は私たちはすでに会っていた可能性があって、田上が私を「佳奈ちゃん」と呼んでいたことを知っていたから、疑問に思わなかったのだろうか。
アルバイト時代の記憶を探ってみたが、思い当たる人物は浮かばない。私が気づいていなかったのか、あるいは思い出せないだけなのかと、いつの間にか考え込んでしまっていた。
「早瀬さん?」
高原に呼ばれて我に返る。
「は、はい。なんでしょうか」
居住まいを正す私の前に、彼はメニューを広げる。
「注文しようと思うんだけど、君は何を飲む?」
「それでは、高原さんと同じものにします」
「俺は今日、ドライバーだから、ノンアルだよ」
「え?代行とか使えばいいのでは?」
目を瞬かせる私に、高原は微笑みながら首を振る。
「帰りは早瀬さんを送って行きたいから、今夜は飲まない。でも君は、飲みたい気分なんじゃないのか?俺のことは気にせずに、好きなのを頼んだらいい」
「飲みたい気分、って……。どうしてそう思うんですか?それに、私はタクシーで帰りますからお気遣いはいりません」
彼は少し考える素振りを見せてから、からかうような目つきで私を見た。
「最初の質問の答え。今日の早瀬さんは、今まで無視していた俺の電話にうっかり出てしまうくらい、気持ちが穏やかじゃなかったのかな、と思った」
私は目を伏せた。確かにある意味当たっている。そういう気分ではあった。しかしそれ以上のことは追求しないでほしいと思う。
「二つ目。俺が送っていくから、タクシーはいらない。以上」
「結構強引ですよね、高原さんって」
苦笑した。しかし心の中では、彼から確かに伝わってくる私への気持ちを嬉しいと思う。
「ということで、もう勝手に注文するぞ。マスター、注文お願いします」
待ってましたとばかりに、田上がにこにこしながらやって来た。
「俺はウーロン茶、彼女にはレモンサワー。料理は軽め。あとはお任せってことでお願いします」
「了解!」
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