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どのくらい歩かされただろう。小石の混ざった土の上を裸足で歩き続けている。足の裏の痛みが徐々に増し、ふくらはぎに疲れを感じ始めると、後にあるレンガの建物の扉が開き、小柄な化け物が広場へと入って来た。化け物は大和達には見向きもせず、一番奥の人間小屋へと入って行った。「あいつはチュウタだ」ユキジイが言った。 大和はここへ来てから三種類の化け物を目にしていた。それらを「デカオ」「チュウタ」「チビスケ」と、自分達は呼んでいると前を歩くユキジイが教えてくれた。
見たままの幼稚なあだ名に、大和は笑みを浮かべた。
広場を半周ほど回ると、チュウタは一本のロープを片手に持ち、小屋から出てきた。ロープの先には二人の小さな子供が繋がれている。見た目からして小学 校低学年くらいと思われる女の子だった。服は身に着けておらず、髪の毛もない。二人の女の子は騒ぐこともなく、素直にチュウタの後を追っていく。チュウタは手前の小屋の前に立っていた柵に、手にしていたロープを結びつけると、今度はその小屋の中へと入って行った。小屋の中から流れ出てくる悪臭が大和の鼻を突く。小屋の前に差し掛かった大和は顔を歪めた。吐き気を催すような匂いに耐えながら、大和は小屋の中を覗きこんだ。右側の列には男達がずらりと奥へと並び、左側の列には女達が並んでいる。奥行は深く、百メートル以上はありそうだった。
大和の頭の中に、小学校の遠足で見た酪農牧場の牛舎の様子が思い浮かんだ。一人一人の首輪に繋がれたロープが一定の間隔で太い木製の梁に繋がれている。一人一人のスペースは、およそ畳一畳分であろうか。二人に一本の間隔で立つ柱には、鉄製と思われる水の張られた小さい洗面器のような物が据え付けられている。手前にいた男が、洗面器に顔を入れ、ジュルジュルとその水を飲み始めた。洗面器にはプラスティック製のウキが浮かんでおり、水が減ってウキが沈むと水が自動的に足される仕組みになっているようだ。男が顔を上げ、ウキが浮かび上がると給水は止まった。
ユキジイの後を追い、レンガの建物の前に来ると、半分ほど開いた扉の隙間から建物の中が見えた。
「見ない方が、いいすよ」
後から聞こえるリョージの声が、そう促したが、好奇心に煽られた大和は中を覗いてしまった。
手前に置かれた血まみれの機械には、大きな丸鋸の歯が付けられている。それは、現場の外工屋がアスファルトを切断するときに使う機械によく似ていた。更に奥を覗くと、大和の頭の天辺からザーッと一気に血の気が引いていった。大和の背筋が痛いほどに凍りついていく。
逆さに吊るされた人間達に首は無く、それらは、ゆっくりと動くベルトコンベアーのように建物の奥へと進んで行く。マスクをつけた別のチュウタが目の前にきた死体を大きなまな板の上に下ろすと、出刃包丁で死体の腹を切り裂いた。板の上にはデカイ中華包丁も刺さっている。チュウタは出刃包丁を傍らに置くと、死体の腹に手を突っ込み、内臓を引きずり出して床に捨てた。大和は、この時点で目を逸らした。視線を下に逸らした大和の目に映ったのは、落とされ積み上げられた人間の頭だった。扉の陰に隠れていたチビスケが、大和が移動するにつれ姿を現すと、チビスケは落ちている頭を片手で拾い、丸い板の上に乗せた。チビスケは鉈のような物で頭をかち割ると、頭から脳を丁寧に取り出した。大和は耐えられず、目をつぶった。
断! 断! という音が、目をつぶっていた大和に、その凄まじい光景を思い浮かばせる。
「なにも、あんな子供を食わなくったってよう」
目をつぶっていた大和の耳に、ユキジイの声が聞こえた。
「だよね。俺らが仔牛や仔豚を食べていたのと同じ感覚なのかな」
リョージの言葉を聞いた大和は、目を開いた。さっきの二人の女の子の他に、二十代くらいの四人の女と二人の男が、チュウタに手綱を握られ、こっちのほうへと歩いてくる。大和は眉間に力を入れながら、その人達の顔を見つめたが、皆あっけらかんとした表情で、チュウタの後を追っていく。そしてレンガの建物の中へと順番に姿を消すと、建物の扉は閉められた。
抵抗する音も、叫び声も、とくには聞こえなかった。しばらくすると、シュイーンという音が聞こえ、ブシュッという音と同時に「ギャ!」という短い声が聞こえた。そして、頭が床に転がる音がした。それらの音が五回繰り返された後、大和達は自分達の部屋へと戻されていった。
部屋に戻ると、食事が運ばれてきた。大和は、いつものようにトレイを膝の上に乗せた。だが、とてもそれを食べる気にはなれない。湯気と共に立ち上がってくる匂いを嗅いだ大和の喉仏に胃液が上ってくる。大和はトレイを鉄格子のほうへ撥ね飛ばし、慌てて便器へと急いだ。
便器にしがみ付き、三回ほど吐くと、大和はトイレットペーパーを手に巻き付け、鼻をかんだ。そして水を流すと、便器の横にうずくまった。鼻の奥から胃液の混じった鼻水が垂れてきたが、大和はそれを拭おうとはしなかった。大和は何も考えられなかった。考えたくもなかった。そんな大和の頭の中に、まだ見ぬ未来を抱いた笑顔の陽子の姿が思い浮かんだ。
──帰りたい。一刻も早く、ここから逃げ出さなければ・・・。
しばらくすると錠前を外す音がして、大和が顔を上げると部屋の扉が開いた。重い足音が近づいて来ると、大きな手が大和の首輪をつかんだ。大和はデカオに体を持ち上げられると、床の上に仰向けにひっくり返された。
デカオは、ワゴンから大きな注射器のような物を取り出すと、一緒に取り出した新しい餌をその中に流し込んだ。そして大和の頬を片手で圧迫し、口を開けさせると、注射器の先に付いていたゴムのチューブを大和の喉の奥へと刺し込んだ。太い胃カメラを麻酔も無しに無理やり押し込まれるような感覚はとても苦しいものであったが、大和は全く抵抗しようとはしなかった。
デカオが注射器から餌を押し出すと、大和の胃が一気に膨らんでいく。この時大和は、子供の頃に飼っていた文鳥のヒナに、餌をやった時の事を思い出していた。
──抵抗しても、おそらく一捻りで殺されてしまうだろう。こいつの中には、あの時の自分の中にあった慈悲や、優しい心など、そこに転がるアルミ製の器に付く錆びほども無いのだから。
デカオは、無抵抗の大和から注射器を無造作に引き抜くと、トレイを拾い、重い足音と共に部屋の外へと去っていった。大和は這うようにベットへと上ると仰向けに横たわり、そまま静かにまぶたを閉じた。
夢を見て、目を覚ましても、そこは檻の中だった。大和はベットから起き上がり、床にある小石を拾うと、壁に近づき線を引いた。大和は何度か大きく息をすると、持っていた小石を檻の外に投げ捨てた。大和は部屋の奥へ行き、便器に座り込むと、うつむいて両手で頭を抱える。大和はしばらく、その姿勢を保ったまま動かなかった。
大和はベットに仰向けに横たわり、天上に出来た茶色いシミを眺めていた。すぐ傍に森があるにもかかわらず、心を癒す鳥の声すら聞こえてこない。大和は目を閉じ耳を澄ました。すると自分の意思に逆らうかのように腹の虫が鳴り出した。
タイミグを計ったかのように、引き戸を開く音が外から聞こえてくる。大和は起き上がり、部屋の奥へと行くと、身を隠すように便器に座り込んだ。ステンレスのワゴンが部屋の前で止まると、またあれが鉄格子の下の隙間から押し入れられた。大和は便器に座り込んだまま石造のように動かない。しばらくして、デカオが再び部屋の前にやってくると、大和は便器から降り、重い体を引きずるように這いつくばってベットの脇まで行くと、仰向けになって床に寝そべった。注射器を持ったデカオが扉を開け、部屋に入ってくる。デカオは手つかずのまま床に置いてあった餌を注射器に入れると、横たわる大和の顔を大きな手でつかんだ。また太いゴムのチューブが喉の奥に押し込まれていく。大和は、その苦しみに涙を流した。
作業を終えたデカオが、部屋を出て遠ざかって行くと、リョージが声をかけてきた。
「無理してでも、自分で食べたほうがいいすよ」そうリョージは大和を気遣ったが、大和は返事をしなかった。
ユキジイは「馬鹿だな、お前は」と、酔った口調で言うと、大きなゲップをして、それ以外何も言わなかった。
ぼうっとした時間が、ただ意味もなく流れていく。沈むことのない太陽が、外を明るく照らし続けているが、薄い陰に覆われた部屋の中を照らす事はない。威圧する影が現れ、またあれを運んでくる。足元の隙間から、餌の盛られたトレイが入れられたが、大和はベットに座り込んだまま動かない。ムッとした様子のデカオが部屋の扉を開けると、大和はまた同じ行動をとった。床に仰向けになり、口を開け、目を閉じる。あれを自分で食らうよりは、この苦しみに耐えるほうが、よっっぽど楽だった。大和は「とっととやれ」と言わんばかりに大の字になって寝そべっていた。するとデカオは、突然大和の髪を鷲づかみにする。力ずくで起こされた大和が目を開けると、風を切る音と共に、いきなり棍棒が目の前に現れた。
「ヤバい!」と思うと同時に、大和の左頬に衝撃が走る。メリメリという音が耳のすぐ傍で鳴り響くと、大和の気が遠ざかった。
その後、何発殴られたのかはわからなかった。痛みよりも、このまま頭がどこかへ飛んで行ってしまうのではないかと思うほどの衝撃のほうが強く感じられた。ぼんやりとしていく世界の中で、喉にまたあの苦しみを感じると、再び顔面に衝撃が走り、背中に硬い物がぶつかった。それが壁なのか、床なのかは、大和にはわからなかった。大和は痛みから逃げる為に目をつむり、そのまま静かな闇の底へと堕ちて行った。
「大和さん、大丈夫っすか? 大和さん」
自分の名を呼ぶ声に、大和は目を覚ました。目の下に見える頬が、異様に膨らんで見える。右の瞼は重く、半分ほどしか開かない。
大和は床から起き上がると「大丈夫だ」とリョージに答えた。だが、腫れ上がった唇から押し出されたその声は、ちゃんとした言葉にはなっていなかった。
「だいぶ痛めつけられたみたいだな。だから言っただろってんだよ」
ユキジイは、いつもの酔った口調で言った。
大和は、ジンジンとした熱さを感じる自分の顔に、恐る恐る手をかざした。自分の頬が、やけに遠くに感じる。妙な感じのするその頬をほんの少し押しただけで、頬の中にある痛みの爆弾が破裂した。まるで爆弾の詰まったアンパンマンにでもなったかのような気分だった。
大和はベットからタオルを取ると、便器の水を流し、タンクに流れる水でタオルを濡らした。軽く絞ったタオルを顔に当てると、ジンジンとする痛みがタオルに吸い取られるかのように和らいでいく。大和は顔にタオルを当てたままベットに座り込んだ。大和は唇にタオルを当て、痛みが引くのを待った。何度もタオルを折り返し、冷やしていると、徐々に唇の痛みが取れていった。大和はタオルをずらし、ゆっくりと口を開いた。
「ここから、出る方法は、ないのか?」
大和は顔を歪め、再びタオルを口に当てた。
リョージは、何も答えなかった。
──自分でなんとかするしかないか・・・。
大和がそう考えると、ユキジイが大和の問いに答えた。
「ねえこともねえよ」
大和は、つむりかけた目を見開き、タオルを外した。
「どうすればいい?」
勢いよく出した言葉が大和の唇を痛めつける。大和はまた顔を歪め、タオルの冷たい部分を探し、熱を帯びた唇に当てた。
ユキジイは、少しの間をおいて答えた。
「ただよう、これは一か八かの大勝負だぜぇ。失敗すりゃ、間違いなく屠殺場送りよ」
大和が、唇から痛みが引くのを待っていると、リョージが喋り始めた。
「やめといたほうがいいって。ユキジイ、一度失敗して痛い目にあっただろ。無理だって」
「うるせぇ! 無理じゃねぇって。あんときゃ、左手だったから失敗したんだよ。ちゃんと右手をつかってりゃあ、うまくいってたんでぇ! まったくよう、何も手首切るこたぁねぇのによう」
ユキジイは消え入るような声でそう言うと、鼻をすすった。大和はタオルを外すと、ゆっくりと言葉を押し出した。
「どういう、事なんだ?」
大和が再びタオルで口を覆うと、隣から大きなイビキが聞こえ始めた。
「あーあ、寝ちゃったよ。大和さん、ユキジイの話は、まともに聞かないほうがいいすよ。俺だってここから逃げたいって思っているけどさ、ユキジイの計画は無謀すぎるから」
大和はタオルを押さえたまま、ぼうっと鉄格子の向こうを眺めていた。
「おい、大和。おい、起きろ」
ユキジイの呼ぶ声に、大和は目を覚ました。どうやらユキジイが目覚めるのを待っている間に、眠ってしまったようだ。
大和は、顔の痛みを堪え、唇を動かした。眠る前よりは、痛みはいくらかマシになっていた。
「ユキジイ、ここから出る方法って・・・」
大和がそう言いかけると、ユキジイは、大和の痛みをその口調から察したのか「いいから、黙って聞け」と言った。
「いいか、俺の立てた計画は、確かに無謀かもしれねえが、やる価値はある。ここでじっとしてたって、ただ死ぬのを待つだけだからな」
食事の前だからか、ユキジイの口調は、いつもよりもまともな感じがした。
「俺はな、実は前科者なんだ。前科者って言っても、そんな大それた事はやっちゃいねえよ。俺がやってたのは、いわゆる『スリ』ってやつよ」
ユキジイは長々と、自分の身の上話をし始めた。どうやらユキジイは、ここへ来る前は、刑務所にいたらしい。昔は小さな工場を構え、車の修理やチューニングで食べていたらしいが、時代が流れるにつれ、工場は潰れ、借金から逃げる為に自己破産したのだが、生活が苦しかった為、闇金に手を出してしまったのだという。
「それからは、その日暮らしの人生よ。たまたまホームレス仲間に、スリの名人がいてよ。手先の器用だった俺に、スリの極意を伝授してくれたのよ。昔はよ、一回仕事すりゃ、一週間分の飲み代を稼げたんだけどよ。最近の奴らは、カードだのおサイフケイタイだので、現金をあんまり持ち歩かなくなっちまってな。仕方ねえから仕事の回数を増やすわけよ。そうすりゃ当然捕まる確率も増えるわな。俺はただ、その日の酒が飲めりゃ、それでよかったのによう。結局、何度も捕まっちまって刑務所行きよ。まあ、シャバにいたって、人様の財布をスッちゃあ、その金で酒を飲む毎日よ。親戚も、そんな俺には近づいて来ねえしよ。保釈金や罰金だって払っちゃくれねえ。そんなつまらねえ人生ならよ、いっそのことムショで死んじまったほうがいいのかもしれねえって思ってたらよ、俺の甥っ子がよ、面会に来てよ『叔父さん、俺独立して、車の修理工場を始めるんだ。お客さんにレースの好きな人がいて、車のチューンを頼みたいっていわれてるからさ、叔父さんさえよかったら、うちで働いてくれないか』なんて言いやがってよう。俺は、エンジンだとかキャブだとか、そういう機械的な物なら得意だけど、今時のコンピューターチューンなんて出来ねえぞって、言ったんだけどよう。それでもいいから来てくれってよう」
ユキジイは嬉しそうに言うと、鼻をかんだ。
「だからよう、俺は酒もスリもきっぱり止めて、あいつの所で一から頑張ろうって思ってたんだよ。それなのに、ムショで寝てたら、いつの間にかこんな所へ連れて来られちまってよう。こんな所で死んでたまるかってんだよ」
ユキジイの部屋から、壁を殴りつけるような音が聞こえ、荒くなったユキジイの息遣いが聞こえてきた。
「それで、計画は?」
大和は、なるべく少ない言葉で尋ねた。
「おう、そうだったな。まず、あそこの壁を乗り越えて逃げるのは無理だって事は前にも言ったよな。フォックス兄弟が、脱走に失敗してから、護りも硬くなっちまったしな」
「フォックス兄弟?」
大和は驚いてそういうと、脇に落ちていたタオルを拾い、激痛の走った唇に当てた。
──通りで見覚えがあると思ったはずだ。
「そうよ、散歩の時に外に出してもらえなかった二人が、あの有名なフォックス兄弟よ。全身に入れ墨が入ってるほうが弟で、デカイほうが兄貴よ。あいつらは確かに脱獄のプロだけどな、やつらは脱獄する事だけを目的にしてて、逃げ切る事を考えやしねえ、言わば、脱獄マニアよ。脱獄したムショの壁の外で、二人して、ぼーっと立ち尽くしていた事もあるらしい。刑務所側もあいつらには、散々頭を悩ましてたみてえだが、ここに連れてこられちゃ、さすがのやつらもお終いよ」
大和は、痛みを感じる口をぽっかりと開けていた。
「あいつらのやり方じゃあ、いくら命があっても足りやしねえ。俺達は、もっとちゃんと逃げ切る事を考えねえとな」
ユキジイはつばを飲み込み、更に続けた。
「いいか、俺の立てた企画はこうだ。まず、散歩の時に、俺がやつらから鍵をスル。こないだは油断しちまってて失敗したが、今度は俺も本気でやる。あの木偶の坊が、あんなに敏感だとは思わなかったもんだから、ナメてかかっちまったんだな」
「また、失敗して手首を切られても知らないよ」
それまで静かに二人の会話を聞いていたリョージが言った。
「今度は、大丈夫だ」
「それで?」
大和はタオルの隙間から、声を出した。
「それから、俺達の部屋のカギと、正面の人間小屋の鍵を抜いたら、とりあえず元に戻す」
「なんで?」
他にも聞きたい事はあったが、大和の口からは、長い言葉を発する事が困難だった。
「さすがに、鍵が丸ごと消えちゃ、やつらもすぐに気付くだろ」
「でも・・・」
大和が言いかけると、リョージが会話に混ざってきた。
「でも、それじゃあ散歩が終わった後、部屋に戻されて鍵を掛ける時にばれちゃうんじゃないの?」
それはないと大和は思った。何故なら、部屋の鍵は南京錠なので、錠をする時には鍵は必要としないからだ。ユキジイもその事はわかっていたらしく、リョージに説明をした。
大和の言いかけた「でも・・・」はその後の事だった。やつらは自分達に食事を配った後、必ずあそこの鍵を開ける。目の前にある人間小屋の鍵を。その時に鍵が無い事に気付かれれば、その時点で計画はパアだ。酔っ払いの考え出した計画など、所詮こんなものかと、大和が諦めかけていると、ユキジイは計画の続きを話し始めた。
「いいか、お前らは気付いてないのかもしれねえが、散歩の時に管理してるヤツと、その後メシを運んでくるヤツは、必ず違うヤツだ。デカオにしろ、チビスケにしろな」
うつむいていた大和は、顔を上げた。
「その時に交代するのか、役割が違うのかは知らねえが、同じヤツじゃねえのは確かだ」
大和は記憶を辿ったが、そこまでヤツらの事をよく観察した憶えがなかった。
「それによ、ヤツらの持ってる鍵、ありゃあ、それぞれ自分専用の鍵を持ってるんだと思うのよ」
大和は、口からタオルを外した。大和が口を開こうとすると、リョージが、ユキジイに尋ねた。
「なんで、そんな事がわかる?」
リョージも、大和と同じ疑問を持ったようだ。
「ヤツらの鍵をよーく見ればわかるさ」ユキジイは得意げに言った「鍵のホルダーには、薄汚え革の輪っかが付いているが、色のあせ方や、擦り切れてる部分が、それぞれ違うのよ。長年スリをやってるとよ、そういう細かい事をよく見るようになっちまうのよ。歩き方や仕草、身に着けている細かな物をよく観察して、そいつが敏感なのか、鈍感なのか、金を持っているのか、いないのかを判断するのよ。だからよ、うまく鍵さえスッちまえばよ」
大和は、黙って聞き入っていた。それはリョージも同じだった。
ユキジイの説明はこうだった。散歩の後、食事を終えると、数時間後に屠殺場の明かりが消え、静かになる。ようするに、ヤツらは24時間働いてはいないと言う事だ。家に帰るのか、宿舎があるのかはわからないが、とにかくあそこからはいなくなる。その隙に自分の部屋の鍵を開け、外に出る。その際、すぐに気付かれないように、部屋の錠は掛けていく。そして、向かいの人間小屋の鍵を開け、中を通り、小屋の向こう側へ出る。小屋の向こう側の扉に鍵が掛かっているのかは、わからないが、壁はトタンだ。小屋の中にあるスコップやホークを使えば、簡単に破れるだろう。小屋の向こうが、養殖人間の運動場である事は、ほぼ間違いない。何故なら、養殖人間は屠殺場へ行く時以外、こちら側には出てこない。それに定期的に中の人間達が大きく動く気配を感じる時がある。これらの事から、養殖人間は小屋の向こう側で、大和達と同じ様に運動させられているという事は容易に推測する事ができた。
「小屋の向こうから、レンガの建物の向こう側に出れればよう。おそらくハンターはいねえと思うんだよ。だが、問題はよ・・・」
その先は、言われなくてもわかっていた。もしも、本当にここが地球ではなかったならば、逃げ切る事は無理なのかもしれない。無事に陽子の元へ帰り着くことは、宝くじを当てる事よりも難しいのかもしれない。
沈黙を保っているリョージも、同じことを考えているのだろうと大和は思った。
だが、可能性は0ではない。宝くじだって買わなければ当たらない。やらなければ帰れないのだ。大和は諦めようとする自分の心に、強くそう言い聞かせた。
ここへ来てから、リョージの向こうにいた三人は大和の知らぬ間に屠殺され、新しく二人の男が連れてこられていた。という事は、ヤツらは定期的に天然物を獲りに地球に行くという事だ。その宇宙船を奪うか、気付かれないように宇宙船に忍び込めれば。
──雲をつかむような計画だが、やるしかない。
そう思った大和は、頭の中で様々なイメージトレーニングを行い始めた。
ガラガラと扉の開く音が辺りに鳴り響くと、皆は息を潜ませた。そして、いつものように食事が運ばれてくると、皆無言でそれらを食べ始めた。大和は、吐き気と格闘しながら、皿の上に盛られた餌を口へと運んだ。皮肉にも、顔の痛みのおかげで思考力が低下していたのか、時間はかかったが、何とか餌を食べ切る事ができた。大和は込み上げてくる物を、一杯の水で胃の中へと流し込むと、ユキジイに声をかけた。
「ユキジイ、いけそうか?」
「ああ、このまま酒を飲まずに済めばな」
ユキジイがそう言うと、人間小屋から出てきたデカオが左のほうへとワゴンを押していく。左の奥からトレイを回収する音が聞こえ始める。ゆっくりと近づいて来る重たい足音が、ユキジイの部屋の前で止まった。
「俺はもう、飲まねえぞ」
強い口調で、ユキジイは言った。デカオはユキジイの部屋の鍵を開けると、大和の視界から姿を消した。ガタガタと、激しい音が隣から聞こえてくる。
隣で何が行われているのかは、容易に想像できた。大和はベットに座り、手を組み祈った。
──頼む・・・。
心の中で、そう祈る事しか大和にはできなかった。それは、照る照る坊主を物干しに吊るす子供の行為と何ら変わらぬものだった。
「やめろ! 飲まねえ! 絶対に飲まねえぞ!」
叫び声にも似たユキジイの声が、周りの建物に反響した。激しく鳴り響く痛々しい音は、しばらくの間周りの壁にぶつかり続けた。大和は、その間ずっと額の前に手を組み目を閉じていた。
ガシャンッ! と扉を激しく閉める音に、大和は驚き目を開いた。デカオはユキジイの部屋に錠を掛けると、ワゴンを押しながら大和の部屋の前で立ち止まった。デカオは息を荒げ、大きな眼で威圧するようにこちらを見つめている。大和は、デカオと目を合わさぬように、トレイを床の隙間から外へと押し出した。デカオはトレイを拾うとワゴンに乗せ、そのままリョージの部屋の方へと進んで行った。
大和は、ホッと息を吐いた。足音が遠くに行った事を確認した大和は、ユキジイにそっと声をかけた。
「ユキジイ、大丈夫か?」
「ああ」
「どうだ? いけそうか?」
大和は口の痛みを堪えながら、急かすように問いかけた。
「ああ、大丈夫だ。最後まで抵抗してやった。ヤロー、とうとう諦めやがった。俺の勝ちだ」
勝ち誇るユキジイの言葉が、大和の心を眩しく照らした。それは、雨の予報で遠足を諦めかけていたのに、目を覚ますと窓の隙間から日が差し込んでいた。そんな心情に似ていた。
「殴られなかったのか?」大和は尋ねた。
「殴られたさ。でもよ、そのおかげですっかり酔いが醒めたぜ。これでバッチリよ」
ユキジイは、声を弾ませ答えた。すると、ユキジイの向こうから微かに声が聞こえた。
「あの、私も連れていってくれませんか?」
泣き声にも似たその声は、女の声だった。
「なんだい、あんた喋れるようになったのか?」
「はい、だいぶ前から」
「何でずっと黙ってた? 来たばかりの頃とは、えらい違いだな」
「ここへ来て、口は災いの元だと知りました。もう殴られるのは嫌です」
女の声の様子から、泣き崩れていく姿が想像できた。ユキジイは、少し間を置くと「わかった、連れて行ってやる。いいよな」と、大和に聞いた。大和は「ああ」と答えた。女は嬉しそうな声で「ありがとう」といった。
大和はリョージにも確認しようと声をかけた。だが、リョージは何も答えなかった。
ユキジイは、フォックス兄弟に声をかけた。
「おい、お前らも話聞いてたんだろ? 一緒に来るか?」
フォックス兄弟の弟は、低い声で答えた。
「行きたければ、勝手に行ってくれ。俺達は、俺達のやり方で、ここから脱走してみせる」
ユキジイは舌打ちを鳴らした。
「親切で言ってやってんのに、そんなら好きにしな」
大和は首を傾げていた。いつもはすぐに返事を返してくるのに、リョージは、うんともすんとも返事をしない。大和は顔を右に向けると、再びリョージに声をかけた。
「おいリョージ、どうした?」
その時、ガラガラと扉の開く音が辺りに響き渡った。檻の中の空気が一瞬にして凍りつく。散歩の時間にはまだ早かった。
「気付かれたのか?」大和はそう思い、唾をのみ込んだ。しかし、冷静に考えると、それはないと気付いた。脱獄の話は、皆当たり前のようにいつもしている。一応聞かれないようには気を付けているが、監視カメラがあるとするのなら、当然会話も聞かれているはずだ。だが、脱獄の話をしている時に、ヤツらがやって来た事は一度もない。それ以前に、我々の言葉をヤツらが理解しているのかさえ定かではなかった。
──こっちに来るな!
大和は祈った。ヤツらが不定期に現れるのは、大抵の場合、出荷の時だと決まっていたからだ。
ドスドスという重い足音が聞こえ始める。デカオの足音だ。足音は人間小屋ではなく、こっちに向かってくる。姿はまだ見えない。大和は部屋の奥で息を殺していた。吸い込む空気が重たく感じる。肺が小さくなってしまったのかと思うほど、深く息を吸い込めない。大和の呼吸は自然と小刻みになっていった。
足音が徐々に近づいて来る。
「そこで止まれ、そこで止まれ」大和は、声を出さずに、頭の中で叫んだ。
ヌウっと、デカイ頭がこちらを覗いた。大和は後の壁に背中を張り付けた。
「あっちに行け、あっちに行け」大和は、頭の中で呪いのように唱えた。デカオは、こちらを見ながら部屋の前を通り過ぎていく。
固まっていた手足が震え始めると、全身の毛穴から熱い汗がどっと噴き出してきた。噴き出した汗が一気に体温を奪うと、とたんに寒気が大和の身を襲った。大和は息を整えながら、額の汗を震える手で拭った。
足音は、少し先で止まった。誰の部屋の前で止まったのかは、わからなかった。恐怖のあまり鉄格子に近づくことさえ、ままならなかった。大和は顔を引きつらせ、今にも泣き出しそうになっていた。
ガチャリと、鍵を開ける音が聞こえる。そして、長い間油をさしてない金属製の扉が、泣き声のような悲鳴を上げた。静まり返った空気が、再び凍りついていく。
──頼む・・・。
大和は、連れて行かれるのが、ユキジイではないようにと神に祈った。
「嫌だ。お願い、やめて」
聞こえてきたのは、女の声だった。ズルズルと土の上を引きずる音が聞こえる。綱を持つデカオの後ろに現れたのは、ユキジイの隣にいた女だった。女は涙目になってこっちを見つめ「助けて」と手を伸ばした。大和は思わず目を逸らした。ベットの隅を見つめる大和は、居た堪れない気持ちになった。女は怯える子犬のように、屠殺場のほうへと引きずられて行った。
「嫌あー! お願い! 助けてー!」そんな悲鳴が何度も聞こえ、周りの建物に反響した。罵声は聞こえてこなかった。勢いよく回る容赦のない冷たい鋸刃の音が聞こえると、止めどなく叫び続けていた女の声が、ピタリと止まった。
「可哀想によう」
ユキジイは、力の抜けたような声で言った。大和は胸の奥に現れた、心を締め付ける渦と戦っていた。顔の痛みは、知らぬ間にどこかへと飛んでいってしまっていた。
──仕方なかったんだ。俺に出来る事は何もなかったんだ。
大和は、涙を流す女の顔を思い出し、崩れ落ちそうになる自分自身に、何度もそう言い聞かせた。それは「よかった」と安堵する、もう一人の醜い自分を隠す行為だったのかもしれない。
「大和、大丈夫か? しっかりしろよ」
ユキジイの言葉が、うつむく大和の肩をゆすった。大和の制止を無視する眼は、勝手に涙の蛇口を開いた。
拭う事さえ出来ない涙は、しばらくすると周りの空気達に吸い取られていった。大和は乾ききった頬に強張りを感じると、濡れたタオルで顔を拭い、そのまま静かに壁に寄りかかり、まぶたを閉じた。遠くにユキジイの話す声が聞こえてきたが、それが自分に向けられた声でないとわかると、大和はしばしの眠りに就いた。