コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
――ケイナと出会ってから一週間が経過した。
ケイナがリンゴをかじる音が静かな果樹園に響く。澄んだ空気の中、歯が果肉を割る小気味よい音が、風のざわめきに溶けていく。その音が耳に馴染むのは、もう何度も聞いたからやろか。それとも、こいつがこうして食べとる姿自体に、安心感を覚えるからなんやろか。
なんか知らんけど、ケイナの食う姿は妙に落ち着く。リンゴをかじるたび、小動物みたいにほっぺたをわずかに膨らませ、じっくりと味わうように咀嚼する。その仕草には何の迷いもなくて、ただ純粋に、食べることそのものを楽しんどるように見える。喉を通るたびに、喉元がわずかに動く。その一つ一つが、命の証や。
最初にここへ転がり込んできたときのケイナを思い出す。痩せ細った体、今にも倒れそうな顔色、焦点の合わん瞳。骨ばった手が震えながら差し出されたとき、その細い指に力がほとんど入っとらんかったことを、今でも覚えとる。水を飲むだけでも精一杯で、食べ物を口に運ぶたび、喉を通すのに時間がかかっとった。
それがどうや。今はこうして、両手でしっかりとリンゴを持ち、かぶりついとる。まだ細い腕や弱々しい声には不安も残るけど、それでも、あの頃とは比べものにならんほど元気になった。
「甘い……」
ケイナがぽつりと呟く。目を細めながら、リンゴの果汁を舌で確かめるように味わっとる。その声は驚きと喜びが混じっとって、まるで初めて甘さを知った子供みたいや。
「せやろ? ワイのリンゴは最高やぞ」
「うん……ありがとう」
ケイナはリンゴを両手で包むように持ち、じっと見つめとる。その視線はどこか遠く、けど、確かに今を噛みしめとるようにも見える。指先にぎゅっと力を込める仕草が、まるで大事なもんを失わんように握りしめるみたいやった。
「私、もう少しだけ、ここにいてもいい?」
小さな声。けど、その言葉には大きな意味があった。
その問いかけは、どこか不安げで、けど、わずかに希望を帯びてた。まるで、自分の居場所があるのか確かめるみたいに。
「好きにせぇ。追い出す理由もないしな」
そない言うた瞬間、ケイナの肩がふっと緩むのがわかった。ずっと張り詰めとったんやろな。息を詰めて、無意識のうちに肩に力を込めとったんかもしれへん。小さな胸がゆっくりと上下して、安堵の息が漏れる。その手に握られたリンゴも、ようやく落ち着きを取り戻したみたいや。指先が震えとったのも、今はもうほとんど感じへん。
けど――まだ、不安は消えへんのやろな。
ケイナは唇をぎゅっと噛んだ。ほんのわずかに、けどはっきりと。迷いの色がその仕草に滲んどる。たぶん、自分がここにおることが許されとるんか、まだ信じきれへんのやろ。
「……迷惑じゃ、ない?」
震えた声やった。掠れるような、今にも途切れそうなか細い響き。それでも、確かに届いた。
「アホか。迷惑やったらとっくに追い出しとるっちゅーねん」
間髪入れずに言うたら、ケイナは驚いたように目を瞬かせた。大きな瞳がまるで何かを探るようにこちらを見つめる。ほんの一瞬、何かを確かめるように。その後、ふっと表情が緩んで、小さく、けど確かに笑った。
控えめな笑顔。まだ頼りなげで、どこか怯えの影を引きずっとる。でも、それでも――さっきより、ちょっとだけ前を向けとる気がした。
「……ありがと」
その言葉はさっきよりも、少しだけ力強かった。か細いながらも、どこか芯のある響きが耳に残る。
「それにしても、めっちゃええ食いっぷりやな」
軽く冗談めかして言うたら、ケイナの肩がピクリと揺れた。はっとしたようにリンゴを見つめ、慌てるように両手で包み込む。その仕草がなんともぎこちなくて、余計に微笑ましい。指先が小さくぎゅっと食い込んどるのが見えた。
「……おいしいから」
ふくれっ面みたいな拗ねた声。でも、口元はほのかに綻んどる。ほんまに、心の底から幸せそうやった。
「せやろ? そんだけ食えとるなら安心やな」
ぽんと肩を軽く叩いたら、ケイナは恥ずかしそうに目を伏せる。頬に宿った赤みが、火照りのせいなんか、それとも別の感情なんかは分からへん。けど、その視線は手の中のリンゴの芯へと落ちて、しばらくじっと動かんかった。そして、ぽつりと呟く。
「ねぇ……もし、私がもっと大きくなって、強くなれたら……」
不意の言葉に、思わず眉を上げた。
「ん?」
「いつか、ちゃんと恩返し、できるかな……?」
なんや、大げさな話やな。思わず笑いそうになったけど、ケイナの真剣な眼差しを見て、からかうのはやめた。
「アホか。恩返しとか、そんなん考えんでええ。ここにおるだけで十分や」
「でも……」
まだ何か言いたそうなケイナの言葉を、軽く手を振って遮る。
「ほんなら、元気になったら手伝えや。畑でも掃除でも、仕事はぎょうさんあるしな」
そう言うたら、ケイナは驚いたように目を瞬かせて、それから少しだけ顔を上げた。その瞳には、迷いながらも小さな光が宿っているように見えた。
「……うん」
その返事は、小さいけど、どこか決意がこもっていた。
まあ、焦らんでええ。時間ならいくらでもあるしな。
――このときのワイは、そう思っとったんや。