勇者引退
この世界には、魔王がいる。
ずっと暴れもせず、帝国の端に勝手に城を作る以外なにもしてこなかったのだが、
その平穏がある日一変する。
なんと、魔王が帝国の皇女を攫ったのだ。
この事件に皇帝は大いに嘆き、凄まじい早さで魔王討伐隊が形成。
その隊員に、1人の若い青年がいた。
「私が……勇者?」
「そうだ。そなたはこの帝国が誇る一番の騎士なのだ。」
後の勇者、アレン・リッター。
没落した騎士の家門の出である。
「い、いや、私にそのようなお役目荷が重すぎます。」
最初は断ろうとした。
「頼む、この通りだ!!」
「どうか、皇女殿下を……!!」
「平民の私に頭を下げるだなんて……おやめください陛下!」
私は孤児だったので、親の愛などはよく分からない。
……ただ。
(皇女殿下って、愛されてるんだな。)
気がつけば、命を懸ける無理難題を引き受けていた。
偵察と称し魔王城付近で討伐隊には置いていかれるし、暗い夜。アレンは既に諦めきっていた。
(あの上司。偵察とか言ってるけど、俺を1人で先に行かせて殺す気なんだな?)
皇女を救われて喜ぶ者はそれこそ多いが、そうではない者も多くいる。
特に貴族。
自分の家門の繁栄のため、1人の令嬢が死ぬことを待ち望んでいる。
助かってはいけない。その為に、アレンを殺すのだろう。
(恐らく金を積まれたんだろうが…。)
まあ、今はもうそんなことどうだっていい。
今頼るべきは、自分の実力と日々の鍛錬の積み重ね。
アレンは気を引き締め城に足を踏み入れた。
城の中は冷えていた。
赤い絨毯がひかれ、淡く蝋燭の火が灯る。魔王城は人気《ひとけ》がない。極度に達した緊張感が、アレンの背中を伝っていた。
(殿下…生きていらっしゃるといいが)
ここまで不安になるのは、全てが順調に進んでいるからだろうか。
それとも、帝国の愛する殿下の命がこの手に懸かっているからか。
いくら考えても、答えは出そうになかった。
(……なんだ?急に、嫌な香りがする。 )
妖艶で、艶やかで、くらりと目眩がする程の夜の香り。
吐き気がするほどに、ただ甘ったるい。
(きもち、わるい)
「左手を 、差し出してご覧なさい 」
ぞっとして左腕を握ると、そんな抑制も効かず腕が引っ張られる。
「やめろ、離せ!!」
振り払おうとするが、身体が言うことを聞かない。
足に、力が入らない。
「誘われてるのに、逃げるの?」
「離せと言っている!!」
「…威勢がいいこと。悪い子にはお仕置をしないとね。」
「ぐっ…!?」
腕に、熱いものが当たる。
「ア゛ア゛ッ」
「すぐに終わるわ。」
妖艶な香りは、血を、肉を焼く匂いに変わり、いくら暴れても痛みはなくならず紋様を描き続ける。
苦しさに息ができなくなって、視界の歪みが収まった頃。
気づけば痛みは消えていた。