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佐伯里美がカウンターに置いたのは、古びた革のスケッチブックだった。
それは、ナギが普段使っていたものとは違い、端が擦り切れ、使い込まれた様子がうかがえた。
「これは…?」アオイは戸惑いながらスケッチブックに触れた。
里美は疲れたように息を吐き、静かに語り始めた。
「ナギが、まだ小さかった頃から使っていたものです。この中に…ナギが海猫軒を描いた絵があるはずなんです。」
アオイは里美に促され、おそるおそるスケッチブックを開いた。
ページをめくるごとに、幼いナギが、この町の風景を愛し、夢中になって筆を走らせていた痕跡が見えた。
町並み、岩場、そして海。そして、スケッチブックの真ん中あたりで、アオイの手が止まった。
そこにあったのは、海猫軒の全景だった。
まだ看板が新しく、少し色褪せていない頃の姿。
そして、その絵の下に、小さな文字で日付が書き込まれていた。
20XX年 7月 20日
アオイの心臓が激しく脈打った。ナギの絵が未来へ届き始めたのは、アオイがこの町に来た数日後だった。
「この絵…」アオイは里美に顔を向けた。「ナギ君は、この絵もポストに入れたんですか?」
里美は俯いたまま、ゆっくりと首を横に振った。
「いいえ。ナギは…これだけは、ポストに入れられなかったと言っていました。」
里美は溢れる涙を手の甲で拭い、苦しそうに続けた。
「あの子は、本当にこの店が好きで。お父さんを亡くしてから、海猫軒の裏の岩場で絵を描くのが唯一の逃げ場でした。私が絵を否定し始めてからも、隠れてずっと…。」
アオイは里美の言葉に、ナギの孤独の深さを改めて感じた。
そして、核心に触れる質問をした。
「ナギ君は、どうしてこの絵をポストに入れなかったんでしょうか?」
「それが…」里美は目を閉じた。
「あの子は、この絵が未来の『アオイさん』に届くと信じていたそうです。そして、未来のあなたに、『助けて』というメッセージを託そうとしていた。でも、町を出る直前まで迷って…結局、隠したまま出て行ったんです。」
里美の言葉で、アオイは全ての「点と点」が線で繋がるのを感じた。
なぜナギの絵は未来へ届いたのか?
なぜアオイはこの町に導かれたのか?
ナギがポストに入れた絵は、未来への「SOS」であり、「承認欲求」の塊だった。
だが、この海猫軒の絵だけは違った。
それは、ナギの心を救ってくれた唯一の場所と、
未来に存在するかもしれない唯一の理解者への、
最も切実な「助けを求める手紙」だったのだ。
ナギは、この絵だけは、誰にも見つからないよう、最後まで自分の手元に残したかった。
「アオイさんからいただいた手紙…『絵は人の心を救う』という言葉を読んで、ナギは最後に、このスケッチブックのページを破って、ポストに入れようとしていました。でも、出発の時間が来てしまって。」
里美はスケッチブックの最後のページを指差した。
確かに、そのページには、破ろうとして失敗したような、薄いカッターの跡が残っていた。
「私は、あの子の才能を、夢を、ずっと否定し続けてきました。でも、あなたがくれた未来の証明と、ナギとの文通を読んで、初めて『絵はご飯を食べさせられなくても、人の心を生きさせることができる』と知ったんです。今になって、初めてナギの孤独に気づきました…」
里美は声を上げて泣き崩れた。
アオイは静かに立ち上がり、里美の背中に手を置いた。
未来の自分がナギを救えたように、今、アオイには目の前の後悔する一人の母親を救う使命があると感じた。
「佐伯さん。ナギ君は、あなたのことを理解しようとしてくれました。『お母さんなりの愛情なんだ』と、手紙に書いていましたよ。大丈夫。ナギ君は、新しい町で絵を描き続けます。その絵が、いつか必ず、あなたとの絆を取り戻す灯台になります。」
アオイは、ナギが描いた「海猫軒の絵」を里美に返した。
「これは、あなたが持っていてください。ナギ君が、この町で描いた一番大切な宝物です。」
里美はスケッチブックを抱きしめ、感謝の言葉を絞り出した。
「ありがとう、アオイさん。本当に…ありがとう。」
里美が店を出て行った後、アオイはカウンターに戻り、
ナギのスケッチブックの最後のページに残された、
破られかけた海猫軒の絵の痕跡を見つめた。
ナギの最も切実なSOSは、未来に届かなかった。
しかし、アオイは、手紙という形で、時空を超えて彼を救うことができた。
アオイは、自分のスマホのギャラリーを開いた。
そこには、文通が始まる前に、町の図書館で偶然見つけた、
ナギの「荒れた海と小さな船」のデジタル画像が残されていた。
(私は、ナギ君に救われたんだ…)
アオイは、自分の止まっていた時間が、ナギの勇気によって動き出したことを確信した。