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その夜はリオンにとってもウーヴェにとっても忘れることの出来ない日になるが、夜を迎えるまでの二人には自分たちの関係がまた一つ変化を見せるただぼんやりとした予感しかなく、リオンもクリニックから職場に戻っていつものように仕事をこなしていた。
今日は平和だ事件がない、しかも明日からお待ちかねの祭りだヒャッホー。
そんな鼻歌を歌いながら書類と格闘していたリオンを己の執務室から眺めていたヒンケルは、デスクの前に腰を下ろす定年間際の刑事が咳払いをしたことに気付いて肩を竦める。
「……では明後日には地元に帰るんだな?」
「はい。こちらに逃げてきた容疑者も無事に逮捕出来ましたし、一緒にいた参考人も無事に保護出来たので事後処理を済ませて帰ります」
先日、地元で起きた凄惨な事件の被疑者と重要参考人がこの街に逃げ込んだために協力を仰いできた彼、ロルフは、大きな街であっても成人男女が隠れられる場所は限られていることから、この街でも特にその手の場所に詳しいリオンとともに探し続けた結果、ようやく容疑者の逮捕と参考人であり被害者家族のただ一人の生き残りである娘を保護できたのだ。
家族を己の恋人でもある容疑者に殺されてしまった娘は保護された当時正常な判断が出来るような精神状態ではなかったが、病院で健康診断を受けて彼女の保護を担当する刑事と一緒にいるうちにここ何日間かの出来事を反芻できるようになったのか、今朝の時点では落ち着きを取り戻すと同時に家族を喪ったという事実をようやく認識できたように涙を流していたようだった。
そんな彼女を彼女の伯母が迎えに来てくれることになっているが、幼い少女が先に続く長い道を歩く際、今回の事件がどのような影を落とすのかをある程度予測できる二人がほぼ同時に重苦しいやるせない溜息を吐き、ヒンケルがそんな思いを振り切るように頭を振って肩を竦める。
「……とにかく、容疑者の逮捕と参考人の保護が出来たんだ、あんたも思い残すことなく退職できるな」
「気になることはあるが、まあ俺がどうこうできることでもないでしょうし」
彼女の今後の人生が平坦なものではないとは思うがそれでも真っ直ぐ続きますようにと願いながら肩を竦め、地元に戻って容疑者の送検などを済ませてから残っている休暇を消化するつもりだと笑ったロルフにヒンケルも頷いてこの数日間ともに汗水を流した相手を労うように手を出すと、ロルフも若干照れつつもその手を握り返す。
「退職後はどうするんだ?」
「今までずっと妻に家のことを任せきりだったので、妻の代わりに家のことをするつもりですよ」
「そうか。明日からヴィーズンが始まるから参加してから帰ればどうだ?」
「それも良いですなぁ。ああ、いや、でも参加するとすれば妻を誘うことにしますよ」
そうなれば夫婦揃って是非とも顔を出してくれと頷くヒンケルに彼も頷きほぼ同時に刑事部屋へと目をやると、事件が少ないためにデスクで書類と格闘している刑事の姿に微笑ましそうに口元を和ませる。
「そう言えば、クリンスマンが彼に会えなくて残念だと言ってましたよ」
「ああ、そうだな」
この街に逃げ込んだ容疑者を追いかけてきたロルフとその上司でありヒンケルの友人でもあるクリンスマン警部が、過去の事件で再起不能だと思われるような深い傷を負った被害者がその傷から立ち直っている姿を一目見たいと言っていたが、先方の都合で会えなくなったことを残念がっていたこと、だが今は同年代の男女と同じように忙しく過ごしていることを聞けて良かったとも伝えると、ヒンケルの顔にも笑みが浮かんで胸を撫で下ろしたように頷く。
「あの事件、ロルフは担当していたんだったな?」
「ええ、配属されて間もなくの頃だったので正直戸惑うことばかりでした」
思い返せば二十数年もの昔、長い時を経たと思っていてもそれでも決して消し去ることの出来ない記憶があり、それを今も思い浮かべながら無意識に拳を握ったロルフは、その記憶の中から日記帳のようなものを思い出すと同時に目を瞠ってヒンケルの首を傾げさせてしまう。
「ロルフ?」
「警部、あの事件があった教会ですが、今年の冬が来るまでに取り壊すそうです」
あの教会を管理している教区の人から教えられたのだが、今まで管理していた人たちも高齢化が進んだこと、若手の教会関係者が行きたがらないこととそして最大の理由として建物の老朽化が進んでいることから雪が降る前に取り壊すことになったと伝えると、ヒンケルが顎に手を当てて考え込むように視線を下げる。
「取り壊しか……」
「ええ。かなり老朽化していて、先日も教区の人間が中に入ったのですが、床板を踏み抜いてしまったそうですよ」
もっとも、そのお陰で貴重なものが発見できたのだがと続けるロルフにヒンケルが目を光らせ、貴重なものとオウム返しに呟くと一冊の日記が出てきたとロルフの顔が真剣なものになる。
「あの事件で死亡した男がどうやら書き残した日記のようで、今地元の警察で調べるかどうかを相談しています」
事件の被害者の日記であれば重要な証拠になるが、何しろ事件から既に二十数年が経過している上、その事件で生き残ったのは発端となった誘拐事件で連れてこられた子どもだったためにどう扱えばいいのかが分からないと素直に告白されてヒンケルも苦笑する。
今現在追いかけている事件の証拠ならば喉から手が出るほど欲しい物だが事件が解決して月日が経っているうえ、関係者が一人を除いて皆死んでいる為に新たな証拠が出たとしても事件後に死亡のまま起訴された犯人達の罪状が変化する訳でもなかった。
そして、思い出したくないだろう忌まわしい事件から何とか立ち直って懸命に生きている被害者に過去を突き付けることになるが、その結果今の平穏な暮らしを壊しかねないとの思いから日記は警部に預かって貰っていることを伝えたロルフは、ヒンケルが刑事部屋の己のデスクで書類に向かっているリオンを見つめていることに気付いて同じように顔を振り向ける。
「その日記、見せて貰うことは出来ないか?」
「地元に戻って警部に確かめないと何とも言えませんが、多分可能でしょう」
新たな証拠となっても不利になる人間もいなければ有利になる人間もいないのだからと肩を竦め、リオンがどうかしたのですかと問えばヒンケルが微苦笑混じりに首を左右に振る。
「いや、何でもない」
その日記をあいつに見せればどうだろうと思っただけだと答えるヒンケルにロルフの目が見開かれる。
「どうしてリオンにあの事件に関係するものを見せるんですか?」
ここ数日リオンと行動を共にしていたが事件に関係しているような言動は無かったことを思い出し、素直な疑問を口にするロルフにヒンケルが躊躇ったように視線を彷徨わせた後、リオンの最も親しい人が彼だと答えて更に目を瞠らせる。
「彼……?」
「ああ。……あの事件の被害者であるウーヴェ・F・バルツァーはリオンが最も信頼している人だ」
さすがに部下のプライベートを口にするのは憚られたために言葉を濁すと、ロルフが何とも言えない顔を隠すように掌で目元を覆う。
「もしかして……」
「どうした?」
「容疑者を探しているときリオンの口から何度もオーヴェという名前を聞いたことはあったんですが、まさかそのオーヴェが彼なのですか……?」
「ああ」
この街で精神科医として働き、自分たちも医師の判断を欲するときなどに何度も情報を提供して貰っていることを教えられたが、その口からは当然と言えば当然ながら事件についてのものは出てくることはなかった。
だから気付かなかったというのもあるがうかつだったと苦笑するロルフにヒンケルが気にすることはないと言い掛けた口を閉ざして肩を竦めるが、あの事件の被害者である彼にその日記を見せてはどうかと掌を向けると、ロルフも少し考え込んだようだったが本来の持ち主はすでに亡く、その家族とも連絡が取れないことからそうしてみようかと頷けばヒンケルが受話器を取り上げる。
「リオン、部屋に来い」
『この電話番号は現在使われておりません。ご使用になりたければ板チョコを一枚至急お届け下さい』
「バカモン! さっさと来い!」
ヒンケルが掛けた先はどうやらリオンのデスクに繋がる内線電話だったようだが、聞こえてきた言葉に一瞬絶句した後、部屋の外から様子を窺ってきてはにやりと笑みを浮かべるリオンをクランプスと称されることが間違いではない顔で睨み付けて受話器を叩き付ける。
「まったく、あいつは……!」
「……警部も色々大変ですな」
分かっているから言わないでくれと溜息混じりに呟いた時、ドアがノックされて返事よりも先にリオンが頭を突っ込んでくる。
「えー、クランプスに呼ばれたんですがー」
「馬鹿なことを言ってないで入って来い」
ヒンケルの手招きに嫌々そうな態度を隠さないで入って来たリオンは、ロルフが苦笑しながら事情を説明したため、いつも座る丸椅子に腰を下ろしてくるりと一回転する。
「日記、ですか?」
「ああ。あの事件の現場になった教会の老朽化が激しくて取り壊すことになったらしいが、この間床板の下から日記が出てきた」
「誰の日記なんですか?」
「アルノー・エンデのものだ」
ロルフが告げた名前に聞き覚えが一切無かったリオンが眉を寄せてオウム返しに呟くと、元銀行員であの事件に巻き込まれて命を落とした男の一人だと返されて頷くが、その日記は何と書いていたのかと当然の問いを発すると意外なことにまだ誰も目を通していないと答えられて呆気に取られてしまう。
「もう終わった事件だし、二〇年以上も経っているからな」
今更墓を暴くようなことをしても誰も何の得にもならないと肩を竦める上司にリオンの頭が上下するが、何かを思い出したようにヒンケルの顔を見ると、弟と呟いて腕を組む。
「弟?」
「Ja.この間オーヴェにトルコから手紙が届いたんです。……何なんだろうな、これ」
その感想はつい先程ウーヴェのクリニックでも抱いたものだったが、膝の間で手を組んで親指をくるくると回転させ始めたリオンにヒンケルが目を細めて無言で先を促すと、ロルフもそんな二人から何かを感じ取ったのか顎を引いてリオンの口から出てくる言葉を待ち構える。
「さっきオーヴェのクリニックに顔を出したんですけど、ここ何日かでオーヴェの過去に繋がるようなものがあちこちから出てきてるんですよね」
こういう現象を何というのだろうと苦笑するとヒンケルも同じく苦笑しつつ肩を竦める。
「それこそドクに聞けばどうだ?」
精神科医なのだ、人の言動に関係することで症状名と言えば大袈裟だが何かしらの名前があるかも知れないぞと笑い確かにそうだとリオンも同意を示すが、ロルフだけは意味が分かっていない顔で眉を寄せていた。
「ああ、ちょっと待って下さい。オーヴェから手紙と写真を預かってきたので取ってきます」
あの事件の関係者が書いた日記が発見され、時期を同じくしてキーパーソンとも言える少年の弟から手紙が届けられたことから、きっとこれは事件について掘り下げていかなければならないだろうと予測を立てたリオンが立ち上がり、部屋を勢いよく飛び出して戻ってきた時には封筒を手にしていて、デスクにそっと置くと再度丸椅子に腰を下ろして足を組む。
「これが?」
「Ja.……ハシムの弟だって書いてました」
「!?」
あの事件で死んだハシムに弟がいた事をロルフは知らなかったようで驚きのあまり椅子から腰を浮かせてデスクに詰め寄りそうになるが、手紙には何と書いていたと掠れる声で問い掛けてくる。
「その弟、メジフって名前なんだと思うんですが、近々こちらに来るからオーヴェに会って話がしたいって書いてました」
「会いたい?」
「Ja.これはオーヴェにも言ったんですけど、俺は正直な話会わせたくねぇって」
事件に関係する事象を目の当たりにするだけでも呼吸困難になったり酷いときには横にならなければならない程調子が悪くなるのに、ハシムの弟には会わせたくないと伏し目がちに告げるリオンに二人は何も言わずに顔を見合わせるが、ヒンケルが手紙を開いてデスクに落ちた写真をロルフが手に取るとこんな顔をしていたっけなぁと過去を引き寄せるような声でハシムの名を呼ぶ。
「……発見されたときは本当に無惨な姿だったが……」
ロルフが語る無惨な姿をヒンケルは経験上から、リオンはウーヴェに聞かされた断片から簡単に想像できてしまい、胃の辺りに鉄球を乗せられた時のような鈍痛を感じて顔を歪める。
「事件で真っ先に殺されたのはハシムですよね?」
「解剖の結果は皆ほぼ同じ時刻に死亡していたが、ハシムと主犯格の男女二人だけは違っていたな」
「ハシムが一番?」
「確かそうだったはずだ」
主犯格の男女は事件が終わりを迎えた教会から少し下った辺りで男が肺を撃ち抜かれて絶命し、女が滑落して死亡していたことを教えられて首を振ったリオンは、金だけを持って逃げようとしていたのだろうが仲間割れを起こしたと思われるとも教えられて無言で肩を竦める。
「このメジフって弟、オーヴェに会って何を話すつもりなんだろうなぁ」
「そうだな……何を話すつもりだろうな」
二〇数年が経過しているのに突然会いたいと申し出てくる理由が何だと首を傾げる二人にロルフがそいつに会ってみたいと呟くと、本人に確かめないといけないが同席できれば良いなとヒンケルが頷いたとき電話の内線ランプが光って着信を伝えてくる。
「ヒンケルだ」
『警部、弁護士が会いたいと言って今来ています』
電話をかけてきたのは内勤をしているオリバーで、今現在追いかけている事件ではないが過去に起きた重要な事件について話があるそうだと伝えるとヒンケルが眉を顰めつつここに来て貰ってくれと告げて受話器を置くと、話の内容から自分たちはここにいない方が良いことを判断した二人が立ち上がって部屋を出て行く。
「ハシムの弟がなぁ……」
「会いたいって言ってもなぁ。会わせたくねぇしなぁ」
ロルフと肩を並べて己のデスクに戻ろうとしたリオンだったが、ヒンケルのデスクに写真と手紙を置いたままであることを思い出して足を止めると、訝るロルフに手紙を取りに戻ることを伝えて踵を返す。
「ボス、手紙と写真、忘れてました!」
「ああ、そうだな……どうぞ」
リオンが部屋に飛び込んで写真と手紙を少し乱雑に掴んで踵を返すと、開けっぱなしのドアの向こうに暑いのにもかかわらずダークスーツを身に纏った男が立っていることに気付き、ヒンケルに招かれて部屋に入ってくる男の動きを目で追ってしまう。
「ご苦労だった、リオン」
「Ja.失礼します」
男に会釈をして再度部屋を出たリオンはハシムの写真が何故か気になるものの今は目の前の仕事を片付けることに全力を向け、定時になると同時に職場を飛び出して心身共に恋人に向き合おうと内なる己の声に頷き、苦手な書類仕事に立ち向かうのだった。
リオンにすべてを話す。
昼にリオンがクリニックにやってきた時に決意をしたウーヴェだが、そうと決めるまでに今までかなりの時間と勇気を必要としたものの、決めると同時に今まで背負っていた荷物が一気に軽くなった錯覚を覚え、今まで誰にも話したことのない過去を自ら語ることへの不安や恐怖を感じなくなっていることにも気付く。
リオンに最も聞かれたくない話と最も聞いて欲しい話が同じであることを見抜かれてもいる今、最早何を隠す必要もないと割り切ったという清々しさとはまた違い、文字通りありのままのすべてを見せたとしても、一時的に動じることはあっても必ず支えてくれるという安心感と全幅の信頼をクリニックでも感じ取ったからこそのこの穏やかさだと気付き、その勇気を与えてくれるリオンの心に応えるためには何を聞かれても隠すことなく答えようと決め、ベッドルームのクローゼットのドアを開けて壁の前に静かに立つ。
リオンとこの家で暮らすようになってからは二人分の衣類がそれぞれしまわれるようになっていたが、ウーヴェが良く着るコートの間に手を差し入れて壁を触っていると、ウーヴェの背丈とさほど変わらない高さで壁がくり抜かれ、躊躇せずにその壁に開いた穴に向かって身を屈める。
壁を手で探ってスイッチを押すと同時に小さな部屋の全貌が明かりの下にさらけ出される。
少しだけ埃が溜まっている小部屋の壁際には小さな棚が作り付けられていて、その棚の横には年季の入った小さなデスクもあるが、そのデスクの上や足下、または棚のあちらこちらに布を被せられている箱が幾つもあり、小部屋の最も奥の目につきにくい隅で厳重に布を巻かれている箱の前に立ったウーヴェは、埃を軽く払いのけてその箱を持ち上げる。
この箱の中にはウーヴェとその家族にとってとても思い出深いものが納められているのだが、この箱をウーヴェが手に取ったのはこれをこの部屋に閉じこめた時以来で、さして重くもない箱が鉄の塊に変化したかのような重さを感じつつ小部屋から出てリビングに向かおうとするものの、何故か足がそちらを向かなかったため己の身体の好きにさせようと肩の力を抜くと同時に足が向いたのは玄関だった。
文字通りに足の向くままに進んだウーヴェは、己の身体が何を欲しているのかを見えてきたドアから察し、いつもここまで素直になることが出来ればさぞかし恋人を喜ばせられるのにと呆れつつ目の前のドアを開け、何故かすぐに散らかり放題になる部屋の真ん中にそっと置く。
この部屋の主の匂いが鼻腔を擽り、今まで抱えていた荷物が鉄の塊などではないことを自然と思い出させて貰うと同時に踵を返し、開け放ったままのベッドルームに戻ってクローゼット奥の小部屋に再度入り、今度は入口近くの箱を抱えてリオンの部屋に再び向かう。
この部屋でならばきっと素直に己の過去を話すことが出来るだろうと心身共に考えている-または感じている-ことがおかしかったが、自分の部屋であるベッドルームやリビングよりも落ち着ける部屋であることは間違いないと己を納得させ、床に積まれた二つの箱を見下ろして溜息を吐く。
まるでありとあらゆる厄災が封じ込められているパンドラの箱にも思えるこの箱を開け放ったとき、どんな感情が己の中に溢れ体外へと流れ出すのかが分からずに不安を感じてしまうが、そんな不安でさえも室内に満ちている空気を吸うだけで和らいでいく不思議を感じつつベッドに腰を下ろすと、自然と身体が傾いで折り畳まれているコンフォーターに倒れ込む。
肌に触れる感触がいつもと同じなのに違うように感じる精神状態を認識し、横臥した身体に合わせてシャツの下で斜めになる金属の感触を確かめるようにシャツの上から手を宛がうと、素肌の胸にひやりとした熱が生まれる。
この部屋の主が早く戻ってくるように願ったウーヴェだったが、全身を包む空気の心地良さに欠伸をし、もうすぐ帰ってくるから駄目だと思いつつもそのまま目を閉じてしまい、この後の時間を思えば不安に押しつぶされそうになるにもかかわらずに眠りに落ちてしまうのだった。
奇跡的に定時で仕事が終わり同僚達への挨拶をそっちのけに職場を飛び出したリオンは、駐輪場に停めておいた自転車に跨るとロクに左右も見ずに走り出す。
その姿を職場の窓から見下ろしていたヒンケルは何をあんなに急いでいるんだと苦笑するが、明日から祭りだから浮かれているのだろうと誰かが答えた結果、明日のコーヒーを賭けた遊びが始まってしまう。
ヒンケルはもちろん祭りの前夜の浮かれ気分に一杯を賭けたのだが、皆がヒンケルと同じ側に賭けてしまったために不成立になり、その結果に一つ頭を振るが明日からの祭りは自分たちも楽しみだからと仕方がないと笑うコニーにヒンケルも同意し、最近では世界中から観光客が押し寄せるようになった祭りが明日から始まる高揚感に笑みを浮かべてリオンを見送るのだった。
同僚や上司に賭の対象にされていることなど微塵も思わないリオンはそんな視線を受けながら愛車を飛ばし、小高い丘の上にあるアパートが見えてきてもペダルを漕ぐ力を緩めず、その勢いのままガードマンの前に突っ込むが、驚き呆れる彼に笑みを浮かべて明日からの祭りが楽しみで早く帰ってきたと満面の笑みを浮かべると、ガードマンも同意を示すように頷いてくれる。
「本当に楽しみですねー」
「そうですねー」
自転車を肩に担いで鼻歌交じりにロビーを通り住人用のエレベーターに乗り込んだリオンだが、最上階に到着すると同時に表情を一瞬にして真面目なものに切り替えてドアを開け、玄関傍の廊下に自転車を立てかける。
昼にクリニックを訪れた際、話を聞いて欲しいと言われてすべて聞いてやると請け負ったが、その時感じたのは今まで張りつめていた何かが切れたような安堵だったが、今この広い家の中に満ちているのはいつもと変わらない穏やかな静けさだった。
ウーヴェのあの様子から精神的にかなり不安定になっていることを予測していたのだが、どうしたことだろうかと考えつつ玄関に最も近い己の部屋のドアを開けて穏やかな静けさの原因を発見する。
いつものように乱雑に折り畳んだコンフォーターの上でウーヴェが小さな寝息を立てていたのだ。
その顔には不安や苦悩は一切無く、ここ数日間で久しぶりに目にした穏やかな寝顔にリオンの顔も自然と綻んでしまい、その眠りを覚まさないように静かに荷物を床に置くと、ベッド際の床に座り込んでウーヴェの顔の傍に顎を乗せる。
小さな寝息は安心していることを示すように規則的で穏やかで、このままずっと眠らせてやりたい程だったが残念ながら約束を思えばいつまでも眠らせている訳にはいかなかった。
ようやく、リオンが密かに待ち望んでいたウーヴェの過去を自ら語ってくれると約束をしてくれたのだ。
だからこのままではいられないと苦笑しつつそっとウーヴェの名を呼んだリオンは、小さなその声にも反応を示すウーヴェの顔を間近で見つめ、茫洋としたターコイズが姿を見せると同時に安堵の笑みを浮かべる。
「ハロ、オーヴェ。起きたか?」
「……リーオ……」
「うん。今帰ってきた」
今日もあれから頑張って働いてきたと笑うリオンに寝起きながらも笑みを浮かべたウーヴェは、起き上がろうとするのをリオンの手に封じられてしまい、首を傾げてリオンの青い瞳を見上げる。
ウーヴェに覆い被さるように膝立ちになったリオンは疑問を浮かべる瞳に笑いかけると、いつもウーヴェが己にしているように鼻の頭、額、頬の高い場所とキスをし、驚いたように丸くなる目尻にもキスをすると、話をするのも聞くのも体力がいるから飯を食おうと笑ってウーヴェの腕を引いて身体を起こさせる。
「……ああ」
「軽いもので良いからさ、ちゃんと食べよう、オーヴェ」
長く重い話になるだろうがそれをしっかりと受け止める為に必要なことだからと笑ってもう一度ウーヴェの頬にキスをしたリオンは、ウーヴェの雰囲気や表情が寝顔と同じ穏やかさに彩られていることに安堵し、ベッドから降り立ったウーヴェの腰に腕を回すが、部屋の真ん中に置かれている二つの箱に気付いて何だと問い掛ける。
「……見て欲しいもの、だ」
「ん、分かった」
ちゃんと後で見るから安心しろと笑って白っぽい髪にキスをし、今日はロルフからあの事件で亡くなった人の日記が見つかったと教えられたことを伝えると、ウーヴェの身体に一瞬緊張が走り同じく腰に回されていた手に力が籠もってシャツを握りしめられる。
「その事はまた後でちゃんと話をする」
「……うん」
リオンの部屋を出てキッチンに向い二人で夕食の準備に取りかかるものの、穏やかさを取り戻しはしたもののまだウーヴェの心が沈んでいるようで、トースターにパンを放り込んだリオンがウーヴェを背中から抱き締めて白い髪にキスをする。
「オーヴェ。……大丈夫だ」
「……う、ん……分かってる」
「そっか」
分かっているとお前が言うのならばその通りなんだろうと頷いてもう一度キスをしたリオンは、これから緊張したり不安になったり過去を思い出して辛くなるかも知れないが、絶対にその過去と向き合う、目を逸らしたりすることはないと囁くとウーヴェの顎の下で交差していた腕にそっと手が重ねられる。
「……ダンケ、リーオ」
お前のその気持ちに心に応えるために自分も頑張るつもりだと頷くウーヴェだったが、お前は今までもう十分に頑張ってきているからこれ以上頑張る必要はないと優しい強さで囁かれると同時に膝の力が抜けてしまってその場に座り込みそうになるのを気付いたリオンがしっかりと背後から支え、ウーヴェを小さな子どものように抱き上げる。
「……!」
「大丈夫だ、オーヴェ」
こうして抱き上げてしっかりと支えてくれるリオンの温もりが、言葉だけではなく行動でも支えてくれることを教えてくれたため、何があっても倒れないことを簡単に想像させる恋人にすべてを委ねるように頷いてしがみつくとぽんと背中を叩かれる。
「オーヴェ、パンが焦げそうだから降りて欲しいなー」
「……イヤだ」
「えー、そんな我が儘言うなよぉ」
お願い愛してるから何でも言うことを聞くから今は降りてくれ。
己にしがみつくウーヴェの背中を撫でつつ情けない声を出すことで暗く沈みがちな気持ちを前に向かせようとしたリオンだが、己の思惑にしっかりと気付きながら合わせてくれるウーヴェの頬にキスをし、お願いハニーと懇願すると一ユーロと素っ気ない声が返ってくる。
「5ユーロでも10ユーロでも払うからさ、一緒にメシ食おうぜ」
「……うん」
リオンの陽気な声にようやく頷いて床に足を下ろしたウーヴェは、こんがり焼けた小麦色の肌の語源かと思えるような焼け具合のトースターを取り出すリオンに皿を渡し、パンと一緒に食べるチーズとハムを切り分けるために冷蔵庫を開けるのだった。