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夜の帳が静かに
喫茶 桜を包み込んでいた。
店の裏庭は
昼間の喧騒が嘘のように静まり返り
月の光がしっとりと
石畳を照らしている。
その片隅に
時也は一人、煙草を吸っていた。
白く細い煙が
ふわりと空に溶けていく。
喫茶 桜の店長として
日中は常に気を張り
客と、その心の声に耳を澄ます。
だが
こうして一人で煙草を吸うひと時だけは
ようやく肩の力を抜ける時間だった。
「⋯⋯あっ、時也さん!」
可愛らしい声が、裏庭の静寂を破った。
振り向くと
レイチェルが小走りに駆け寄って来る。
「お疲れ様です!」
彼女の無邪気な笑顔に
時也はふっと微笑んだ。
「ふふ。
ソーレンさんではなくて、すみません」
「えぇ!?
違っ⋯⋯もう!
からかわないでくださいよ!」
レイチェルは頬を膨らませ
ぷんと膨れっ面をして見せた。
「すみません、つい」
時也は肩を竦め
もう一度、唇に煙草を挟んだ。
レイチェルは
少し離れたベンチに腰掛け
スカートの裾を整えながら
空を見上げる。
「素敵な皓月⋯⋯っ!」
「えぇ。
今日の月は、優しい光ですね」
時也は静かに煙を吐きながら
レイチェルの横顔をちらりと盗み見る。
彼女の瞳は
月の光を映して淡く輝いていた。
(⋯⋯ふふ)
時也は、心の中でそっと微笑む。
「レイチェルさん」
「はい?」
「⋯⋯貴方は、ソーレンさんの事を
どうお想いなんです?」
「え゛⋯⋯っ?」
レイチェルが思わず顔を向ける。
時也は煙草を咥えたまま
わざとらしく目を逸らし
何気ない調子で言葉を続けた。
「いえ
いつも貴方が彼に
視線を送っているのを見ているので」
「そ、そんなことっ⋯⋯」
「ふふ。
今日の出来事、嬉しかったのでは?」
「そ、そりゃ⋯⋯助けてもらったし⋯」
レイチェルはモゴモゴと口篭もる。
その頬がほんのりと染まり
視線が泳いでいた。
「⋯⋯素直になってしまえばいいのに」
「や、やだなぁ〜っ、時也さん!」
レイチェルは立ち上がり
腕をぶんぶんと振る。
「⋯⋯でも、確かに」
ふと動きを止めた彼女の顔には
どこか柔らかな笑みが浮かんでいた。
「ソーレンって⋯⋯
怖い人だと思ってたけど⋯⋯」
「えぇ。
とても、優しい方ですよ」
時也は、ゆっくりと煙草を揉み消した。
「⋯⋯ただ、ソーレンさんは
自分から距離を置くことが
多いですからね⋯⋯」
「うん⋯⋯それは、わかるかも」
「なら、貴方がもっと
近付いてあげてください」
レイチェルは
驚いたように時也を見上げる。
「⋯⋯え?」
「貴方が居れば
彼はもっと人らしくなれる。
貴方には⋯その力があるんです」
レイチェルは、一瞬言葉を失った。
その目には
迷いと驚きが混ざっていた。
「⋯⋯私が?」
「はい」
時也は微笑みながら
裏庭の桜の木を見上げた。
「⋯⋯ソーレンさんには
あまり〝倫理観〟が
残されていないのかもしれません。
でも⋯⋯」
月が雲から顔を出し
二人を照らし出す。
「貴方の笑顔が
彼の中にある大切なものを
引き出してくれるはずです」
「⋯⋯⋯」
レイチェルは静かに
自分の手を見つめる。
「⋯⋯ソーレンって
無愛想なくせに
すごく優しいんです⋯⋯」
「えぇ」
「⋯⋯私、頑張ってみます」
レイチェルが、ぎゅっと拳を握る。
その顔には
迷いを振り切った
強い意志が宿っていた。
「ふふ。応援していますよ」
その言葉に
レイチェルは
少し照れくさそうに笑った。
「時也さんが
こんなに揶揄ってくるの⋯⋯
珍しいですね」
「えぇ。
貴方とソーレンさんの組み合わせは
見ていて楽しいですから」
「もうっ!」
笑いながら
レイチェルは裏庭を駆けていった。
その背中が
見えなくなるまで見送った後
時也は静かに
もう一本、煙草に火をつける。
「⋯⋯ふふ。
さて、どうやって背中を押しましょうか」
自分の計画に思いを巡らせながら
時也は静かに煙を吐いた。
細く白い煙が
冷たい空へと溶けていく。
先ほどまでレイチェルと話していた
穏やかな表情は
今はすっかり消え
時也の顔は硬く沈んでいた。
「⋯⋯これで⋯⋯」
時也は、掠れた声で呟いた。
「これで⋯⋯
彼の中に残っている
アリアさんへの前世の未練が
消えてくれたら⋯⋯
僕にとっても、願ったり叶ったりです」
ぽつりと零れた言葉が
ひどく苦い響きを持っていた。
脳裏に浮かぶのは
桜から蘇った、あの日の光景——。
自らを涙の結晶に封じたアリアを
時也、ソーレン、青龍の3人で
救い出した。
あの日ー⋯。
時也は、アリアの頬に触れた。
その肌は氷のように冷たく
長い間
悲しみと絶望の中で
沈黙を続けていたことが
痛いほど伝わってきた。
だが、その沈黙の奥から
確かに彼女の声が届いた。
「⋯⋯時也⋯⋯」
微かに呼ばれたその声は
どこか切なく、弱々しかった。
「アリアさん⋯⋯っ!」
時也は
胸の奥から込み上げる思いを噛み殺し
必死に彼女の冷たい手を握りしめた。
その時——
——貴女様に非は無いと、存じております。
お慕いしております、アリア様——
その声が、突然
時也の中に響いた。
それは、ソーレンの声だった。
いや——
(⋯⋯違う)
声の響きが違った。
感情の深さが違った。
それは
ソーレンの心から漏れたものではなく
彼の中に宿る
別の〝誰か〟の想いだった。
(⋯⋯あの時のあれは
ソーレンさんの中に眠る
前世の魔女の声⋯⋯)
転生者達の殆どが
魔女狩りの怨恨に囚われていた。
報復の為にアリアを襲い
恨みを晴らす事で
魂はほんの僅かに落ち着く。
だが⋯⋯
ソーレンの中に残る未練は
他とは違った。
それは——
〝悲恋の成就〟
時也の手にした煙草が
ミシリと軋んだ。
(⋯⋯それだけは
叶えさせる訳にはいかない)
もし
あの未練がアリアに届き
彼女に手を出そうものならー⋯。
「⋯⋯許せないな⋯⋯」
時也の手の中で
煙草がさらに握り潰された。
——ジュッ
弾けるような音と共に
熱が掌に食い込んだ。
「⋯⋯っ」
焼け付く痛みが皮膚を焦がし
煙草の灰が崩れ落ちる。
だが、時也は手を離さなかった。
目を閉じると
あのふざけたような笑みが
脳裏に浮かんだ。
無骨で、粗暴で
血に塗れながらも
どこか人間らしさを捨てきれない
あの男の顔——。
(⋯⋯今の貴方が⋯⋯
アリアさんを悲しませることは
無いと信じたい)
だが、それでも⋯⋯
前世の未練が
このままでは消えないのなら——
掌にじわりと焦げた痛みが広がり
時也はようやく
煙草の残骸を地面に落とした。
「⋯⋯ふふ」
微かに笑みを浮かべるが
その瞳はどこか冷えていた。
石畳の上で
時也はじっと地面に落ちた煙草の
残骸を見下ろす。
灰と葉の欠片が散らばり
その中央には
握り潰された煙草のフィルターが
黒く焦げていた。
「⋯⋯アリアさんは⋯⋯」
時也の唇が
震えながら微かに動く。
その声は
まるで押し潰されたように掠れ
空気に溶けて消えかけていた。
「⋯⋯誰にも渡さない⋯っ!」
その言葉は
呪詛のように冷えた声だった。
「例え⋯⋯
家族のような、貴方だとしても⋯⋯」
目を細めた時也の瞳には
憂いと狂気が絡み合って宿っていた。
その掌には
握り潰した煙草の火傷が赤く滲み
焦げた皮膚がひび割れていた。
皮膚の裂け目は炭化し
黒く変色している。
だが——
その傷口の中から、何かが蠢いた。
焼け焦げた皮膚の隙間から
緑の蔓が静かに顔を覗かせる。
まるで土の下から
芽吹く植物のように
蔓はゆっくりと広がり
傷口に根を張るかのように
絡みついていく。
ひび割れた皮膚は
植物の根が浸透するように再生し
やがて傷は
何事もなかったかのように
閉じていった。
「⋯⋯レイチェルさん⋯⋯」
時也は
塞がったばかりの傷口が裂ける程
強く拳を握り締める。
再び指の爪で抉られ
じわりと血が滲み出す。
「⋯⋯どうか、彼を⋯⋯
僕から⋯⋯守ってください⋯⋯」
自らの指が抉る痛みが
胸の内にある焦燥と
恐怖を掻き立てる。
「⋯⋯僕は⋯⋯」
時也の声が震えた。
胸の奥に押し込めた思いが
堪えきれずに溢れかける。
「⋯⋯僕は⋯ソーレンさんを⋯⋯
傷つけたくない⋯⋯っ」
こみ上げる熱が、喉を締めつける。
それでも、震える声は止まらなかった。
「本当は⋯⋯友のように
家族のように⋯⋯」
声が途切れ、言葉が喉で詰まる。
「⋯⋯心から⋯⋯
笑い合いたいのに⋯⋯っ!」
彼が時折見せる
ぶっきらぼうな笑顔。
からかうように「ママ」と呼ばれ
苦笑しながら「やれやれ」と返す日常。
喫茶「桜」で積み重ねた
何より大切なもの。
その穏やかな時間が
指の隙間から
崩れ落ちていくような気がして
時也は息を詰まらせた。
「⋯⋯嫌だ⋯⋯」
震えた声が零れ
ぽたりと涙が足元に落ちる。
石畳の隙間に
吸い込まれていくその雫は
まるで自らの無力さの
象徴のようだった。
「⋯⋯殺したくない⋯⋯」
時也の喉から、ひび割れた声が漏れた。
(僕は⋯狂っている⋯⋯っ)
自分の心の内側に潜む
狂気を知っている。
アリアを守る為なら
誰を殺めても構わない——
そう思う自分がいる。
(⋯⋯でもっ!)
ソーレンは、そういう相手ではない。
——ぶっきらぼうで
口が悪くて、いつも不機嫌そうで。
でも、誰よりも人の痛みを知っている。
傷付いて、踏みにじられ
それでも人間らしさを捨てきれない。
(⋯⋯本当は⋯⋯優しい人なんです)
もし、そんな彼が——
本当の「愛」を知ることができれば。
その中に眠る前世の
〝悲恋の未練〟は
消えるかもしれない。
「それが、一番、良いはずなんですっ」
だが、もし——
もしそれでも
前世の未練がアリアへと伸びるなら——
「⋯⋯嫌だ⋯嫌だ⋯っ!」
時也は
握り締めた拳に
さらに力を込めた。
爪がさらに食い込み
血が再び溢れ、傷口が裂ける。
ぽたり、ぽたりと
血の雫が石畳に滴り、黒く滲む。
「⋯⋯僕を⋯とめて⋯⋯っ」
震えた声が、闇に溶ける。
「⋯⋯頼みます⋯レイチェルさん⋯⋯」
声が掠れ、消え入りそうになる。
「彼の血で⋯⋯僕の手が⋯⋯
汚れないように⋯⋯」
その言葉が
悲痛な祈りとなって
空へと昇っていく。
夜風が静かに吹き抜け
時也の髪を乱した。
月の光は、ひどく冷たかった。
そして
彼の震えた背中を見つめるように
桜の木は静かに花弁を揺らしていた。