蔵の入り口に立ち、月子は驚く。
臥せっているはずの母が、起き上がり、荷物をまとめていたからだ。
風呂敷に、着替えや、日常生活で必要になる物を包んでいた。
「母さん!」
月子の呼びかけに、母は振り向いた。
そして、優しく微笑むと、一言、「おめでとう」と、言った。
月子は、悟る。
佐紀子だ。
佐紀子が、早速動いたのだ。
案の定──。
「佐紀子さんのはからいでね、母さん、佐久間先生の所へ、入院することになったのよ。しばらく月子とは離れてしまうけれど……」
そこまで言うと、母は、床に手をつき、コンコンと咳き込んだ。
「母さん!無理しないで!」
支度は、自分がすると言いかける月子へ、母は、キツイ口調で言い放つ。
「……月子、離れて!離れなさい!お前にまで移ってしまう!」
咳き込みながら、母は、月子の身を案じて近寄らせようとはしない。
月子は、かろうじて頷くと、手に持っている粥入りの小鍋を、蔵の角、二人の箱膳を仕舞っている脇へ置き、自身もそっと座った。
蔵の扉は開いている。外から風が入り込んで来ているから、換気はちゃんとできている。母が多少咳き込んでも、これだけ離れていれば、月子に、もしもしのことは、起こり得ないはず。
ただ、良くわからないのが、胸の病。本来は、蔵の外へ一旦出た方が良いのだろうけれど……。
小さくではあるが、苦しげに咳き込んでいる母を見捨てる様な気がして、月子は、離れた場所に控えていた。
本当は、母の背をさすってあげたいと、月子は思うが、今の母では、到底、近寄ることを許すはずがない。
口惜し思いをしながら、月子は、母が落ち着くのをじっと待った。
暫くして、なんとか、咳がおさまった母は、また、ポツリと月子へ言った。
「佐紀子さんから、聞いたよ。縁談話が、あるんだってね?良かった。本当におめでとう。これで、月子も、幸せになれるね。母さんの世話ばかりで……、月子は、自分の事が何もできなかったもの……」
やはり、佐紀子が、やって来て、事情を母へ告げたようだった。
そして、取り決め通り、母を病院へかけてくれる。
佐紀子は、確かに、言ったことは守る。だが、余りにも急ではなかろうか。
でも、これで母は病院へかかることができる。良いことなのだと、月子は、ほっとしたが、指先がどこか冷えるというべきなのか……、少し、寂しさを感じつつも、さて、佐紀子は、どこまで、母へ事情を語ったのだろうと、一抹の不安も抱いていた。
母の口振りから、西条家から無一文で追い出される、という事情をわかっているようには思えなかった。
佐紀子のことだ。月子へ縁談が持ち上がり、世話をする人間がいなくなるから、病院へ……と、母を丸め込んだのだろう。
言ったことは、確かに守る佐紀子ではあるが、言い分は常に、自身の立場を守るもので、相手によって、コロコロ変わる。
流石に、母へは、きつくあたれなかったのか、はたまた、蔵へ自ら足を運んだは良いが、長居したくなかったのか。用件だけ、つまり、本当の所は、省略したのだろう。
月子は、母へどう答えれば、いや、佐紀子が蔵へ来て何を言ったのか尋ねるべきか、迷いに迷った。
母は、なんとか息を調え、病院から迎えが来るからと、どこか、嬉しそうに、支度を続けようとしている。
「……母さん?迎えって?」
「ええ、部屋が空きそうだから、ってね。これから入院するの……急な話だけど。月子、お前も色々と準備があるでしょ?母さんの世話ばかりしてたら、せっかくのお話が流れてしまうわ」
母は、苦しげではあるが、にこりと笑った。
やはり……。
佐紀子は、本当の事、肝心な事を言っていない。仮に何故言わなかったと、月子が責めよっても、佐紀子は、要点は言っている、何がいけないとばかりに、とぼけるのだろう。
娘の縁談話を持ち出せば、母親ならば、すんなりと、病院への入院、つまり、西条家から出て行く事を受け入れる。
月子は、親心というものを利用して、たばかった佐紀子を恨めしく思った。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!