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…申し訳ございません。」
神経を伝って文字にする。
私は今日、ひとつの決断をした。
仕事を辞めるということは、“ここで頑張る”という当初の決断の否定となる。それは過去の自分の否定。自分を、また職場の人を裏切ってしまった気持ちが痛い。
原因は主に、常に接する一人の従業員の冷たさだった。自分は誰とでも仲良く楽しくやろうとするタイプで、後輩にも笑顔で優しく教えるタイプ。無論、みんながみんなそういう人間ではないし、教え方は人それぞれだ。単に私と彼女が合わなかっただけ。そうだとしても、それが私にとって、毎日小さな傷を心につけられているように感じていた。
なんとなく、これから先も彼女とは仲良くなれそうにないと察したので、私は自分を“つけられる傷”から離すことにした。
と同時に沸いてくるのは、優しかった方々への申し訳なさである。励ましてくれた人がいたのに、自分はその期待に応えられなかった不甲斐なさ。追い討ちをかけるように、自分の心を痛めつける。不安と恐怖に打ち勝てなかった。
原因は先に挙げた彼女だけではない。仕事の面でも極度の緊張が走って、このままそこにいるのは耐え難く感じた。
そうして何もすることがなくなった。この“自由な時間”は、勤務中に追い求めていたものである。でもいざ、空白に身を置くと、心は不幸を作り出すのである。
職がないという状態。金銭面での不安。将来への不安。
大体いつも職業に就いたら三年は続けていたし、それを目標に頑張ってきた。それがたった一ヶ月である。自分に『失敗』のレッテルを貼る。
暇を持て余して不安を生み出す心を止めたくて、SNSに気持ちを吐き出す。いいねがつく。共感のコメントがつく。
ああ、この人は私より頑張っているな…。私なんてまだまだ甘いや。
けれど比べても仕方ないのだ。限界というのは人それぞれで、誰かができることでも、他の誰かにはできなかったりする。私は精神科に通院している身でもあり、自分自身を守る選択をとった。結果決めたことに従わねばならないのが人生である。
あの人がいなければたぶん仕事を続けていただろう。でも世の中に存在している人々は皆一生懸命に生きていて、いろんな個性があるからこの世は美しいのだ。誰かを否定したくはない。ただただ、合わなかった。そして私はそこから逃げたのだ。
空白の時間と心を埋めるように、手元にあるお菓子を食べる。
あー、ダイエットもしなくちゃいけないのに…。
次の仕事はどうしよう。そもそも私に合う職場ってあるのかな?私はただ楽しくお仕事がしたいだけなのに。
何もかもがうまくいかない、そんな気がしてきて、目眩がした。
お菓子を食べるのも飽きたとき、目の前にあったきゅうりを手に取った。家でお父さんが作ったきゅうり。半分くらい食べたところで、食を楽しんでない自分に気がつき、食べる手を止めた。こんなためにきゅうりは育ったんじゃないよな、美味しく食べてもらうために、すべての食材は存在しているのだ。美味しく思えるときになったらまた食べよう。それでもきゅうりは私の身体の一部となり、私は生かされる。
生きている。それだけで充分なときもある。
2日前、自殺未遂をした。仕事が嫌で。本当に死にたくなったとき、書き置きをする余裕もなくなる。すぐにこの世から消えたかった。まともに考える余裕さえ、失われてしまう。だから『死』が万能な解決策と捉えてしまうのだ。
私は彼氏に見つかった。本当はどこか、見つけてほしかったのかもしれない。
生きたいのに生きていたくない。
ときに脳はこのようにバグるけれど、基本誰しも生きていたい。そう造られている。脳がバグを起こしても、身体は呼吸をしようとするし、細胞たちも身体が生きるよう必死に活動している。血が流れたら固まろうとする。傷口を塞いで、修復しようとする。身体は生きたいと思っているので人は呼吸をする。人間は皆、生きていくべきだと教えてくれる。
人は幸せになるべきなのだ。その幸せのために生きていきたい。
だから私は何度だって挑戦して、自分に合った職場を探していこう。
さっき食べたきゅうりは、とてもみずみずしかった。