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自分自身どこに向かっているのかも分からないままベルニージュは要塞の中を走り続ける。秋の終わりの空気に冷やされて少し冷静さを取り戻しては、ラーガにまつわる過去が思い出されて悶え苦しむ。ずっと姿を消していた過去は今やずっとそばにいて、ベルニージュの羞恥心を刺激した。とても自分が抱いていたとは思えない感情が熱を帯びて鼓動を打っている。
悲鳴をあげる肺を慰めるため、一旦立ち止まろうとしたその時、「ベル。一度落ち着いて話さないか?」と呼びかける声が聞こえ、姿を確認することもせずに、再びラーガから逃げ出す。
ようやくたどり着いたのはベルニージュたちに与えられた寝室だ。扉を開けて飛び込んだ途端、待ち構えていたユカリが代わりに部屋を飛び出て、扉を閉めた。
息を整えつつ、ベルニージュは部屋の外の様子を窺う。
「殿下。ここは婦人の寝室です。お引き取りを」ユカリの毅然とした声が聞こえる。
「俺の要塞だ。その部屋も含めてな」
ベルニージュの両足は行き場もなく部屋の中を彷徨う。
「踏み入ってどうするのです? 戦場でそっぽを向かれることになりますよ?」
「ほう?」ラーガは不意打ちされたかのような相槌を打った。「俺が半神ということは知っているのか?」
「ええ、存じ上げております。我が友と血を同じくする御兄妹なのですから」
暫くの沈黙の後、ラーガは答える。
「いいだろう。言葉を交わす気になったら来いと伝えてくれ。付き添いを連れてもいい」
そう言い残すとラーガは存在感のある足音と共に歩き去った。そしてしっかりとラーガを見送ったユカリが部屋へと戻ってくる。
「煎じる者さん。ベルにも同じ薬湯を用意してあげて」
その時初めてユカリ以外の人物が部屋にいたことにベルニージュは気づいた。小さな獣のぬいぐるみが椅子に座って腕を組んでいる。
「分かっとらんな、ユカリ。同じ薬ならば同じ効果とは限らないのだ。処方する相手の体調だけではないぞ。薬の質に時間帯や季節、ありとあらゆる要素を考慮した上でわがはいの精妙なる技術でもってしてこそ神髄足りえるのだ」
「そうなんですか。とにかくベルにも心が落ち着くものを」
「まったく、偉大なるわがはいをこき使いおって」
煎じる者は魔法の手続きを省略することなく丁寧に薬を練り上げる。いつの間に用意したのか、小さくない棚から様々な薬草、香草を取り出しては引き潰しており、部屋に複雑な香りが追加される。
「とにかく座って、ベル」ユカリに手を引かれ、寝台の端に座る。「焦ってした行動は碌な結果にならないからね」
背の高いユカリに見下ろされ、縮こまる自分にベルニージュは既視感を覚えた。幼い頃、母にこうして語り掛けられた気がする。
「別にもう、何かするわけじゃないよ」そう言ってベルニージュは膝を抱えて丸まる。
「窓から見てたけど、儀式は無事に成功したんだよね? 記憶が戻って、嫌なことでも思い出した?」
「ワタシの母を殺したのはライゼンの大王だって話はしたっけ?」
「ううん。ベルのお母さんの記憶を取り戻してからこの一年、ほとんど何も聞いてないね。でもそれは一年前に魔女シーベラから取り戻した記憶でしょ?」
「そうなんだけど、その、つまり、ラーガは大王の息子でしょ? つまり、ワタシの仇の息子」
「……それで?」
「つまり、その……」
「好きな人が仇の息子だからどうのこうのってこと?」ユカリはあからさまに首を傾げて眉を顰める。
「そ、そう。それで色々分からなくなっちゃって」
「本当に? 私ならともかく、ベルがそんなこと気にするの?」
「そんなことって……」いつになく強気のユカリを前にして珍しく弱気なベルニージュは目を泳がせる。「あんな人だけど、ワタシだって母のことは愛していたよ」
「そこは疑ってないよ。大王とその息子は別人でしょ、ってベルなら言うと思う。そんなことで逃げてくるかなあ、勝利の女神さまが」
聞き間違いかと思ったが、確かにユカリはそう言った。勝利の女神、と。
「さっきの、戦場でそっぽをって、そういうこと? いつから気づいてたの? 私が神だって」
「確信はしてなかったけど。本当にそうなんだ?」
驚いて見上げるベルニージュを見下ろすユカリも目を丸くしていた。
「じゃあ何がきっかけ? ワタシが勝ってばかりだから?」
ユカリは咳き込むみたいに笑う。
「いや、そんな理由じゃないよ。きっかけはシグニカ。たしかあの時も話したよね。ヒューグさんとアギノアさんと一緒に、女神パデラの浄火の礼拝堂を訪れたんだけど、六柱の神々の内、一柱の女神の偶像が無かった。そしてそれらしきものの上半身が地下墓地にあった。ベルは誤魔化してたけどそっくりだったよ」
「ワタシに? そんなに似てたかなあ。大体偶像に似てたくらいでそんな風に思う? あの人、神かも、って?」
「徐々に、ね。もう何人か半神に会ってるし。驚かないよ、あんまり」
レモニカたち兄妹、それにクヴラフワのハーミュラーだ。
「どうしてワタシが勝利を司る女神だと思ったの?」とベルニージュはさらに話を逸らす。「パデラの娘は他にもいるんだけど?」
「礼拝堂を訪れるまで姉妹たちの名前は知らなかったけど、神話におけるパデラの娘たちの司るものは知ってたよ。『戦争』、『平和』、『慈悲』、『引導』、そして『勝利』。……負けず嫌いのベルにぴったり」
「勘じゃん!」
「当たってたから良いの。それで、どうするの?」ユカリは、のんびりと薬の準備をしている煎ずる者に目を向ける。「恋に効く薬はある?」
「媚薬ならあるぞ」と煎ずる者は答えた。「どんな堅物も一撃で沈める強力なやつがな」
「媚薬を使うような段階は過ぎてるけどね。まあ、勝利の女神さまも恋には形無しみたいだけど」
「勝ち負けじゃないし」
「じゃあどうしたいの?」
「どうしよう!?」
自分の膝の間に逃げ込むかのようにベルニージュは丸まった。ユカリは溜息をついてベルニージュの隣に座る。
「村の、姉さん方の受け売りだけど」そうしてユカリはベルニージュの知らない誰かの物真似を始める。「いい? ユカリ? これだけは覚えておくんだよ」そう言ってユカリはベルニージュの顔を覗き込む。「恋は先手必勝!」
「……えっと?」
「あとこうも言ってた。恋は出たとこ勝負!」
「……つまり?」
「とにかく話して来たら?」
「何の解決にもなってない!」
「解決はこれからするんでしょ?」
何の参考にもならなかったが、逃げて解決する物事でないことを思い出させられた。
ベルニージュとラーガは向かい合うことなく、港を臨む。風通しのいい要塞の内部は冷たい風が吹き込んでいるが、近くに据えられている篝火が激しく燃え盛り、二人を温めている。月明かりも星明かりもないが、二人は篝火に背を向け、お互いの横顔もよく見えなかった。
我慢比べではないが、先に動いたのはラーガだった。とはいえ、ただベルニージュの方に顔を向けただけだったが。応じるようにしてベルニージュもラーガの方を向く。ただしラーガの視線は更に動いて、背後、つまり篝火の方を見ていた。
「『剣振るわば火花の散りて、剣落とさば花の散る』」とラーガは呟いた。
「予言? レモニカと同じような」
「ああ、どういう意味か分かるか?」
「負けたら死ぬ、ですか? 直截的過ぎるかもしれないですけど」
「まあ、そんなところだろう。が、俺は不滅だが、不敗ではない。そして不敗ではないが不滅だ」
「既に普通なら死ぬような目に遭ったことがあるんですよね?」
それを目にした記憶はないが、噂に聞いた記憶はあった。
「故に不滅公という訳だ。実際に死んでみないことには予言の正確な意味は分からない訳だが、戦場では死なない、という意味だと解釈している。ライゼンの男としては中々不名誉な予言だろう?」
「敗死に名誉があるとは思わないですけど」
「手厳しいな、勝利の女神は」
「そんなことよりそんな大事な話をしても良いんですか?」そう言ってベルニージュはさっと周囲を見渡す。聞き耳を立てている者はいない。
ラーガは不満そうにベルニージュを見つめ、そして溜息をつく。
「お前が鈍いのか、俺が回りくどいのか、分からん」ただ見つめ返すだけのベルニージュの赤い瞳の視線からラーガは逃れる。「つまり、そんな大事な話をする相手になってくれ、という意味だ」そうしてラーガに再び見つめ返され、今度はベルニージュが顔を背ける。「今となっては何が変わったのか、自分でもよく分からんが、これが男性性を取り戻し、元の魂に戻った俺の本心だ。ベル。俺と夫婦の契りを結んでくれ」
先手必勝。出たとこ勝負。ユカリの言葉が思い浮かぶ。
「ワタシの負けってことか」何のことか分からないでいるラーガにベルニージュは向き直る。「もう二度と忘れさせないで」
ラーガは黙って、その太い腕と厚い胸板でベルニージュを抱きしめた。