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黒い希望
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紫秋_4aki.
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コメント
1件
まぐれさん、読み終わりました……!まずは本当に、お疲れ様です。このボリュームをよくここまでまとめ上げたなと、率直に尊敬しました。 一番刺さったのは、やっぱり「記憶の宮殿」という犯行動機の設計です。殺人を犯す理由として「忘れたくないから」というのが、突飛でありながらシャオロンの記憶障害という設定に完璧にハマっていて、フィクションとしての説得力が段違いでした。あのラスト、チーノが「何回でも教える」と言い、ロボロが「はじめまして」を繰り返す場面で、もう涙が止まらなかったです……世界観と感情がここまで噛み合う作品はなかなかありません。続きの任務も、心から楽しみにしています。
こちらは、某実況者様のお名前をお借りした二次創作になります。
以下に書かれた注意書きを必ずお読み下さい。
・登場人物等、全てにおいて捏造
・ご本人様とは一切関係がございません。無断転載、晒し、その他のご本人様にご迷惑をおかけするような行為は絶対におやめ下さい。
・誹謗中傷の意は一切ありません。
・この作品はフィクションです。法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません。
・暴力的な表現が含まれます。
※某マダミスシナリオのネタバレ等は含みません。
※殺人に関わる描写については現実的に不可能な内容でわざと書いてます。現実と同一視されないようお願いします。
色々とガバガバですが、あくまでフィクションとしてふわっと楽しんでいただけると嬉しいです。以上のことを理解していただける方のみ、お進み下さい。
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閉ざされた瞼の向こうがぼんやりと白む。重たい瞼をゆっくりと持ち上げると、見慣れない天井が視界に滲んだ。
――ここは、どこだろう。
長い、長い夢を見ていたような気がする。けれど、何の夢だったかは思い出せない。思い出そうとするほど、指の隙間から零れ落ちる砂のように遠ざかっていく。
ふと横を向くと、そこには見知らぬ青年がいた。知らないはずなのに青年の持つ雰囲気はどこか懐かしい。目が覚めて最初に見たのは、彼の美しいマゼンダの瞳だった。
◆ ◆ ◆
人は言う、『落ちこぼれ』だと。
また、ある者はチーノのことを無能と呼び、ある者は役たたずだと吐き捨てた。背中を向ければひそひそと悪意を交わされ、表立って馬鹿にされることもしょっちゅう。
だから、見返したかった。舐めた目で自分を見る奴らをいつか黙らせてやりたかった。その一心で努力して、努力して、やっとの思いで手に入れた幹部という席。
――これで、認めてもらえる。今まで自分を見下してきた奴らにも、自分は落ちこぼれじゃないと証明できる。
しかし、チーノに向けられたのは祝福でも賞賛でもなかった。
身分不相応。
その四文字が、積み重ねてきた努力も掴み取った地位も、まるで最初から価値などなかったように切り捨てた。言葉のナイフが胸に突き刺さったまま、やり場のない黒い陰鬱が日に日に溜まってゆく。
それでも焦るばかりで、何の成果も上げられない。一体どうすれば、自分は認めてもらえるんだろうか。
「あれ、チーノさん」
そのとき、前方から見覚えのある男が歩いてくる。その男はチーノの部下だった。
「どちらへ?」
「今から幹部の定例会議やねん」
「ああ、そうでしたか」
男は足を止めると、にっこりと笑った。
「大変ですねぇ。幹部は仕事も多いんでしょう?」
「まあな」
「あまり無理しないでくださいね。背伸びした環境に居続けるのもしんどいでしょうし。……皆、心配してますよ」
声音だけなら気遣っているように聞こえる。ただ、その口元に浮かんだ薄い笑みがどうにも鼻についた。
心配。
その言葉の裏側に、別の意味が透けて見える。——身の丈に合わない場所にいるのだから、無理をするな。そう言いたいのだろう。
怒れば負けだ。ここで噛み付けば、図星を突かれてムキになったと笑われる。だから、笑って受け流した。それがチーノの処世術だ。
「それにしても、チーノさんってほんと呑気ですよねぇ」
男は「他の奴らも言ってたんですけど」と楽しそうに続ける。
「いつもへらへらしてて。なんていうか、何も考えてなさそうな感じで……」
「――お前ら、邪魔や」
すると突然、低い声が割り込んだ。
「……!ショッピさん、すみません」
男が慌てた様子で一歩後ろへ下がると、ショッピは二人の間を足早に通り過ぎていく。そのとき、ショッピはこちらを一瞥もしなかった。
(……アイツ、もうちょっと愛想良くできへんの?)
チーノは心の中で呟く。だが、目の前の男は違った。先ほどまでの薄笑いは消え、きらきらとした瞳でショッピの背中を追っている。そこに浮かんでいるのは羨望。決して、チーノには向けられることのない感情だった。
ショッピはチーノの同期で、幹部という同じ立場だ。ただ、優れた頭脳と抜きん出た実力を持つ彼は、同期の中でも頭ひとつ抜けて優秀だった。
チーノが歯を食いしばって、何度も何度も手を伸ばして、ようやく掴み取った場所に。ショッピは、まるで最初からそこにいるのが当然だったかのような顔をして立っている。
ショッピは昔からああいう奴だ。誰よりも器用で、与えられた役割をそつなくこなし、人に媚びを売ることもない。チーノがどれだけ努力してもショッピとの差が埋まることはなかった。
「……俺は」
誰に聞かせるでもなく、チーノは呟いた。遠ざかるショッピの背中は、もう廊下の角に消えかけている。
「……アイツみたいにはなれへん」
・
・
・
【第六号 連続放火事案に関する報告】
現在、城下町において”連続放火事件”が発生している。
確認された被害件数は六件。いずれも建造物への放火を伴っており、火災現場からは一名ずつ、計六名の焼死体が発見されている。
また、六件の火災について出火原因はいずれも特定されておらず、自然発火及び事故による出火の可能性は低いものと判断される。
以上の状況から、本件六件は同一犯、あるいは同一組織による連続放火事件である可能性が高い。
単なる放火ではなく、別の目的がある可能性も視野に入れ、慎重に捜査を進められたい。
「……物騒な世の中やなぁ〜」
報告書を眺めながらシャオロンは頬杖をついて、間延びした声でそう言った。幹部棟の会議室には、見慣れた顔が揃っている。長机を囲むように各々が席につき、中央には先ほど配られたばかりの報告書が散らばっていた。
「ほんで?その『放火魔』の身元を突き止めろっちゅうことか」
「そういうのは警察の仕事やないん?」
「それが、六人目の被害者がお偉いさんでな。国の中枢人物が殺された以上、警察だけに任せるわけにもいかん。総統直属の捜査に切り替わることになったんや」
鬱の疑問に端的に答えたトントンが紙面から顔を上げる。そして、居並ぶ幹部たちへ視線を巡らせた。
「――」
その赤い瞳が、チーノを捉える。ドキッと心臓が音を立てて、思わず息を呑んだ。永遠のように長い一瞬だった。
「……ショッピ、頼めるか?」
「はい」
しかし、トントンの視線が逸らされたかと思うと、その視線はショッピへ向けられた。平然と頷くショッピに、チーノの中の何かが抑えきれないほど膨れ上がる。
「……待ってください!!」
その瞬間、バンッと机に手をついて立ち上がった。ほぼ勢いでの行動だったが、全員の視線が集まる中、今さら引くことなどできない。
「それ、俺に任せてもらえませんか?」
「チーノに?」
トントンは目を丸くして、きょとんとした顔でこちらを見た。チーノは大きく頷いて見せる。
「かならず期待に応えてみせます!」
自信満々にそう告げながら自分の胸を叩いた。しかし、トントンは報告書に視線を落とすと悩ましげに頭を捻る。
「チーノはこういう捜査の経験がないし、気軽に任せたで済むもんでもないからなぁ……。チーノには別の仕事任せようと思ってたんやけど」
「どうせいつもの民情調査やろ!たまには俺も地味じゃない仕事がしたいねん!!」
「地味とはなんや、民情調査も大事な仕事やろうが」
「そうやけど〜……っ!!」
チーノが日々積もった不満をぶつけていると、トントンは困ったように息を吐いた。やっぱり俺じゃダメなんだ。ぎゅっと袖口を握りしめて、唇を噛む。そのまま大人しく席につこうとしたとき。
「……なら、俺の助手ってことにしたらええんちゃいます?」
そう言って、口を挟んだのはショッピだ。
「俺もチーノがおってくれた方が心強いですし」
「嘘つけ、お前は自分の負担減らしたいだけやろ」
「そうとも言う」
呆れた様子のトントンにショッピは無表情のまま返す。トントンは深々と溜息をついたあと、やがて諦めたようにこう告げた。
「じゃあ、ショッピの助手ってことで」
自分一人で任されたわけでもなければ、誰もが認めるほどの大役を掴んだわけでもない。それでも、一歩前進だ。
チーノは机の下で静かに拳を握った。絶対、誰もが認めざるを得ない人間になってみせる。自分がここにいることを、誰にも疑わせないほどに。——そう、固く誓った。
◆ ◆ ◆
薄闇に沈んだ店内には、天井から吊るされたシャンデリアが煌々と光を放っている。鏡張りの壁面には無数の光が反射し、黒を基調とした調度品を艶やかに照らし出していた。
磨き上げられた床の上をゆったりとした足取りで歩く。壁際には酒瓶が整然と並び、そこかしこからグラスの触れ合う音と楽しげな笑い声が聞こえてくる。
どこまでも煌びやかで、華やかな空間。店の奥へ進むと、黒いソファーに腰掛けた女がこちらを見上げた。チーノは軽く息を整えると、その隣へ腰を下ろす。そして、女の瞳を真っ直ぐに見つめながら、
「初めまして、姫」
そう言って、にっこりと笑った。
――なぜ、チーノがホストの真似事をしているのか。
ことの発端は数週間前に遡る。
・
・
・
トントンから任務を言い渡されて、チーノとショッピがまず着手したのは捜査の基本ともいえる情報の洗い直しだった。そして今、二人の前には大量の資料が広げられている。
どれも焼け焦げた現場写真と被害者の身元、死亡時刻、事件当日の足取りを記したものだ。一度は目を通したものばかり。何度読み返しても、紙面から浮かび上がってくるのは断片的な情報だった。
「……分からん」
とうとう心が折れ、チーノは椅子の背にもたれて天井を仰いだ。
「なにが?」
「全部や」
投げやりに答えながら、手元の資料を一枚めくる。
「ていうか、そもそもなんでこれを連続放火事件だって断定したん?」
一見、六件の事件に明確な繋がりはない。火災現場に残された証拠は乏しく、目撃情報もほとんどないため全く無関係の放火殺人や焼身自殺のようにも思える。
「同一犯なのは合ってると思うけど……自殺にみえる事件も含めてるし、よう分かったな」
「根拠はいくつかあるで。全ての犯行現場に歓楽街が選ばれていることと、この一年の間に同じような事件が複数回起きていること」
ショッピは資料から顔を上げずに淡々と答えた。
「まぁ模倣犯って可能性もあるけど、現場から検出されたDNAが一致してる。少なくとも、別人が偶然同じ手口を使った可能性は低いやろうな」
放火事件の捜査が難しい理由は単純だ。火が証拠まで焼き尽くし、犯行現場に何の痕跡も残らないからである。過去の事例を見ても、犯人の特定に繋がるのは近隣住民による目撃情報や防犯設備に残された僅かな記録であることが大半だ。そうした手がかりが得られなければ、発生時刻や場所などの統計から行動範囲を推測し、張り込みによって犯行の瞬間を押さえるほかない。
その点、歓楽街は犯人にとって都合がいい。人の出入りが多く、夜になれば死角も増える。誰か一人がその場から姿を消したところでわざわざ気に留める者も少ないだろう。
六件もの火災を起こしながら、犯人は未だに尻尾を掴ませていない。それだけでも、手際の周到さが窺い知れた。犯人の立ち回りがよほど上手いのだろう。
「DNAは発見されてるとはいえデータベースに引っかからんし、状況証拠もほとんどなし……となると犯行動機とか犯人像から詰めていくしかないなぁ」
紙の擦れる音だけが、しばらく室内に響く。
「……被害者の情報、これだけ?」
「警察から回ってきた資料はそれで全部や」
「少なっ!」
チーノが被害者の資料を机の上に放ると、ショッピはそのうちの一枚を指先で摘み上げた。
「……被害者は六人とも職業も年齢もばらばら、家族構成も居住地も違う。家族や交友関係を見てもこれといった繋がりはなし」
「まじで共通点ないなぁ。強いて言うなら、若い女性が多いくらいか」
向かいに座るショッピが六人の資料を順番に見比べる。チーノも資料を眺めながら腕を組んだ。
「恨みとか?」
「それならもっと直接的な手段を取るやろ」
「うーん……金ではなさそうやけど」
「それは同意」
家屋そのものを焼いている以上、室内にあった宝飾品や高価な絵画なんかも失われている。金銭目的の犯行としてはあまりにも割に合わないので可能性としては薄い。
「この手の動機でありがちなのは、犯人に放火癖があるパターンやな」
「無差別ってこと?……なら、やっぱり被害者に共通点はないんちゃう?」
「いや、一応調べておくべきやろ。警察が『関係なし』と判断したところからもう一回見直す」
ショッピは六人分の資料を一度ばらし、それから机の中央へ並べ直した。
「職業も年齢も全部ばらばら。一見すると、接点はない」
そう呟きながら、ショッピが横一列に並んだ六人の顔写真を順番に指先で叩く。 こうして並べてみても、互いを結びつけるものなど何一つないように見えた。少なくとも、表面上は。
「……でも、事件当日の行動には共通している部分がある」
「最後の足取り?」
「そう」
ショッピが机の上へ地図を広げる。六人の最後の足取りを印で示していくと、ばらばらだった点が一つの区域へと収束していた。
「……偶然にしては出来すぎやな」
そこは歓楽街の一角だった。そして、飲食店や酒場が軒を連ねている中でもとりわけ大きな建物が一つ。
「なんの店?」
「ホストクラブらしい」
資料に記された住所と建物を見比べる。
――『ラストプルーフ』。
看板には、夜の街に溶け込むような華美な文字が躍っていた。
「……チーノ、ここ」
「ん?」
ショッピが一枚の紙を差し出した。そこには、一人目の被害者について記された来店記録があった。
「事件当日の夜、一人目の被害者が『ラストプルーフ』を利用してる」
「……ほんまや」
「二人目も」
三枚、四枚……と続けざまに被害者の資料が重なっていく。最後の一枚を並べると、職業も年齢も何もかもバラバラな中、そこだけが同じだった。
「……被害者の全員がこの店を利用している?」
「それも一度じゃない」
「常連ってことか……」
偶然という言葉だけではもう片付けられない。ばらばらだった六人の人生に、初めて一本の線が引かれた。
「見つかったな、被害者の唯一の”共通点”」
「……『ラストプルーフ』か。調べてみる価値はありそうやな」
「でも、客の情報なんて教えてくれんやろ。普通に聞き込みにいくとしても限界があるやろうし」
「せやろな」
「どうする?」
持っていた資料から顔を上げると、ショッピはすまし顔のまま、何でもないことのように言った。
「外からじゃ無理なら中に入ればいい」
「……は?」
ショッピは机の脇に置いてあった端末を手に取り、画面をチーノへ向けた。そこには、『ラストプルーフ』の店舗情報が表示されている。
「潜入捜査や。ってことで頼んだわ、チーノ」
「えっ!?俺ぇ!?」
「俺よりお前の方が向いてるやろ」
平然と言い放ったショッピにチーノは呆れるほかない。まさかこいつ、全部分かっててチーノを助手に推挙したわけじゃないだろうな。
どうやらこの事件、思っていたよりも面倒なことになりそうだ。
◆ ◆ ◆
そんなわけで、チーノは件のホストクラブ――『ラストプルーフ』へ潜入した。界隈でも名の知れた超人気店。そのプレイヤーに全くの未経験者が志望するのだから、条件は決して有利とは言えない。だが、そこはチーノの腕の見せどころ。人付き合いの中で身に付けてきた処世術と巧みな話術を駆使して、チーノは見事に採用を勝ち取った。
頭脳でも、腕力でもない。人の心に入り込むための言葉だけがチーノにとって唯一の武器である。
「じゃあ、さっそく今日から勤務してもらいますね」
「はい!」
快活に返事をすると、オーナーは柔和な笑みを浮かべた。年齢は四十代半ばほど。艶のある黒髪を後ろへ撫で付け、仕立ての良い濃紺のスーツを纏っている。顔立ちは整っているものの若さを売りにするホスト達とは違い、その容貌には歳月を重ねた人間が持つ落ち着きがあった。
「カイ!」
オーナーはチーノを連れて部屋を出ると、廊下を通りかかった男を呼び止めた。カイ、と呼ばれたホストは、オーナーの隣に立つチーノを一瞥し、すぐに状況を把握したらしい。
「あ、新人ですか?」
「そう。こういう仕事は初めてらしいから最初は雑用ね」
「了解です」
それだけの短い会話を交わし、オーナーがその場を立ち去る。チーノと同じく、華やかな衣装を身に纏ったカイは指先で軽く手招きをした。
「まず、これ運んどいて」
そう言って渡されたのは、備品の詰まった段ボール箱だった。
「それが終わったらグラスの補充とバックヤードの整理。手が空いてるときに卓の清掃もよろしく。分からなかったら適当に聞いて」
「は、はい!」
威勢よく返事をし、チーノは段ボール箱を抱えた。
新人らしく振る舞い、与えられた仕事をこなし、店の人間に警戒されない程度に馴染む。それが最初の仕事である。
「これ下げて」
「はい!」
客の目につかない場所では、内勤たちが絶え間なく動き続けていた。酒瓶を運び、空いたグラスを下げ、テーブルを拭く。表から見れば優雅な世界も、裏へ回れば随分と現実的だ。
「シュウジ!」
背後から声が飛んでくる。シュウジ――というのはホストクラブでのチーノの源氏名だ。
「今、手空いてる?」
「空いてます!」
すると、カイは店の奥へ視線を向けた。一番奥の卓に客が一人、ぽつんと座っている。本来ならその向かい側には担当のホストが座っているはずだが、そこに人影はなかった。
「ミナトの卓、ヘルプ入って欲しいんだけど」
その名前には聞き覚えがある。――ミナト。事前に目を通した店の紹介ページにも掲載されていた名前だ。たしか、『ラストプルーフ』のナンバーワンホスト。
「ミナト、今ちょっと揉めてるんだよ。別の卓も手が離せない」
「……揉めてる?」
「客同士のトラブル。まぁ、お前が気にすることじゃないよ」
カイはこともなげにそう言った。潜入初日。よりにもよって、ナンバーワンホストの指名客を相手にすることになったらしい。しかも、自分が与えられた役目は担当が戻るまでの間を繋ぐこと。卓の向こうにいる客をちらりと見る。
これは、むしろ好機だ。事件の被害者たちは全員、この店の客だった。何気ない会話から事件に繋がる情報を引き出せるかもしれない。
「……わかりました!」
「よし、じゃあ頼んだ」
カイは満足そうに頷いて、チーノの肩を叩いていった。周囲ではホストたちが笑い声を上げ、グラスの触れ合う音が絶え間なく響いている。その喧騒を縫うようにして、チーノは一番奥の卓へ歩みを進めた。
「――失礼します」
声をかけると、女がゆっくりと顔を上げる。テーブルの上には既にいくつかのグラスが並べられているが、本人の手元にある酒だけはほとんど減っていない。
「すみません、ミナトさんが少し手を離せなくなってしまって。少しの間ですが、俺がご一緒させてもらってもいいですか?」
「……新人の子?」
「はい。本日から入ったばっかりで」
「へえ」
女の視線が頭の先から靴までゆっくりと落ちていく。値踏みするような眼だった。だが、チーノは気にする素振りを見せない。
「俺、シュウジって言います。よろしくお願いします」
そう名乗り、女の向かい側へ腰を下ろす。どうやら、すぐに追い返されることはなさそうだ。
「変わった髪色ね。それ地毛なの?」
「もともとです」
チーノは髪を一房摘んでみせた。
「染めるの面倒なんでそのままにしてます」
「嘘っぽい」
「えぇ、ひどいなぁ」
女がくすりと笑う。最初こそ物珍しげにチーノを眺めていた女も、いくらか言葉を交わすうちに警戒を解いていった。不意に、喧騒の向こうから声がする。
「――遅くなってごめんね」
それは騒がしい店内で不思議なほど鮮明に耳へ届いた。
「ミナト!」
女がぱっと表情を明るくした。そこへ、一人の男が歩いてくる。
シミひとつない雪のような白い肌に、顎の辺りで揃えられた絹糸のように滑らかな栗色の髪。長い睫毛に縁取られた真紅の瞳は、見る者を惹き込むような神秘的な輝きを湛えている。知らず知らずのうちに張り詰めいてた警戒さえ一瞬で溶かしてしまうような柔らかい笑みは、ひとたび風が吹けばどこかへ消えていってしまいそうなほど儚くみえた。
「待たせちゃった?」
チーノは無意識に息を止めていた。写真越しでも恐ろしいほど顔が整っているとは感じていた。それでも、実際に目の前へ現れた彼は画面越しに見たものとはまるで違う。人を惹きつけるために生まれてきたような存在。これが、『ラストプルーフ』のナンバーワンホスト。
「ううん」
「ほんと?寂しくなかった?」
「……ちょっとだけ」
「そっか。ごめんね」
ミナトは女のすぐ隣に腰を下ろすと、端正な顔に人好きのする笑みを浮かべた。その声音には媚びたところがない。客を喜ばせようと必死になっているようにも見えなかった。だが、女の表情は先ほどまでとは明らかに違っている。
「俺の代わりに相手してくれてたんだ。ありがと、シュウジ」
「えっ……い、いえ……」
初対面どころか初出勤なのに、さらりと名前を呼ばれて思わず動揺してしまった。ミナトはふんわりと微笑むと、何事も無かったように話を続ける。なるほど、これは人気がでるのも頷ける。
ミナトはよく喋るホストではなかった。自分から話題を次々と投げることはせず、客が口にした些細な言葉を拾っては、そこから会話を広げていく。相手が話したければ黙って耳を傾け、言葉に詰まれば絶妙なところで話題を差し出す。
客が何気なく口にした好みもよく覚えていて、以前話した些細な出来事をごく自然に会話へ織り込んでいた。笑ってほしいところでは笑い、相手が言葉を選んでいるときには急かさない。言うならば、圧倒的に”受け”が上手い人間だった。
(……この人、ほんまにすごいな)
チーノも、人の懐に入り込むことにはそれなりの自信があった。相手が何を求めているのかを探り、言葉を選び、必要ならば自分の見せ方すら変える。
しかし、ミナトはそれらをもっと自然にやっている。こちらが言葉を選ぶより先に、相手の欲しがる言葉を差し出しているようだった。ホストとして、というより。彼は人の心を扱うことそのものに、恐ろしく長けている。
――この人には、下手な嘘はつかない方が良い。
そう胸の中で結論付けながら、チーノは飲み慣れないシャンパンを口へ運ぶ。その頃には、先ほどから感じていた違和感がとうとう見て見ぬふりができないところまで膨れ上がっていた。頭の奥を鉄の輪でじわじわと締め付けられるような感覚。加えて、鼻腔にまとわりつく甘ったるい香水の匂いがひどく不快だった。
「……シュウジ?」
ミナトの声がどこか遠くから聞こえる。途端に胃の奥から何かがせり上がるような感覚に襲われ、チーノは咄嗟に口元を手で押さえた。――しまった。自分が酒に弱いことをすっかり忘れていた。
「どうしたの?気分悪い?」
「……っいえ、……」
「あら、大丈夫?」
こちらを心配そうに覗き込む女にチーノはどうにか笑ってみせる。ミナトはその顔をしばらく見つめ、女に向き直った。
「ごめんね。少しだけ離れるけど、すぐに戻ってくるから。いい子で待てる?」
女は頬を赤らめてこくりと頷き、ミナトが「ありがとう」と微笑んだ。ミナトは手を伸ばして、チーノを優しく立たせてくれる。
「すみません……」
「ううん、無理しないで。具合悪いならオーナーに伝えておくから、今日はもう帰った方がいいね」
「でも、まだ仕事が……」
「初日でしょ?そんなの気にしなくていいよ」
ミナトに肩を支えられながら、バックヤードまで連れられた。今も頭はズキズキと痛んでいるし、吐き気が治まらない。世界がぐるぐると回っているみたいだ。
「じゃあ、ここで少し休んでていいから」
「……はい……」
するとまた、吐き気が波のように押し寄せてきた。チーノは洗面台へ手を付いて、必死に胃の中身を吐きだそうとするが何も出てこない。
「えほ、げほ……っ」
耐えるように目を瞑って、荒い呼吸をゆっくりと整えようとした。
「――噛んじゃダメだよ」
すると突然、顎を持ち上げられる。ミナトはチーノの反応を意に介さずに口を開かせ、自分の白い指をなんの躊躇いもなくチーノの喉の奥へと突っ込んだ。
「……!?っぅ、ぇ」
他人の指に食道を刺激され、喉の奥が締まる。じんわりと涙が滲み、チーノは嘔吐感に任せるままに洗面台へぶちまけた。胃液と水分を吐き出しただけだが、ずっと楽になった気がする。
「……げほッ……えほッ……!」
「少しはマシになった?」
チーノの背中を手のひらで優しく撫でながら、ミナトは優しい声音で問う。
「……はい、ありがとうございます……」
口元を袖で拭いながら見上げると、ミナトは微塵も嫌悪感を見せずに柔らかい笑みを浮かべていた。
「すみません、ホストなのに酒弱くって……」
「気にしないで。俺も酒弱いからヘルプに飲んでもらったり、薄めに作ってもらったりしてるんだ」
そう言って、にっこりと綺麗に微笑む。
「無理して飲んでも楽しくないでしょ」
人の懐に入り込むのが上手いのも、相手の気持ちを察するのが早いのも、全部が計算というわけではないのかもしれない。これが天然の人たらしというやつか。
それにしても、普段からコネシマや鬱という美形に囲まれているのでそれなりに耐性はあるはずだが、気を抜くと見惚れてしまいそうになる。
「え、えっと……俺、調子悪いんで今日はこの辺で帰らせていただきますね」
とにかくミナトから距離を取ろうと、チーノはゆっくりと後ずさる。
「……っ、わ!?」
しかし、後ろ向きに歩いていたせいか足元にあった段差に気付かず、踵を引っ掛けてしまった。バランスを崩した身体が後ろへ倒れ込む――そのとき、ぐんっと腕を引っ張られた。
「平気?」
「すみませ――」
反射的に顔を上げた瞬間、チーノは息を呑んだ。
とんでもなく整った顔立ちが至近距離にある。真っ白い肌も、すらりと通った鼻筋も、ルビーのような瞳も。その全てが現実離れしていた。近くで見るとより整っているのが分かる。
――この人、顔が良すぎる。
チーノの様子を知ってか知らずか、ミナトは楽しそうに目を細めた。
「シュウジってちょっと抜けてるんだね」
その笑顔の破壊力たるや。チーノはそれからのことをあまり覚えていない。
◆ ◆ ◆
「チーノこいつどないしてん?」
帰ってきてからというものの、心ここに在らずといった様子でぼんやりとしているチーノを鬱とコネシマが怪訝そうに覗き込んでいた。
「さあ。店を出てきたあとからずっとこんな感じなんですよ」
呆れたように返すショッピはもはや慣れたようで、チーノには目もくれず手元の資料を淡々と整理している。
「……抱かれた、気がする……」
「へぇ、そんなに男前やったんか?そのミナトっちゅう奴は」
「不動のナンバーワンの称号も納得のビジュアルでしたね。ありゃ女にモテるわけですわ……クソぉ……」
「人の美醜なんてどうでもええやろ。顔がええからってなんか得することあんの?」
「男に興味ないわ」
まあ、お前らはそうだろうよ。何度見ても作りもののように整った顔立ちの先輩二人を、チーノは眼鏡のレンズ越しに睨みつけた。
「それで?どうやった、初潜入は」
「まぁ……それなりに収穫はありましたよ」
思っていた以上に店の内部へ入り込むことができた。客層も、店の雰囲気も、従業員の様子もある程度は掴めたが、肝心の事件についてはまだこれといった手掛かりはない。まあ、潜入初日としては上出来だろう。
「――ショッピとチーノいる?」
そのとき、部屋に入ってきたのはシャオロンだった。
「どうしました?」
「なんか、エミさんが二人に話があるらしい」
その言葉にチーノとショッピは顔を見合わせる。何の話か聞いても、シャオロンは「知らん。とりあえず来てくれって」と肩を竦めていた。
チーノは資料をまとめて、ショッピと共に席を立つ。二人が向かったのは、エーミールが待つ書物庫だった。
・
・
・
書物庫の扉を開けると、紙の匂いが鼻を掠めた。壁一面に並べられた書架。その間を縫うように設けられた机には、いくつもの資料や書物が積み重ねられている。
部屋の奥では一人の男が本を読んでいた。こちらの気配にも気づいていないのか、ページをめくる音だけが静かな室内に響いている。
「エミさん」
ショッピが声を掛けると、紙面に落ちていたエーミールの視線がゆっくりと上がった。
「あぁ、来てたんですね」
色素の薄いガラス玉のような瞳が二人を捉える。エーミールは本を閉じて、立ち上がった。
「夜分遅くにお呼び立てしてすみません。……少し、伝えておきたいことがありまして」
そう言って、エーミールは机の上に解剖書を広げる。
「しんぺいさんと遺体を解剖してみました。その中で、不可解な点があったんです」
「不可解?」
その言葉に二人は首を傾げた。
「被害者の死因は何だと思いますか?」
「一応、焼死って聞いてますけど」
「そうじゃないなら……一酸化炭素中毒とか?」
しかし、エーミールはゆるりと首を横に振った。
「普通、焼死体には肺などの気道内に煤が溜まっているんです。この遺体は、気管も肺も綺麗なままでした。しかも、ヘモグロビン濃度は上昇しておらず、防御体位も取っていない。……つまり、焼かれているときには死んでいたということになります」
「えっ、じゃあ、既に死んでいる遺体をわざわざ燃やしたってこと?」
チーノとショッピは同時に顔を見合せた。エーミールが資料をめくりながら呟く。
「一体、何のためにそんなことをしたのかは分からへんけど……」
「証拠隠滅とかですかね」
エーミールは顎に手を当てて、考え込んでいた。
「もしくは、”一度殺してから焼く”という一連の行為に犯人は何かこだわりがあるのかも知れません」
その言葉が静かな書物庫に落ちた。机の上に広げられた解剖書。その傍らには、焼け焦げた遺体の記録が並んでいる。これまで何度も目にしてきた資料だった。
「……放火が先じゃなかったってことだよね」
「そういうことやな」
ショッピが低く答える。
「――これは放火事件じゃなく、殺人事件や」
その言葉を最後に、書物庫は再び静寂に包まれた。壁一面の書架が、何も知らぬ顔で三人を見下ろしている。
――誰かが人を殺し、その痕跡を炎の中へ隠している。今まで見えていなかった犯人の輪郭が、ほんの少しだけ闇の向こうから浮かび上がった気がした。
◆ ◆ ◆
チーノが『ラストプルーフ』に潜入してから、約二ヶ月が経過した。建前上のホストとしての仕事は順調だった。長年培ってきた経験と話術を存分に生かし、着実に数字を伸ばしている。
――そして、分かったことが一つ。
放火事件の被害者六人はいずれもラストプルーフの常連客だった。その全員が、”ミナト”を指名していたらしい。さらに、六人には酒癖が悪いという共通点があった。過度なボディタッチなどのセクハラを繰り返したり、内勤に対して暴れたりと、店側にとって歓迎できる客ではなかったという。
また事件が起きる前に、犯人を見つけなければならない。チーノは今、バックヤードの更衣室にいた。誰もいないのを確認してから、ホストたちのロッカーを一つずつ調べていく。物証になるような物が見つかる可能性は低いが、何か手掛かりがあるかもしれない。
(……ミナトさん)
コネシマは「容疑者の最有力候補はミナトって奴なんやな」と言っていた。たしかに現状で一番それらしい動機があるのはミナトだ。だが、あの人が誰かを殺すようには思えない。身の潔白を証明するためにも、ミナトを徹底的に調べるべきだ。チーノはロッカーを開いて、ミナトの鞄を取り出す。
「……スマホと財布……手鏡、櫛……」
鞄の中身は至って普通だった。強いて言えば、化粧道具らしいものがリップクリームしか入っていないことくらいか。……あの人、ノーメイクなのか?場違いな疑問が一瞬、脳を過ぎる。
「……ん?」
鞄の奥に、何かが引っ掛かっている。指先で探り、それを取り出すと――マッチだった。
先端の薬剤は見慣れた安全マッチよりもくすんだ黄褐色をしている。どこか古めかしく、不安を誘う見た目だ。
『チーノ、そっちに一人向かってるで』
店の様子を監視していた鬱から無線が入る。チーノは慌ててマッチを鞄に突っ込むと、ロッカーの扉を閉めた。
……ただ、マッチを持ち歩いているだけかもしれない。あれだけで何かの証拠になるわけではないだろう。
・
・
・
「……うわ、また来てる」
営業終了後。店内の明かりが落とされていく中で、カイがふと窓の外へ目を向けた。その顔が露骨に顰められる。
「どうしたんですか?」
チーノが尋ねると、カイは返事の代わりに窓の外を指差した。ガラス越しに見える夜の街はすっかり人通りが途絶えており、店の入口付近だけがぽつりと街灯に照らされている。そこに、一人の女が佇んでいた。
店の入口を見つめたまま微動だにしない。誰かを待っているのだろう。だが、こんな時間まで立ち尽くしている理由をわざわざ考える必要はなかった。
「あの人、ミナトの太客だったんだ」
カイが、うんざりしたように言った。
「でも、ミナトのことをストーカーしたり、他の姫と店先で喧嘩したり……迷惑行為ばっかりでね。オーナーが出禁にしたけど、たまにああやってミナトの出待ちしてるんだよ」
女はまだそこにいた。店が閉まろうとしていることなど、まるで気にしていないらしい。ただひたすら、誰かが出てくるのを待っている。
「ミナトに今日は裏口から帰れって言っとかないと」
カイはそう呟くと、背中を向けて歩き出す。 ……ストーカーか。ナンバーワンホストというのも大変な仕事らしい。チーノは窓の外を静かに見つめた。
営業終了後のホールは、昼間の喧騒が嘘のように静かだった。音楽は止まり、客の笑い声もグラスの触れ合う音も聞こえない。煌々と照らされていた照明も今は半分ほど落とされており、誰もいなくなった店内でチーノは黙々とテーブルを拭いていた。しんと静まり返ったホールに、時計の秒針だけがやけに大きく響いている。
『……チーノ、そろそろ上がれそう?』
耳元の通信機からショッピの声が聞こえた。
「もう少し。こっちの片付けが終わったら戻れるわ」
『了解』
短い返事を聞き、チーノは再び布巾を動かす。ふと、先ほどボードで確認した売上実績が頭を過ぎった。思わず布巾を握り締める。
「くそっ……このままじゃ今月もミナトに売上負ける……」
『お前、目的変わってきてへん?』
呆れた声が通信機越しに響く。チーノはそれを適当に聞き流しながら、最後のテーブルへ向かった。
ショッピと他愛のない雑談を交わしつつ、布巾を磨かれた天板の上に滑らせる。そのときだ。
――背後から忍び寄る影に、チーノは気づかなかった。
「……っ!?」
次の瞬間、背後から何者かに身体を拘束される。チーノは反射的に身を捩るが、びくともしない。口元を塞がれているせいで声も出せず、無理に動こうものなら右腕の骨が折れそうだった。
何より恐ろしいのは、相手の存在に直前まで気づかなかったことだ。――どうして。気配が全くなかった。
身体を捻った拍子に机へぶつかり、置かれていたグラスが床へ落ちる。
――ガシャンッ!
静寂を切り裂くような音がホール中に響き渡った。それでも相手はチーノを離さない。テーブルに押さえ付けるように体重掛けられ、ますます身動きが取れなくなる。
すると、チーノの首筋へひやりとした感触。急所に添えられたナイフが皮膚を浅く切って、つう、と鮮血が流れる。
(……くそ、まずいッ)
脳内で警鐘が鳴っていた。このままでは殺されてしまう。チーノは、唯一自由な左手を必死に伸ばした。机に転がっていたアイスピックをなんとか握ると、背後から押さえ付けている影に思いっ切り突き刺す。
「……っ!」
すると、相手が怯んだ。その隙を逃さず、チーノは拘束を振りほどく。懐へ手を入れ、ハンドガンを抜いた。
――しかし。振り向いたときにはもう遅かった。黒いローブを翻し、襲撃者は店の出口へ駆けていく。
「待てッ!」
チーノもすぐさま後を追う。
『おい、チーノ!すごい音したけど何かあったんか!?』
通信機からショッピの焦った声が響いた。チーノは荒い息を整えながら逃げ去った方向を睨みつける。
黒いローブのせいで、顔も姿もほとんど見えていない。ただ一つだけ、確かなことがあった。相手はチーノを狙っていた。偶然、襲われたわけではない。――自分が何者なのかを、知っている。
「――連続放火事件の犯人と接触したッ!!」
・
・
・
歓楽街周辺の路地裏では、二人の男が息を潜めていた。街灯の届かない建物の陰。人目につかない場所に身を隠し、路地の奥をじっと見つめている。
「……暇やわ〜」
鬱が煙草を吹かしながらぼやく。数刻前、チーノが連続放火事件の犯人と接敵した――との報告が入った。それを受け、チーノが犯人を追った先を起点として周辺の各所へ人員を配置。管制室の指示に従いながら、二人もそのうちの一つで待機している。とはいえ、いつ現れるとも知れない相手をただ黙って待ち続けるのは鬱には退屈だった。
「ほんまに来るんやろうな?」
「ロボロの見立てではな。まぁ、来たら捕まえるだけの簡単な仕事や」
コネシマは欠伸を噛み殺し、手にしていた通信機を弄ぶ。連続放火犯――頭が切れる上、あのチーノを出し抜いたという話だから決して油断できる相手ではない。だが、今はもう袋の鼠だ。逃げ道は限られている。コネシマもいることだし、そうそう大事にはならないだろう。
鬱がそう考えているとき、時計塔の鐘が鳴った。
ゴォン。ゴォーン。
夜の街に重たい音が響き渡る。不意に、路地の向こうで人影が揺らめくのが見えた。
「……シッマ」
「来たか」
コネシマの口元が不敵に吊り上がった。そして、近くに積まれていたゴミ箱を一息に飛び越え、建物の壁際へ飛び乗る。わずかな足場を蹴り、音もなく高低差を利用して黒い影の死角へ回り込んだ。
抜き放った剣が、夜気を裂く。
「――」
だが。刃が届く寸前、黒い影が身を翻した。ほんの僅かに身体を逸らし、コネシマの一撃を躱す。
「えっ、嘘ぉッ!?!」
コネシマが目を見開いた。完全な死角からの一撃。足音も殺気もこちらからは一切漏らしていないはずだ。――偶然か?
「…………」
黒いローブを頭からすっぽりと被り、顔は深く落としたフードの影に隠れている。その裾の隙間から覗いた手は異様なほど白かった。細い指が何かを探るように懐へ伸びる。ゆっくりと引き抜かれたそれが、月明かりを受けて鈍く光った。
「こいよ」
コネシマが挑発的に笑うと、それに応えるように黒い影が地面を蹴る。そして、手に持ったナイフをコネシマの顔目掛けて一閃した。
「……っぶね、」
ナイフが頬を掠めて薄く血が滲む。すかさずコネシマが剣を振るうと、相手は身軽な動きで躱してみせた。刃先がローブの裾を掠めるほどの距離だった。
「チッ」
三撃目。今度は逃げ道を塞ぐように、横から大きく薙ぎ払う。
「――ッ!?なっ、」
だが、相手は一歩前へ踏み込んだ。剣の軌道の内側。そこへあっさりと入り込むと、コネシマの腕を掴む。身体の軸を崩され、コネシマの身体が地面を離れた。
「シッマ!」
鬱の声が響く。コネシマは咄嗟に身体を捻り、地面へ叩きつけられる寸前で受身を取る。
「……っ、やるやん」
息を整える暇もない。コネシマが立ち上がった瞬間には、もう黒いローブが目の前に迫っていた。
コネシマが地面を蹴って後ろへ下がる。相手の動きを予測していたのか、そのまま距離を詰めてくるのに合わせて大きく振りかぶった。それを相手が避けようとする――その瞬間、コネシマは剣を止めた。フェイントだった。振り抜くはずだった刃を途中で引き戻し、空いた懐へ身体ごと踏み込む。
「――」
そのとき、相手はナイフを放り出した。宙に浮かぶナイフが、月明かりを反射する。コネシマの意識もほんの一瞬だけそちらへ逸れた。――そのときだ。
「……えっ?」
何が起きたのか分からなかった。だが、黒い影の裾から伸びた脚が視界の端を掠めたように見えた。
「ぁぐ――っ!?」
鈍い音が路地裏に響いた。コネシマの身体が糸の切れた人形のように大きく吹き飛ぶ。
「シッマ!?」
コネシマの身体はそのまま数メートル先まで飛ばされ、背中から壁へ叩きつけられた。ゴッ、という鈍い衝撃音が耳に残る。コネシマは、壁にもたれかかったまま動かない。
(……嘘やん!?あのシッマが……)
鬱は一歩、後ずさる。すると、黒いローブの人間がこちらを振り向いた。月明かりを受けたその姿がやけに大きく見える。
「……冗談やろ」
口から乾いた笑いが漏れた。コツコツ、と靴音を立てながら、ゆったりとした足取りでこちらへ近づいてきている。あのコネシマでさえ勝てなかった相手に、自分が敵うはずがない。かくなる上は。
「……そこに転がってる男は煮るなり焼くなり好きにしていいのでどうか!どうか、僕だけは許してくださいッ!!靴でもなんでも舐めますからぁ〜〜ッ!!」
鬱は両手を上げ、地面へ額を擦り付ける。それからしばらくして、恐る恐る顔を上げた。
頭から被ったフードはその顔を覆い隠していた。風もないのに、裾だけがゆらゆらと揺れている。
フードの奥に、二つの赤い光が浮かんでいた。
――真紅の瞳。
「……ぁ」
鬱の喉から声にならない声が漏れる。ほんの一瞬、その瞳と視線が交わった。だが、ソイツは何も言わずに黒いローブを翻すと、そのまま闇の向こうに走り去っていく。
何故見逃されたのか、その理由は鬱には分からない。ただ、あの赤い瞳だけがはっきりと脳裏に刻まれた。
◆ ◆ ◆
「情けないザマやなぁ」
シャオロンが呆れたように言った。医務室を兼ねた休憩室には消毒液と薬品の匂いが微かに漂っている。簡素なベッドの傍らでは、コネシマが椅子に腰掛けていた。その腹部には何重にも包帯が巻かれており、先日の戦闘で犯人に蹴り飛ばされた際に肋骨を痛めたらしい。
「我が軍で”近接最強”と名高いコネシマさんがあっさりやられるとは……」
「とんでもないバケモンやな」
正直、にわかには信じ難い。普段ならどれだけ不利な状況でも最後には力ずくで押し切ってしまう男だ。そのコネシマが手も足も出なかったなんて、本当に人間か疑わしいくらいである。
「俺がおらんときに大変なことになってたんやな」
シャオロンがどこか他人事のようにそう呟いた。
「まぁ、シャオロンがおったところで何の役にも立たんかったやろうけど」
「はぁ〜〜〜?みっともなく命乞いしたお前よりは役に立つわ!」
「あれは戦略的撤退やから」
つい先日、命を懸けた攻防があったとは思えないほどいつもの調子だ。話の流れを断ち切るようにショッピが口を開く。
「大先生とコネシマさんは犯人の姿を見たんですよね?」
「おん。まぁ、顔はフードで隠れとったけどな。気がついたら気絶してて正直あんま覚えてへんわ」
「僕も見たで。てか、目が合った気ぃする……」
その時のことを思い出したのか、鬱は自身の身体を抱くようにしてぶるりと身を震わせた。
「あのときの僕はまさしくちいかわだった……」
「お前のどこらへんが小さくて可愛いん?」
「ちんこやろ」
そして、チーノはさらに尋ねた。
「他になんか覚えてることとかあります?」
「せやなぁ〜……」
コネシマと鬱は顎に手を当てて考え込む。ふと、思い出したように鬱が顔を上げた。
「犯人が現れたのは十二時ぴったりやったで」
「よう覚えてますね」
「ほら、街の中心にバカデカい時計塔あるやん?あれの鐘の音が聞こえたから」
「たしかに鳴っとったなぁ」
コネシマは頷くと「……とりあえず」と腕を組んだ。
「ラストプルーフへの潜入捜査は中止やな。犯人がチーノの正体に気づいた以上、捜査を続けるんは危険すぎる」
その言葉に黙り込んだ。コネシマが言っていることが正しいのは分かっている。あの夜、確かに自分は殺されかけた。あと少し何かが違っていれば、今こうしてここに座っていることもできなかったかもしれない。それでも――。
「待ってください」
気づけば、そう口にしていた。
「……俺に、潜入捜査を続けさせてほしいです」
言葉にしてしまえば不思議なほど迷いはなかった。もちろん、危険なのは承知している。
状況証拠だけを見れば、現時点で最も疑わしいのはミナトだ。だが、自分が知るミナトの人柄とはやはりどうしても結びつかない。
「――あかん」
そう言ったのは、鬱だった。伸びた前髪の隙間から覗く群青の瞳がチーノを射抜く。
「お前、殺されかけたんやで。今回はたまたま生き延びたかもしれんけど、次も大丈夫なんて保証はどこにもない」
「分かってます」
「なら……」
「だからこそ、やめるわけにはいかんのや」
チーノは群青の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「俺があの店にいる間は、外から監視するよりずっと近くでミナトさんを見張れる。……それに、俺はまだあの人が犯人だと確信できてません」
確かに怪しいと思っている。それでも、あの人が人を殺したのだと考えると、どうしても胸のどこかでそれを拒んだ。もし本当に犯人なら、自分の知らない何かがあるはずだ。自分が見てきたもののどこかに、見落としているものがあるはずなのだ。
「この事件の犯人は、――俺が見つけます」
本当にあの人が犯人なのか、自分自身の目で確かめたい。それだけは途中で投げ出したくなかった。
しばらくの沈黙のあと、鬱が大きく息を吐き出す。
「……そこまで言うならしゃーないな」
その言葉にチーノの顔がぱっと明るくなる。鬱は人差し指を立てて「ただし」と続けた。
「僕の監視付きっていうのが条件や。それならええで」
「ほんまですか!」
「お前、ほんとチーノとショッピくんに過保護やなぁ」
「俺も異論なし。チーノならやれるやろ」
「ま、それが合理的やな」
なんとか許可を取り付けた安堵からチーノは小さく息を吐いた。これでもう一度、あの店へ戻れる。
「……ショッピ?」
ふと、先ほどからショッピが一言も発していないことに気づく。
「えっ……あぁ」
ショッピが顔を上げた。その無表情はいつものように気怠げではなく、どこか真剣味を帯びている。
「……すまん、ちょっと考え事しとった」
そう言って、また視線を落とす。報告書の一枚に記された犯人の逃走経路。ショッピはそこをじっと見つめたまま、何かを確かめるように指先で紙の端をなぞっていた。
◆ ◆ ◆
机上には、先日の襲撃事件に関する報告書。そのほかにも、連続放火事件の捜査資料や軍の人員配置図、通信記録が乱雑に広げられている。
ショッピが一冊の報告書をめくった。そこには、チーノが連続放火事件の犯人と接敵したとの報告が記されている。
チーノは、『ラストプルーフ』で身元が露見するような失態を犯していない。
潜入捜査であることはもちろん、軍人であることも店の人間には悟られないようにしていた。言葉遣いも、立ち振る舞いも、徹底して偽っていたはずだ。
それなのに、犯人はチーノを狙った。偶然とは考えにくいだろう。――つまり、誰かが情報を流した可能性が高い。
そこまで考えたところでショッピは眉間に皺を寄せた。軍の内部に犯人と繋がっている人間がいる。そう考えるほかなかった。問題は、その人物が誰なのか。
チーノから犯人と接敵したという報告が入り、すぐに周辺へ人員が配置された。逃走経路を予測し、各所に兵を待機させる。包囲網は完成していた。
――犯人はどうやって逃げた?
もちろん、犯人の動きが予想を上回った可能性はある。コネシマを倒すほどの実力者だ。包囲を突破することだって、決して不可能ではない。
「…………」
いや、考えろ。どこかおかしいところがあるはずだ。ショッピは机の上に広げた資料を睨み付けた。
先日の襲撃事件。チーノが連続放火事件の犯人と接敵し、コネシマと鬱が身柄を拘束するために向かった。二人は東側の路地で犯人を捕捉したが、取り逃した。そこまでは何度見返しても変わらない。
――犯人が現れたのは十二時ぴったりやったで。
――ほら、街の中心にバカデカい時計塔あるやん?あれの鐘の音が聞こえたから。
ふと、鬱の言葉が蘇った。
「……十二時」
ショッピは小さく呟き、通信記録を開く。
――23:55 コネシマ・鬱が東側で犯人と接敵
通信記録には各部隊から送られた報告を管制室が受理した時刻が記録される。鐘が鳴ったのは零時。だが記録上、接敵したのはその五分前になっている。たった五分の差。ただ単に鬱とコネシマの記憶違いかもしれない。それでも、ショッピは思考を止めなかった。
――23:58 東側への増援指示
そのときは単純な包囲強化だと思っていた。チーノから犯人と接敵したという報告が入った直後だったのだから、増援そのものは不自然ではない。
しかし。東に人を回したことで、別の場所から人員が一人抜けていた。――西側。犯人が逃げたとされる方向だ。
――00:05 西側で犯人と思しき人物の目撃情報あり
「…………」
ショッピは地図を引き寄せ、軍が配置した包囲線を一本ずつなぞってゆく。東から西へ抜ける道はない。主要な通りは全て封鎖されているし、裏路地にも人員を配置していた。それなのに犯人は東側から消え、西側に現れた。
「どうやって……?」
ショッピは地図を見つめたまま呟いた。そのとき、時計塔の位置に目が止まる。
「……時計塔……」
椅子から立ち上がり、棚から古い市街地図を引っ張り出した。現在の地図には載っていない古い区画。取り壊された建物。現在は使われていない通路。――紙面を辿る指がぴたり、と止まった。
「…………あった」
時計塔の地下を通り、かつての西側区画へ抜ける旧管理通路。現在は使われていないため、現行の軍用地図には記載されていない。だが、西側で目撃された時刻と通路を通れば移動可能な時間は完全に一致する。
ショッピはゆっくりと椅子に腰を下ろした。犯人は包囲を突破したわけでも、包囲の外へ出たわけでもない。旧管理通路を使って包囲線を迂回したのだ。
可能である。――その道の存在を知っていれば。そして、その入口付近から人がいなくなっていれば。
「……そういうことか」
――23:58。とある人物が、東側への増援を指示している。その結果、西側の特定地点に一時的な空白が生じた。
さらに、記録の時刻はすべて現場から送られたものではなく、管制室経由で記録されている。鬱の証言では犯人が現れたのは零時ぴったり。それなのに、通信記録には五分早い記録が残っている。誰かが時間をずらし、意図的に間違った情報を伝えていた。そう考えれば全て繋がる。
それだけではない。軍が引き継いでから起こった二件には、犯人が逃走したと思われる方向には必ず軍の配置に不自然な空白があった。犯人の動きが予想外だったからでは片付けられない。
「――ロボロさん」
ショッピは息を呑んだ。あのとき、現場にいた人間の誰よりも犯人の逃走経路を正確に把握していたのはロボロだった。
軍の情報を預かり、人員配置や通信を統括している男。誰よりも慎重で、誰よりも正確だった。だからこそ、誰も疑わなかった。指示そのものにおかしなところはない。増援も、配置転換も、通信の処理も。その一つ一つを見ればすべて合理的だ。
だが、それらを事件ごとに並べてみると、同じような場所に同じような空白が生まれている。そんなことができる人間は軍に一人しかいない。
――ロボロさんは共犯者だ。
ロボロには事件当時、軍にいたアリバイがある。自ら現場へ出向いて犯行に及んだとは考えにくい。だが、間違いなく何らかの形で犯行に加担している。
その事実に気づいた瞬間、ショッピは椅子を蹴るように立ち上がった。
・
・
・
誰かが言っていた。ロボロは嘘をつくのが上手いと。
犯人を取り逃したとき、ロボロは悔しそうにしていた。情報収集のために話を聞いたときもそうだ。何も知らないと話す様子に動揺や緊張は全くみられなかったし、言動に何かを隠そうとする意図も感じられなかった。
自分は洞察力に優れているほうだと思う。少なくとも、詐欺師の肩書きを持つわりにすぐ人に騙されたり弄ばれるチーノと比べたら、人間観察が趣味の自分の方がよっぽど人を見る目がある。
そう自信があったからこそ、何の疑いも持たなかった。しかし、忘れていたのだ。あの人が、ロボロが、どれほどの『演者』なのかを。
「……あぁ、誰かと思えばショッピくんか」
管制室の扉を開けると、いくつもの端末が光を放っていた。機械が情報を処理する音。その合間を縫うように、室内のどこかから合成音声が淡々と流れる。
「すみません。ちょっと聞きたいこと があるんですけど」
「今忙しいから手短に頼むわ」
ショッピは室内をぐるりと見渡した。ロボロの姿はどこにもない。管制室の奥にある一枚の扉、恐らくその向こうに彼がいるのだろう。
「……正面の部屋には入らんといてな」
「分かってますよ」
こちらの視線に気づいたのか、ロボロが釘を刺す。ロボロがあの部屋から出てくることは決してない。会話をするときでさえ、こうして通信機を介して合成音声だけを届けてくる。唯一、あの部屋の出入りを許されているのはロボロと同期のシャオロンだけ。それ以外は軍の誰も、ロボロの姿を見るどころか声すら聞いたことがなかった。シャオロン曰く、人に姿を見られるのを極端に嫌がるらしい。
人の事情をわざわざ詮索する気もないが、こうして疑いを抱いてから考えてみるとその徹底ぶりも妙に滑稽だった。
「この間、歓楽街の連続放火事件の犯人と接触しましたよね」
「おん」
「そのときの通信記録には、二十三時五十五分にコネシマさんと大先生が犯人と接触したと残されています」
「……あぁ、それで?」
ショッピは少し間を置いてから続けた。
「……でも、大先生達の証言では犯人と接触したときに鐘の音を聞いたそうです」
「鐘の音?」
「はい、時計塔の鐘です。あの鐘が鳴るのは午前零時ちょうど。記録と五分のズレがあります」
「……考えすぎや。どうせアイツらの勘違いやろ」
予想通りの答えにショッピは僅かに眉を寄せる。ここで問い詰めたところで、ロボロは認めない。証拠としても弱いだろう。五分程度の食い違いなら、証言者の記憶違いで片付けることはできる。
「二十三時五十八分。西側第三地区から人員を一人、東側へ回している」
ショッピは手元の報告書を持ち上げ、監視カメラへ向けた。
「この指示をしたのはロボロさんですか?」
「そうやで。コネシマ達が犯人と接敵したから、増援を送った。何もおかしくないやろ」
そう落ち着き払ったように言うロボロに、さらに問いを重ねる。
「コネシマさん達がいた東側に一番近い部隊じゃなくて、わざわざ西側の部隊を抜いた理由は?」
「配置上、そこが一番動かしやすかったからや」
淀みのない答えだった。まるで、最初から答えを用意していたかのように。合成音声は一定の調子を保ったまま、こちらの疑念をすり抜けるように淡々と響く。このままだと、上手くはぐらかされて終いだ。
「話はこれで終わり?なら……」
「聞き方を変えます」
ロボロの声を遮るように言う。ここで引くわけにはいかない。なんでもいい、少しの綻びを拾え。
「ロボロさんは犯人がどうやって逃げたと思いますか?」
その問いかけにすぐ返事はなかった。管制室には相変わらず機械の駆動音が満ちている。
「……さあな。包囲を突破したんちゃう?」
「そうですか」
確かに、それが最も自然な答えだ。現場では犯人を包囲していたにも関わらず、犯人はその包囲を抜けて姿を消している。普通に考えれば、どこかに生じた隙を突いて逃げた。それで説明はつく。……ただ。
「時計塔の地下に旧管理通路があるんですよ」
「そんなとこ今は使われてへん」
あまりの即答に一瞬だけ目を細める。
「使われてるかどうかの話はしてません」
「…………」
「俺はまだ、『犯人がそこを使った』とは言ってないですよ」
沈黙。ロボロは旧管理通路の存在を知っている。それだけでは決定打にはならない。管制を担当する人間なら、軍用地図に載っていない古い施設についても知っていても不思議ではない。
ただ、ショッピがその通路の存在を口にしたとき、ロボロは”犯人が使っていたかどうか”ではなく、”今は使われていない”ことを否定した。そこが逃走経路になる可能性を知ってたみたいに。
「……仮に、犯人がその通路を使ったとします」
ショッピは一枚の地図を取り出した。
「通路は封鎖されていますが、出口の一つは西側第三地区に繋がっている」
地図の上を指でなぞる。
「そして、犯人が逃げた時間帯。ロボロさんの指示で西側から一人抜けて、旧管理通路の出口付近に警備の空白ができてます」
「……それがなんや」
「犯人を追うなら、普通はここを塞ぎますよね」
指先を通路の出口の位置へ戻し、トントンと叩いた。西側第三地区の人員は時計塔周辺の警戒も担当している。そこから一人抜けば当然、通路の出口の警備に穴ができる。
「犯人が旧管理通路を知らなくても、逃走経路として警戒する価値はある。時計塔の地下は死角が多く、地上の包囲を抜けるならまず確認すべき場所です。なのに、その時間だけそこを見張る人間がいなくなってる」
ショッピは頭に被ったヘルメットを直しながら、足元へ目線を落とした。
「……最初は偶然だと思いました」
今回だけならいい。指示を間違えることもあれば、配置に穴ができることもある。現場では予想外のことがいくらでも起こる。
「でも、軍が捜査に加わってから起きた二件。犯人が逃げた方角と軍の警備が薄くなった場所が一致している」
最初の三件については、警察の記録を何度読み返しても不自然な点はなかった。当然である。あの頃、軍はまだこの事件に関わっていない。
けれど、四件目以降は違った。軍が捜査を引き継いでから起きた二件では、犯人が逃走する直前にいずれも包囲網の一部に不自然な空白が生じている。
「なぜ逃走経路の警備だけが薄くなっていたのか」
「…………」
「犯人が逃げたあとに人員を動かしたなら増援を送ったと説明できます。でも、証言が正しいなら人員が動かされたのは犯人が現れる前です」
「……何が言いたいんや」
「つまり、あの指示の目的は増援じゃなかった」
ショッピは静かに言った。
「犯人に逃げられたんじゃない。――犯人が逃げられるように、誰かが道を作っていた」
その誰かは現場の兵士ではない。人員を動かす権限を持ち、通信記録を管理し、包囲網へ手を入れられる人物。
ショッピは管制室の奥にある扉を見据える。
「……ロボロさん」
初めて疑惑とともに、その名前を口にした。
「――歓楽街の連続放火殺人事件に加担していますよね」
返事はない。スピーカーから流れる合成音声が途切れ、管制室が静寂に包まれる。やがて、スピーカーから微かなノイズが漏れた。
「……ふっ」
「……知ってます?疑いをかけられたとき無実の人は怒って、真犯人の人は笑うらしいですよ」
「なんやそれ、証拠でもあんの?」
「それも犯人の常套句です」
「相変わらず、よぉ舌がまわるなあ」
ロボロが笑う。合成音声では実際に笑っているかどうかすら分からない。だが、その声には確かに愉快そうな響きがあった。
普通ならここで少しは動揺するはずだ。身に覚えのない罪を着せられたのなら、誤解だと主張したり、もっと必死に否定する。それでも、ロボロは何も言わなかった。自分が疑われることなど最初から想定していたように。
「……否定しないんですね」
「してるやろ。証拠でもあるんかって聞いてる」
「それは否定とは言わないでしょ」
すると、スピーカーの向こうから溜息が返ってきた。
「……ここでどれだけ詭弁を弄したところで、お前は上に報告するやろ?大分ボロ出してもうたし、どっちにしろバレるのは時間の問題や。……それに、もうタイムリミットも近い」
タイムリミット。ショッピがその言葉の意味を考えるより先に、どこかから音が鳴る。
キィ――
管制室の奥。今まで一度も開いたことのなかった扉が、ゆっくりと開かれた。
「――」
ショッピが息を呑む。そして、そこに現れた姿を見て目を見開いた。
「…………シャオ、さん?」
成人男性のくせにまるで子供のようだと揶揄われているやや低い背丈。体躯は小さいが存在感のある彼は、橙色の和装を身に纏い、真っ直ぐに切り揃えられた黒髪を揺らす。なにより特徴的なのは、”天”という一文字が入った雑面から覗く、怜悧で冷えきったマゼンダの瞳。
――部屋の中から現れたのは、”シャオロン”だった。
なぜシャオロンがここに。動揺するショッピを見て、シャオロンは満足げに口の端を吊り上げだ。
「……まぁ、そう思うよな」
何かがおかしい。くすくす、と笑う声も妙に静かで、いつもの耳を塞ぎたくなるような騒がしさは鳴りを潜めている。雑面の奥から覗くマゼンダの瞳が、知らない人間のものに見えた。
「……今までこの姿でシャオロンを名乗っとったけど、俺の名前はシャオロンやない」
信じられなかった。
「どうも、シャオロン
――改め、俺がロボロや」
よろしゅう。細められたマゼンダの瞳は、妖しげな光沢を帯びていた。
◆ ◆ ◆
――同時刻。チーノは『ラストプルーフ』にいた。
夜は笑い声やグラスの触れ合う音で満ちるホストクラブも、昼間になれば静かである。
店内にいる客は数えるほどしかおらず、出勤しているホストの姿もまばらだ。煌びやかな照明も今は控えめで、夜の浮ついた空気や喧騒はない。
客の少ない昼間は、当然やることも少ない。とはいえ、店内の細かな雑用を片付けていればそれなりに時間を潰すことはできる。
チーノは棚に並べられたボトルを一本ずつ手に取り、布巾で丁寧に磨いていた。磨き終えたボトルを元の場所へ戻そうとしたとき、横から白い手が伸びてくる。
「俺も手伝うよ」
そう言って、新しいボトルを手に取ったのはミナトだった。ミナトはよくこういう雑用を進んで引き受ける。店で一番の売上を誇るホストでありながら、それを鼻にかける様子は少しもない。誰に対しても分け隔てなく接し、その驕らない態度からラストプルーフでは皆に慕われている。
「……ありがとうございます」
連続放火事件の六人の被害者――その全員が『ラストプルーフ』の常連で、ミナトを指名していた。それも、ストーカーまがいの行為を繰り返したり、ホストに無理を強いたりする厄介な客ばかり。状況だけ見れば、ミナトは現時点で最も疑うべき人間の一人だ。
(……この人が、ほんまに人を殺したんやろか)
この二ヶ月間、チーノはずっとミナトを見てきた。彼は底抜けに優しい。誰かが困っているとき、迷うことなく手を差し伸べる人だ。そんな人が、本当に――。
『チーノ、聞こえるか?』
耳元の通信機から鬱の声がする。そして次の瞬間、鬱の口から衝撃の事実が告げられた。
『――たった今、歓楽街の住宅地で火災が発生したとの通報が入った』
チーノの手が止まる。磨きかけのボトルを持ったまま、弾かれるように隣を見た。そこには、ミナトがいる。
『まだ例の放火事件と決まったわけやない。でも、状況的には可能性が高い』
もし、連続放火事件の新たな一件だとしたら。ミナトに犯行は不可能だ。ミナトは今朝からずっとこの店にいた。チーノが知る限り一度も店を出ていない。この瞬間も、ミナトはチーノの目の前でボトルを磨いている。
「シュウジ」
この人が犯人なら、今ここにいることを説明できない。
「――どうかした?」
いつもと変わらぬ、美しい笑み。チーノの思考は行き場を失ったまま、どこまでも絡まり続けた。
・
・
・
一方、管制室。
「いつかバレるとは思ってたけど、まさかこんなに早く気づかれるとはなぁ」
ロボロは緊張感のない声音で呟き、肩を竦める。
「……でも、一番肝心なんは実行犯やろ。そこはまだお前も分かってへんのちゃう?一応言うとくけど、俺は絶対吐かへんぞ」
「でしょうね。……まぁ、そっちはチーノがなんとかするやろ」
「随分と信頼してるんやな」
信頼というより丸投げのようにも聞こえるが、その表情や声音にはチーノへの揺るぎない信頼が滲んでいた。
「……どうして、ロボロさんはこんなことを?」
紫紺の瞳が真っ直ぐにロボロを射抜く。
こんなこと、とは何故ロボロが殺人に加担し、数年間もの間、”シャオロン”という偽名を名乗ってまでわざわざ二人の人間を演じ続けたのかを問うているのだろう。
行動の目的としては、一番厄介な相手になる可能性の高い軍に自らが入隊することで動向を探り、情報を得るためだ。そのために、”シャオロン”と”ロボロ”の二つの役が必要だった。
だが、ショッピのことだ。そんなことは大体察しがついているだろう。ともすれば、彼が知りたい答えは他にある。
――決断を迫られた、あの時のことを思い出す。
正義か、情か。
天秤にかけてみた。見殺しにすることへの罪悪感。胸にこびりついて消えることのない後悔。その二つを乗せた途端、自分でも驚くほどあっさりと天秤は傾いた。
――あの日、彼は絶望の淵へ叩き落とされた。
蹲って泣きじゃくるアイツを前に、ロボロは何もできなかった。何か言わなければと思った。手を伸ばさなければと思った。それでも、アイツの傷に触れることを躊躇った。
俺がいる。そう言えれば、何かが変わっていたのだろうか。あのとき、そう言えていたら。
どうしようもないほど深い傷を負っているくせに、取り繕うように浮かべる下手くそな笑みがいっそ憎たらしかった。それが痛みの裏返しだと、本当は分かっていたのに。
でも、臆病な俺は拒絶されることを恐れて、手を差し伸べることができなかった。俺はアイツに救われたのに。アイツのためなら傷ついてもいいと、そう覚悟を決められるほど強くなかった。
もっと時間が経てば。いつか傷が癒えれば。そんな甘い考えに縋っているうちに、アイツの心は壊れてしまった。
そして今も、アイツに何もしてやれなかった後悔をずるずると引き摺り続けている。
結局、ロボロは自分の抱える罪悪感に耐えられなかっただけだ。何もできなかった自分をどうしても許せなかった。
どうして、なんて。そんなの決まりきっている。正しいかどうかなんて分からない。ただ、あの日何もできなかった自分に残されたものが、それしかなかった。
「……これが俺にできる、唯一の贖罪なんや」
◆ ◆ ◆
夕暮れはとうに過ぎかけていた。西の空にはまだ薄明るさが残っているものの、街の隅々には濃い影が落ち始めている。
あの歓楽街で発生した火災は、やはり例の連続放火犯によるものだった。そして今、チーノは軍の書物庫で報告書に向き合っている。紙面に並ぶ文字を目で追いながらも、どうにも内容が頭に入ってこない。さっきから何度もミナトの顔が脳裏を過ぎっていた。机の向かいでは、エーミールが一冊の資料を読むのに没頭している。
「……エミさんって、ほんま真面目よな」
ふと口にすると、エーミールが顔を上げた。
「そうですか?」
「だって、自分の任務じゃないのに今回の事件にめっちゃ協力してくれてるやん」
「何かお役に立てたらいいなと思いまして……」
そう言って少し照れたように笑うと、エーミールは手元の資料に目線を落とす。今回の事件について、彼は以前から捜査に積極的に協力してくれていた。こうして報告書や資料を読み込むだけではなく、実際に科学捜査の現場にも足を運び、焼け跡から採取された試料や、遺体の状態についても話を聞いているらしい。チーノもショッピと共に一度だけ現場へ足を運んだことがある。
「俺も現場行ってみたけどグロすぎて無理やったわ」
「まぁ、たしかに焼死体は辛いものがありますから。警察関係者でもトラウマになる人が多いと聞きます」
「エミさんは平気なん?」
「私は慣れてますから」
チーノは身を乗り出して、エーミールの手元の資料を覗き込む。
「……今までの六件は夜間に起こってたのに、今回の事件では真っ昼間なんやな」
「そうですね。分析官の方から聞いた話によると、今回の現場には少し変わった燃焼痕が残っていたそうです」
「変わった燃焼痕……?」
「詳しいことはまだ調査中ですが、これまでの六件とは異なる燃え方をしている可能性がある、と。」
「火の付き方が違うってこと?」
「そこまでは分かりません。ただ、今回の事件はこれまでの六件と比べて、いくつか細かな違いが見られます」
犯行時間のズレ。これまでと異なる燃焼痕。この情報だけでは何とも言えない。だが、なんとなく偶然ではない気がする。六人の被害者が全員ラストプルーフの常連で、ミナトを指名していたことも。そんな偶然もありえなくはないが、可能性としては低いだろう。そして、そこには恐らくミナトが絡んでいる。
ただ、ミナトには事件発生時、ラストプルーフにいたというアリバイがあった。あの人が人を殺したのか、とそう考えずに済むことに少しだけ救われている。なのに、胸の底にはモヤモヤが残ったままだ。
アリバイがあるから犯人ではない。そう簡単に割り切ってしまって、本当にいいのだろうか。
「……チーノくん?」
「へ?」
顔を上げると、エーミールがこちらを見ていた。
「あー……」
チーノは誤魔化すように笑い、椅子の背もたれに身体を預ける。
「ちょっと休憩しようかな。エミさん、煙草吸ってもいい?」
「いいよ」
許可をもらい、チーノは胸ポケットから煙草とライターを取り出した。一本を口に咥え、火をつけようとする。
――かしゅっ。
しかし、掠れた音がしただけで火はつかなかった。
「……あ、オイル切れた」
「貸そうか?」
そう言って、エーミールが懐から何かを取り出す。小さな紙箱だった。
「ライターじゃなくてマッチなん?」
「いやぁ……それが、こないだゾムさんにライター没収されてもうて……。最近はマッチ使ってるんや」
「吸うのはやめへんねや……」
ゾムは軍でも有名な嫌煙家だ。ゾムと仲の良いエーミールは特に目をつけられやすいが、それでも喫煙だけはやめない辺り筋金入りの愛煙家である。チーノは差し出されたマッチ箱を受け取った。
――マッチ。少し前にも、どこかで見た気がする。
(……あぁ、そうや。ミナトさんの鞄にマッチが入っとったんや)
ただ、目の前のそれと記憶の中のものを比べると、どうにも妙な違和感を感じた。
「……こないだ見たマッチとちょっとちゃう気がする」
「え?」
きょとんとするエーミールに、チーノはマッチを指先でつまんだまま説明する。
「もっと古めかしい雰囲気というか……先端の方が黄みがかってて。なんかこう……怪しげな感じ?やってん」
「あぁ、もしかして……」
エーミールは何か思い当たったように呟くと、おもむろに椅子から立ち上がった。そのまま、部屋の奥にある棚を漁り始める。
「どこやったかな……たしか、この辺に……」
ぐらり、と棚の上に積み上げられた本が傾いた。チーノが声を上げるより早く、何冊もの本がエーミールの頭上へ降り注ぐ。
「あいてっ!」
「なにしてんの、エミさん……」
チーノは呆れつつ、床に散らばった本を拾い上げる。その横で、エーミールは何事もなかったかのように棚の奥へ手を伸ばしていた。
「あった、あった」
そして、引き出しの奥から小さな箱を引っ張り出す。
「――あ、それ!」
エーミールが手にしていたのは、見覚えのあるマッチだった。ミナトの鞄の中に入っていたものと同じ。先端の薬剤は見慣れた安全マッチよりもくすんだ黄褐色をしている。どこか古めかしく、不安を誘う見た目。
「1990年代初めまで使われてた旧式のマッチやね。黄リンの発火点が低すぎるせいで何度も事故を起こして、今の赤リンマッチに変わったんや」
チーノは二つのマッチを見比べた。今回の事件がこれまでとは少し違う理由。それらは偶然などではなく、何か隠された意図があるのだとしたら。
「……エミさん、黄リンマッチって何度あれば燃える?」
「そうやなぁ、五十度もあれば充分やと思うよ」
ガツン、と頭部を殴られたような心地だった。
複雑に絡まりあった糸がエーミールの手によってゆっくりと今、解かれてゆく。
(…………まさか)
もし、今チーノが考えついたことが真なのであれば。それはこれまでの推理が全て白紙になることを意味する。己の指先が小さく震えていた。
――仮説が正しければ、放火予想時刻、”現場にいなくても犯行が可能になる”。
つまり前提が覆ったのだ。そしてわざわざそのような手段を選ぶ場合、真犯人はアリバイがある人間の中にいる。
その瞬間、心が波立つような胸騒ぎを覚えた。嫌な予感が全身に駆け巡るのを感じる。
「ありがとう、エミさん!」
確信に似たなにかを手にして、衝動的にチーノが飛び出す。吹き上げた突風に木々の枝が揺れる音は、まるで警告のようだった。
◆ ◆ ◆
「シュウジ、大事な話って?」
そう言って、ミナトはわずかに首を傾げた。ラストプルーフの営業が終わってからもう随分と時間が経っている。店内には客の気配も、従業員たちの話し声もない。照明を落とした店内は昼間とは別の場所のように静まり返っていて、この広いフロアにいるのはチーノとミナトの二人だけだった。
誰かに聞かれる心配がなく、ミナトの反応をじっくりと観察できる状況。それを狙って、彼を呼び出した。
「……最近、歓楽街で起こってる連続放火事件を知ってますか?」
「うん、知ってるよ」
素直に頷くミナトの表情を窺う。いつもと変わらない穏やかな笑顔だった。
「……実は、その事件のことを個人的に調べてるんです」
自分が軍人であることは、まだ伏せることにした。相手に警戒されるような真似は避けたい。潜入捜査において重要なのは、相手から情報を引き出すことだ。
「それで、ちょっと気になることがあって」
「気になること?」
「これまでの被害者の六人とも、この店の常連だったんですよ」
そう言うと、ミナトの眉がわずかに下がる。
「全員、ミナトさんのことを指名してた」
「そうだね」
「噂によると、酒癖が悪かったんだとか。何度も店で問題を起こして、ミナトさんが対応することも多かったんですよね?」
「……まぁ、迷惑なお客さんではあったかな」
困ったようにミナトが笑った。客との間にトラブルがあった。それだけなら、人気ホストであるミナトには珍しい話でもないだろう。だが、偶然と言い切るにはあまりにも偏っている。
「……だから俺は、この店に何か関係があるんじゃないかと思ったんです。でも、オーナーも含めて店の人間を一人ずつ調べても、これといった共通点はなかった」
「……まさか、俺のこと疑ってるの?」
「動機があるというだけです。ミナトさんはウチで一番の人気ホストですし。単なる偶然って可能性もあります」
手のひらにじわりと汗が滲む。そして、ミナトの赤い瞳を真っ直ぐに見据えてこう言った。
「……ただ、七件目の事件で少し状況が変わった」
ミナトが、ゆっくりと瞬きをする。
「これまでの事件はすべて夜間に起こっていました。恐らく、人目を避けるために。……なのに、七件目の事件は目立ちやすい真昼間に起こった」
「……」
「最初は犯人の気まぐれだと思いました」
だが、違った。書物庫でエーミールから聞いた話を思い出す。今回の現場に残されていた、これまでとは異なる燃焼痕。それは、単純に犯人が昼間に犯行へ及んだというだけでは説明できない可能性を示していた。
「……でも、今回の現場には少し変わった燃焼痕とマッチの燃え残りが残っていたんです」
「どういうこと?」
「これまでとは火の付き方が違っています。犯人には何か目的があった。それを達成するために、これまでとは違う放火手段を取ったんです」
犯人がどうやって放火をしたか、なんてチーノには見当もつかなかったし、犯人を捜査する上でそこを必ず解き明かす必要もないと考えていた。しかし、エーミールから聞いた話を組み合わせれば一つの仮説が浮かび上がる。
「……これまでの事件はすべて夜間に起こっているのに、今回だけ真昼間に起こった。それがもし、”犯人が火をつける瞬間を自分で選べないから”だとすれば?」
何かの条件が揃ったときに火をつけられる仕掛けがあるとして、その条件とは何なのか。
「――その条件は、気温です」
チーノはこう言った。
「高い気温による”自然発火”。それが、今回の事件の出火原因です」
「いや、それだと夏なんてそこら中で火事が起きるでしょ」
「正確に言えば、気温じゃなくて太陽の高度ですけど」
そのまま、淡々とした口調で続ける。
「ガソリンを撒いた遺体と、マッチを窓際に置いていたんです。太陽高度に合わせてちょうど直射日光が当たるよう計算してね」
「マッチの発火点ってすごく高いし、いくら直射日光でも燃えるはずないよ」
「その通りです。ただ、黄リンマッチなら五十度もあれば十分だそうです」
ミナトは何も言わない。先ほどまで浮かべていた笑みをわずかに薄め、こちらを見つめている。その視線から逃げることなく、チーノは静かに息を吐いた。
「……肝心なのは、どうしてこんな回りくどい方法を犯人が選んだのかということです。それは、現場にいなくても実行が可能――つまり、犯行時間を偽装するためです」
火災の発生時刻と犯人が火種を仕掛けた時刻が別なら、ミナトのアリバイは崩せる。だが、それだけではミナトを犯人と結びつけることはできない。
「……少し前に、ミナトさんの鞄の中身を見ました」
ミナトの鞄に入っていたマッチが犯行に使われたという証拠はない。誰かが入れた可能性だって残っている。
六人の被害者がミナトを指名していたことも、偶然で説明できるかもしれない。
彼らが店にとって迷惑な客だったことも、それだけで殺人の動機になるとは限らない。
そして、今回のアリバイが崩れたところで、それは「犯行が可能になった」というだけだ。犯人だという証明にはならない。
チーノがミナトを呼び出した本当の理由は、犯人だと断定するためじゃない。
この事件に対してどんな反応を示すのか。ひたすら問いを投げて、揺らす。何を知っていて、何を知らないのか。それを確かめるためだ。
「――黄リンマッチを持っていましたよね?」
ミナトの瞳がほんのわずかに揺れる。チーノは、あえて確信しているように振る舞った。
「ここまで状況証拠が揃ってるのに、何も関係ないと言い張りますか」
これは証明ではない。ミナトの鞄にあったマッチが犯行に使われたと証明できていない以上、まだ推論の域を出ない。だから、この言葉は賭けだった。
「――ミナトさんが、連続放火事件の犯人なんですね」
長い沈黙が落ちる。ミナトは否定しなかった。かといって、肯定もしない。ただ、赤い瞳でじっとチーノを見つめたまま。先に耐え切れなくなったのはチーノだった。
「っ、俺は――」
「軍人でしょ?」
ミナトが遮るように言った。ばくんと心臓が跳ねて、息が止まる。――どうして。何故、ミナトがそれを知っている?
「……凄いね、チーノ」
その名前を呼ばれた瞬間、背筋を冷たいものが走り抜けた。
「なんで俺の名前を……」
「最初から知ってたよ。チーノが潜入捜査のためにこの店へ来たこともね」
こちらの情報がすべて筒抜けだ。それはつまり、軍の中にミナトと繋がっている人物がいるということだろう。チーノは無意識に拳を握った。
「ミナトさん……いや、偽名やろ。アンタは何者なんですか?」
数秒の沈黙。やがて、ミナトは微笑んだ。薄い唇がゆっくりと開く。
「――俺は、シャオロン」
その名前が、静かな店内に落ちた。
「……シャオ、ロン……」
「そう。聞き覚えのある名前なんじゃない?」
そう言われて、脳裏に浮かんだのは背丈の低い男だった。軍の情報を扱う立場にあり、誰よりも多くの情報へ触れることのできる人物。なら、軍の情報を漏らしたのは――。いや、それを考えるのは一旦後回しだ。
「……じゃあほんとに、アンタが……」
「そうだよ」
シャオロンはあっさりと認めた。まるで、隠す必要などもうどこにもないとでもいうように。ゆっくりと椅子へ腰を下ろす。その仕草に焦りは一切なかった。
「まぁ、正直ここまで辿り着けるなんて思わなかったし、せっかくだから俺からもご褒美をあげるよ」
「……ご褒美?」
「そう。俺の犯行動機を教えてあげる」
艶々と妖しく光る唇に人差し指を当てて、「内緒だよ」とシャオロンが囁く。
「俺が人を殺したのは記憶の宮殿のためなんだ」
「記憶の宮殿……?」
聞き馴染みのない言葉にチーノは眉を寄せる。
「場所法って言ったほうが分かりやすいかな。記憶術の一種だよ。場所と覚えたいことを結びつけて記憶する方法」
「……いまいち分からんのやけど」
言い換えられても、やっぱり分からない。記憶術なのだから、何かを覚えるための方法なのだろう。チーノの知っている記憶術といえば、せいぜい語呂合わせくらいだ。
「架空の映像記憶みたいなもの。例えば、ゾウって単語を覚えておきたいとするでしょ?チーノ、目を瞑ってここにゾウがいる光景を思い浮かべてみて」
チーノは言われた通り、目を瞑る。この部屋の光景を思い浮かべ、その中央に巨大なゾウを置いてみた。
「……この部屋にゾウは無理ちゃう?天井に穴空くで」
「お、いい感じ。そうやってインパクトのある光景のほうが記憶に残りやすいんだよ」
シャオロンは続けて言った。
「こんな感じで馴染みのある場所に色んな覚えたいものを配置して覚えていく……これが記憶の宮殿ってやつ」
頭の中に記憶をしまっておくための場所をつくる。そう考えれば、何となく理解できた。
「……つまり、場所の記憶が一番残りやすい人間の習性を利用した記憶術ってことか」
「そうそう」
「でも、これとアンタの犯行動機に何の関係があるん?」
たしかに使えたら便利なんだろうが、これがどう殺人と繋がるというのか。
「認知特性って言ってね、人間には生まれつき処理しやすい情報があるんだよ。俺の場合、文章とか言葉は覚えやすいんだけど、逆に映像を頭の中に思い浮かべるのが苦手なんだよね」
「それだと、さっきの記憶術と相性悪くないですか?」
「うん。普通にやったらね」
先ほどの記憶をイメージとして視覚的に覚える方法では、映像記憶の弱いシャオロンには合っていない。
「だから俺は、普通じゃない方法を使った」
シャオロンの真紅の瞳が細められる。
「さっきのチーノみたいに、頭から追い出したくても追い出せないくらい強烈な光景にすればいいんだよ」
「……それが死体ってわけか」
「そゆこと」
その口調はあまりにも軽く、まるで教師と生徒が答え合わせでもしているようだ。
「俺の頭の中の宮殿には六個の部屋がある。その部屋の中はそれぞれの犯行現場になってて、俺はそこに忘れたくないことを閉まってるんだ」
「……平然と言ってるけど、普通にやばいこと言ってますからね」
明日の予定でも話すような調子だが、シャオロンが話しているのは連続殺人の動機だ。決して、誰かを憎んでいたわけではない。殺人そのものに快感を求めていたわけでもない。ただ、自分の頭の中にある記憶を忘れないためだけに人を殺した。チーノには、その理由のほうがよほど理解できなかった。
チーノは何も言えなかった。目の前にいるこの男が、ずっと探していた犯人だった。頭では理解したはずの事実が、現実として形を持たない
俺が信じたこの人は。きっと、それは彼が演じていた”ミナト”という役に過ぎない。その中にどれくらい本当のこの人がいる?どこからが嘘で、どこまでが本当だった?考えれば考えるほど、分からなくなっていく。
そのときだった。背後からかたり、と物音がした。
「……?」
チーノが振り向くと、ゆっくりと扉が開かれた。誰かが忘れ物でも取りに戻ってきたのだろうか。そう思ったが、そこに立っていたのは見知らぬ細身の女だった。
「…………」
女は何も言わず、ただ扉の前に立ち尽くしている。長い前髪から見える眼はどこか虚ろだ。
(……この女、どこかで……)
面識はないはずだ。だが、妙な既視感がある。
「すみません。今日はもう営業終わっちゃいました」
「……」
シャオロンが声をかけても、女は無言を貫いていた。頭の中で警戒を促す何かが鳴っている。その瞬間、チーノは思い出した。
(……ミナトさんの元客だったストーカー……!)
あとのき、カイが言っていた。ミナトの太客だったが、何度も店で問題を起こして出禁になった客がいると。ぞくり、と背筋が粟立つ。
「……ミナトくん」
気味の悪い声だった。ぞっとするほど静かなのに、そこには奇妙な熱が籠っている。
「ミナトくん……あぁ、やっと会えた。ずっと会いたかったの。まだ誰のものにもなってないみたいで安心した」
女は口の端を吊り上げ、虚ろな瞳をぐにゃりと歪める。
「……ねぇ、ミナトくん。どうして何も言ってくれないの?あんなに優しくしてくれたのに。全部、嘘だったの?」
その虚ろな瞳がゆらりと見上げる。そこには、ミナトしか映っていない。
「ミナトくん、もっと私のこと見てよ……!」
シャオロンはひどく怯えた表情だった。
「……だれ……?」
チーノは目を見開いた。冗談を言っているようには見えない。だが、信じられなかった。あのミナトが客のことを覚えていないなんて。
「……だれ、って……まさか、私のこと忘れたの?」
女の声が震えている。次の瞬間、殺意の宿った眼でミナトを睨みつけた。
「……そんなの許せない、許せない、許せないっ!」
そう叫びながら、女は包丁を取り出した。その刃先がこちらに向けられる。女は長い黒髪を乱しながら、ミナトへ一直線に駆け出した。
「……!」
チーノの喉が小さく鳴る。いや、助ける必要なんてない。シャオロンはずっと追っていた連続放火事件の犯人だ。犯人を逃がす理由なんてない。庇う理由なんて、もっとない。むしろ、彼が傷つけば事件を終わらせることができる。
「――」
でも気づけば、身体が勝手に走り出していた。シャオロンを思いっきり突き飛ばす。あと数センチで届きそうだった刃の先に、チーノは躍り出た。
「――ぇ?」
シャオロンの真紅の瞳が大きく見開かれた。チーノは、心の中で溜息をつく。
(……ほんまアホやわ、俺)
そして、包丁が自分の腹部に突き刺ささった。
「…………っい、」
あまりの痛みに呻き声を漏らす。女がひどく驚いた表情でこちらを見た。からん、と音を立てて、包丁が床へ落ちる。
「……ち、ちがう……そんなつもりじゃ、」
自分のしたことが信じられないように、呆然と立ち尽くしている。そのまま、女は逃げるように部屋を出ていった。
「チーノ!!」
身体から力が抜けて、チーノは床へ倒れ込む。自分の腹部を抑えると、ぬるっとした感覚がした。手のひらには赤い血がべったりと付いている。
「チーノ、チーノっ!!」
シャオロンが駆け寄ってきた。チーノの身体を抱き抱えたまま、何度も名前を呼ぶ。
「……っなんで」
シャオロンの掠れた声が耳元に落ちる。
「なんで、俺のこと庇ったの」
「……知る、かよ……っ」
そう返すのが精一杯だった。だって、仕方ないだろう。身体が勝手に動いたんだから。チーノがごふっと血を吐く。
(……あ、これ、まじでアカンやつかも……)
傷口が脈打つたび、そこから何かが流れ出していくような感覚がある。失血でだんだん意識が朦朧としてきていた。身体に力を入れようとしても、思うようにいかない。すまん、ショッピ。あとは頼んだ。
「ど、どうしよう、血が止まらへん……っ」
シャオロンが必死にチーノの腹部を抑える。その白い手は真っ赤な血で染まっていた。
「チーノ……っ」
自分の名前を呼ぶ声がひどく遠かった。瞼がだんだんと重たくなっていく。
――なんで、そんな顔してるんや。
シャオロンは今にも泣き出しそうな表情で、こちらを見下ろしていた。……本当に、この人のことが分からない。そして、チーノの意識は暗闇へ沈んでいった。
・
・
・
夢と現の狭間で意識が浮き沈みしている。
「――かった、生きてる」
靄がかった意識の向こうから、誰かの声が聞こえた。
「――に伝えたから、もうすぐチーノの仲間がくるよ」
ふと、柔らかな感触に手のひらを包まれる。それが誰かの手の感触だと、ぼんやりとした記憶の底から思い出す。
「――めんね。チーノ」
その温もりはすぐに離れていく。
「――ごめんね」
何か言いたいのに何も声にならない。消えていく、消えていってしまう。手を伸ばしても届かないほど。遠く、遠く――。
「チーノっ!!」
ハッと意識が浮上した。目を開いて、真っ先に飛び込んできたのは見慣れた顔だった。
「……ショッピ?」
焦ったようにこちらを覗き込んでいたショッピはチーノが目を覚ましたことに気づくと、張り詰めていた表情を少しだけ緩めた。
「……お前、まじで心配したわ」
その声を聞いて、ようやく自分がどこにいるのかを思い出した。ラストプルーフの見慣れた店内。チーノが横たわっているソファーの側には、応急処置に使ったらしい道具が置かれている。
「……ショッピが手当てしてくれたん?」
「まぁ一応したけど、俺が来たときにはもう応急処置されとったで」
それがなければ間に合ってなかったかも、とショッピは言う。誰が手当てをしたのかなんて考えるまでもない。
――ごめんね。チーノ。
あれは、シャオロンの声だった。
「…………」
「それで、何があったん?」
ショッピの問いに、チーノはゆっくりと顔を上げる。連続放火事件の犯人。軍にいる情報漏洩者。シャオロンのこと。何から話せばいいか分からない。それでも、口を開こうとしたとき。
「――その話、俺も聞かせてもらってええ?」
店内の奥から聞き慣れた声が飛んできた。チーノとショッピが同時にそちらを振り向く。
「シャオロン……?」
チーノが呟いた。すると、シャオロンは顔を覆っていた雑面をぺらりと捲る。その下から現れたマゼンダの瞳が、ちらりとショッピを捉えた。ショッピが小さく息を吐く。
「……俺も話すことあるんやったわ」
そう言って、ショッピはチーノへ向き直る。
「――とりあえず、情報交換しよか」
・
・
・
それから、三人は互いに知っている情報を一つずつ明かしていった。
チーノがラストプルーフで掴んだこと。
ショッピが追っていた情報漏洩のこと。
そして、ロボロが隠していたこと。
いくつもの事実が少しずつ繋がっていく。すべてを話し終えた頃には、この事件の全貌がようやく見え始めていた。……だが、一つだけ。チーノにはどうしても理解できないことがあった。
――なぜ、シャオロンは自分を助けたのか。
あのまま放っておけば、チーノは死んでいたはずだ。しかも、シャオロンはチーノが自分の正体を知っていることも分かっていた。連続放火事件の犯人だと知られた今、口封じをするには絶好の機会だった。
それなのに、シャオロンは自分を助けた。応急処置をして、仲間を呼ぶよう通報までして。どう考えても、犯人の行動とは思えなかった。
「……シャオさんが人を殺してまで覚えておきたかったことってなんや」
チーノがぽつりと呟いた。それはずっと引っかかっていた疑問だった。すると、シャオロン――否、ロボロは静かに口を開く。
「まぁ、犯人の顔とか家族との思い出とか……特に忘れたくないことはあったかもしらんけど、それの答えとしては”記憶そのもの”やな」
そう言ってどこか寂しげに目を伏せる。
「あいつは……」
そして、ロボロはこう告げた。
「シャオロンは、――記憶障害や」
【19××年 一家強盗殺人事件 捜査記録・抜粋】
19××年9月22日土曜日18時、男性から通報を受け、周辺にいた警察官が現場へ急行。
18時半頃、現場到着。室内より被害者三名の遺体を発見。また、長男一名が室内に倒れているのを発見した。
長男は意識を有していたものの、著しい混乱状態にあり、事件発生以前の記憶について明確な供述ができず。のちの検査で、事件のショックや強烈なトラウマから――記憶障害を引き起こしていることが分かった。
通報者の男性について、強盗殺人事件の犯人である可能性が高いものとして指名手配。
以降、本件の捜査に進展なし。
通報者は以前不明のまま、19××年9月に事件生起から7年が経過。時効成立により、本件の捜査を停止するものとする。
ロボロから手渡された調書を読み上げ、チーノはゆっくりと顔を上げる。
「……この、生き残りの被害者って……」
「シャオロンのことや」
あっさりと告げられて、チーノは言葉を失った。
「……この事件でシャオロンは記憶障害になった。だから、あいつは少しでも記憶を失わないように人を殺してる」
「それはチーノも本人から聞いたって言ってましたね」
ショッピが調書へ視線を落とす。
「……より強く記憶に残るように死体を用意するのは分かるんですけど、なんでわざわざ放火してたんですか?」
その問いに、ロボロはまた新たな情報を付け加えた。
「あいつ、昔大火傷してから火が苦手やねん。それを逆手に取って、燃やすことでより記憶に残るようにした」
「つまり、放火も彼なりの記憶術ってことですね」
「そういうことやな」
二人は淡々とした会話を交わしている。
「あの、シャオさんの家族を殺したっていう強盗犯の行方は……」
「死んでるよ」
ロボロがはっきりとそう告げ、ショッピとチーノが同時に息を呑む。ロボロの顔は仮面をかぶったような無表情だが、その瞳の奥はどこか苛立ちを孕んでいるように感じた。
「……とっくに死んどった。二年前に薬物中毒で」
よく考えれば、ロボロほどの情報技術の持ち主なら強盗犯の一人や二人を見つけることなど容易いはずだ。しかし今もなお、その強盗犯の影をシャオロンと共に追い続けている。
「あいつもアホやないから察してるはずやねん。……気づいてないふりしてるだけで」
ロボロの声が静かに落ちる。誰もすぐには口を開かなかった。
「…………」
――ずっと、考えていた。
シャオロンの正体を知ってから。あの人が何をしてきたのかを知ってから。自分は、どうしたいのか。
本来なら、裁かれるべきなのだろう。だが、チーノが刺されたときのシャオロンの今にも泣き出しそうな表情が脳裏に焼き付いている。あれを見てしまった以上、ただの犯人として切り捨てることなんてできなかった。
チーノは俯いたまま、膝の上で拳を握る。
「……俺、シャオさんを助けたい」
迷いを振り払うようにはっきりと言った。
「……何言ってんねん、相手は殺人犯やぞ」
ショッピの声が低くなった。
「七人も殺してる。それも、自分の記憶のために。それを今さら「救いたい」って、何するつもりなん?」
「……それは、」
言葉に詰まる。完全に勢い任せの発言で、具体的な方法なんて何も思い浮かんでいない。
「記憶障害やったら人を殺しても許されるんか?」
「そういうことじゃない」
チーノはすぐに否定した。そして、ショッピを正面から見つめる。
「……俺だって、あの人がやったことは間違ってると思ってる。殺された被害者は戻ってこないし、やったことは消えない」
それは分かっている。だからこそ、簡単に「可哀想な人」なんて言葉で片付けるつもりもなかった。
「……でも、俺を助けたんや」
チーノは自身の靴先に目線を落とす。
「俺がシャオさんの正体を知ってるって分かってた。犯人の立場なら、あのとき消すべきだったはずや。それでも、助けた」
「……チーノ」
ショッピの声がわずかに揺らぐ。
「だから、まだ間に合うんちゃうかって思ってる」
根拠なんてどこにもない。ただ、あの人が最後に見せた表情だけがチーノにそう思わせていた。
ショッピはしばらく黙っていた。やがて、苦しそうに眉を寄せる。
「……チーノ、あの人を庇うってことはお前も同じ罪を背負うってことなんやで」
「……分かってる」
「分かってへん」
ショッピは何か言おうとして、言葉を選ぶように口を閉じる。
「……お前がそこまでする必要ないやろ」
その声はさっきよりずっと静かだった。責めているわけじゃない。ただ、これ以上チーノが傷付くことを恐れているようだった。
「……俺がしたいんや」
そもそも、チーノは何のためにここまでやってきたんだろう。
認められたい。――違う。
役に立つ人間だと思われたい。――違う。
誰かに必要とされたい。――違う。
いつまでも「落ちこぼれ」は嫌だ。――違う。
そんなものは、もっと深いところにある感情の上澄みでしかない。
この軍の幹部たちは、チーノのことを後輩として可愛がりつつ、同じ立場の人間として対等に扱ってくれる。
いつも影でひそひそと悪口を言われ、周囲から馬鹿にされていた自分を認めてくれた。
それが、たまらなく嬉しかった。チーノは彼らに救われたのだ。
「俺は……」
ただひたすらに、走り続けた。誰よりも早く走るためではなく、置いていかれないために。
その背中はいつだって遠かった。どれだけ必死に走っても、追いつける気がしない。きっと、初めから持っているものが違うんだろう。
……でも、それは足を止める理由にはならない。チーノは走り続けなければならなかった。チーノには、どうしても叶えたい理想があった。
――もっと、もっと近づきたい。
自分を救ってくれた人たちのようになりたかった。自分が受け取ったものを、今度は誰かに渡せる人間に。
「――俺は、お前らと肩を並べられるような、隣に立っても恥ずかしくない人間になりたい」
――シャオロンを救いたい。
あの人たちに救ってもらった自分だからこそ。他の誰でもない、自分が。
「……ほんま、お前には敵わんわ」
そう言って、ショッピは小さく笑った。ロボロは二人のやり取りを黙って見ていた。やがて、何かを決めたように目を伏せる。
「……シャオロンがいる場所には心当たりがある」
その一言には、ここから先へ進むための確かな意志が滲んでいた。
◆ ◆ ◆
古びた一軒家が佇んでいた。ところどころ色の褪せた木の壁。年季の入った格子戸。低い塀に囲まれた小さな庭には、伸びすぎた草の間から名前も知らない花がいくつか顔を覗かせている。
けれど、不思議と寂れた印象はなかった。
縁側は綺麗に掃かれている。軒下には、古びた植木鉢がいくつも並んでいた。枯れてしまったものもあるが、その隣にはまだ青々とした葉を伸ばしているものもある。誰かがここで暮らしていた気配があちこちに残っていた。
――ここが、シャオロンの生家。
きっと、シャオロンもこの門をくぐったのだろう。そんなことを考えながら、チーノは玄関へ向かった。
扉は鍵がかかってなかった。少しだけ躊躇ってから、ゆっくりと押し開ける。
――ぎぃ、と。古い蝶番が微かな音を立てた。
家の中は思っていたよりずっと綺麗だった。玄関には靴が何足か残されている。サイズの違うものが並んでいて、明らかに子ども用と思われる小さな靴もあった。
「……あ、これ」
ふと、壁に飾られた一枚の写真が目に入った。少し色褪せた写真の中にまだ幼いシャオロンがいる。隣にいる弟らしき少年の肩を抱き、勝気な笑みを浮かべていた。
「……意外とやんちゃだったのかな」
チーノの口元が自然と緩む。よく見ると、壁の柱にも小さな傷がいくつも残っていた。子どもが背比べでもしたのだろうか。
一つ一つぬに、ここで暮らしていた人間の日常が宿っている。何でもない日々の積み重ねが、家そのものに染み付いてるようだった。だからこそ、誰もいないことがひどく不自然だった。
リビングの扉を開けると、そこには人がいた。窓の向こうが夜の闇から薄青くほどけ始める中、一人の男が立っている。
「……シャオロン」
名を呼ぶと、ゆっくりと振り返った。シャオロンはわずかに目を見開いて、チーノを見つめる。その表情はひどく幼く見えた。
「……なんだ、チーノか」
どこか落胆したようにシャオロンが呟く。ほんの一瞬だけ、期待を滲ませていた瞳から光が消えた。シャオロンはそれを隠すように、ふいと視線を逸らす。
「……何しに来たん?」
今までよりも砕けた口調にだった。恐らく、こちらが素なんだろう。
チーノは息を呑んだ。覚悟を決めるように拳を固く握ると、手のひらに汗が滲むのがわかった。そして真剣な面持ちで一歩、近づく。
「――シャオさん、俺らの軍にきませんか?」
その瞬間、シャオロンの真紅の瞳が零れ落ちそうなほど大きく見開かれた。何か言葉を紡ぎかけた唇が、わずかに震える。数秒間の沈黙に包まれ、やがてシャオロンは思いっきり顔を顰めた。
「……正気か?お人好しも大概にせえよ」
底冷えするような声だった。苛立ちを隠そうともしない鋭い眼差しで射抜かれ、チーノの額を冷たい汗がつたう。
「俺を庇って刺されたり、挙句の果てには軍に来いとか……」
目の前でシャオロンの苛立ちが募っていくのを肌で感じる。
「……お前の目の前にいるのは、七人の命を奪った殺人鬼や。わかってる?」
それでもチーノは、真っ直ぐにその瞳を見つめ返した。
「許されへんことなのは、分かってます」
「軍人が殺人鬼に情けをかけるんか」
「俺が甘いのは自覚してる。……でも、俺はシャオさんが死ぬべき人間だとは思えない」
張り詰めた空気が二人の間には落ちる。ピリピリとした緊張を腹の底に感じた。
「俺に情が移っただけやろ?」
「そうや。情が移った」
チーノが迷いなく答えると、シャオロンの表情が歪む。次の瞬間には胸ぐらを掴まれ、勢いのまま身体が引き寄せられた。
「……ッ、いい加減にしろ!!これ以上、俺に関わるなら――」
「殺せるもんなら殺してみろよ」
声をかぎりに怒鳴るシャオロンの声を、チーノは静かに遮った。シャオロンが言葉を失う。動揺したように揺れる真紅の瞳を見つめ、チーノがわずかに目を細める。
「……殺せんやろ、アンタは」
その言葉を皮切りに、シャオロンは勢いのままチーノを床へ押し倒した。馬乗りになったシャオロンの両手がチーノの首を掴み覆う。細い指が頸動脈の辺りを撫で付けると、その手に力が込められていくのを感じた。
「……ッ、かはッ……!」
力任せに締め付けられて、何とか腕を掴もうとするものの次第に力が抜けていく。呼吸がままならず苦しい。視界が霞み、だんだんと音が遠のいた。自分を見下ろすシャオロンの姿さえ、もう輪郭しか捉えられない。
「……しゃ、お……ろ」
掠れた声が喉の奥から零れた。力の抜けた左手が、シャオロンの腕から滑り落ちる。すると、不意に首元の圧迫が弱まった。
――ぽたり。
頬に、冷たいものが落ちた。
(……あれ、俺泣いてんの?)
今にも途切れそうな意識の中で、チーノはわずかに目を開いた。霞む視界の中で唯一鮮明な真紅は水面のようだった。不安定に揺らめく双眸から、透明な雫がこぼれ落ちる。
――シャオロンが、泣いていた。
チーノは残された力を振り絞り、震える左手を伸ばした。ずっと、一度くらい触れてみたいと思っていた。この美しい宝石のような瞳に。
「ほんま、なんなん……お前……」
シャオロンの声が震えている。首元から手が離れ、チーノは一気に空気を吸い込んで激しく咳き込む。
「どうしたらええの、俺……」
まるで迷子の子供のような声音だった。ぽた、ぽたと雫の雨は絶えず降り注ぐ。
「……母親も、父親も……弟の顔だってもう思い出せへん」
たった二人しかいない夜明け前の部屋で、シャオロンが静かに零したのは紛れもない彼の本音だった。
「俺は……全部失って、空っぽになるのが怖い……」
家族や大切な人達のことを忘れ、いつか”シャオロン”という人間を形作る全てが消えてなくなるとわかっていながら、幸せを享受するのが怖かった。優しい思い出は常にシャオロンの首を絞めてきて、生きる意味がわからず迷った末、過去に縋ったのだ。
復讐だけが、シャオロンの生きる意味だった。家族のためだなんだと宣いながら、結局のところ自分のためでしかない。なぜならそれがシャオロンにとって唯一、この世と繋がることのできるツールだったからだ。
その結果、たくさんの罪のない人間を殺めた。自分勝手な独り善がりの理由で。
チーノは明かされる独白をただ、静かに聞いていた。胸の奥から込み上げる何かを感じながら口を開く。
「……殺された人たちは戻ってこない。でも、償うことはできるはずです」
ついさっきまで圧迫されていた影響か、喉から鉄の味が広がった。それでも構わず、掠れた声で続ける。
「殺した人よりも、より多くの人を救いましょう。シャオさんが許されないって思われる以上に幸せになってほしいと思われるような人に変わるんです」
悪人を許す方法なんて、きっと誰にも分からない。犯した罪をなかったことにする方法なんて存在しない。それでも謝って、償って、誰かを救う。その先にしかないものがきっとある。それが、チーノが懸命に考えた答えだった。
「シャオさんが背負ってる重いもんを、俺も一緒に背負います」
はっきりと。サンストーンの瞳がシャオロンを見つめる。そこには揺るがない覚悟が宿っていた。
「……チーノらしいね」
シャオロンは目を伏せて、静かな声で言った。
「……明日になったら、今日のことも忘れてるかもしれない」
――忘れる。その言葉の意味を、頭では理解していたはずだった。
けれど、こうして本人の口から聞かされるとひどく重かった。今日交わした言葉も、今日見た景色も。いつか、シャオロンの中から消えてしまう。
「……お前らのこと傷つけるかもしれない」
チーノは答えなかった。すぐに言葉を返せなかったのは、シャオロンが恐れているものがようやく分かった気がしたからだ。
大切なものを、大切だったと認識することさえできなくなること。
自分の中から、誰かとの思い出がひとつずつ消えていくこと。
そして最後には、自分が何者だったのかさえ分からなくなること。
――それが、シャオロンにとって一番怖いのだ。
「……大丈夫」
チーノは静かに答えた。たとえシャオロンが忘れても、俺が覚えている。
今日のことも、この人が泣いたことも、自分を殺そうとした手が最後には震えていたことも。全部、覚えてる。
「もし忘れても、また教えたらいいだけです」
「……それも忘れるんだよ」
その声がほんの少しだけ震えた。
「じゃあ、また教える」
「――」
「シャオさんが覚えられへんことを俺が覚えとく。今日までのことを忘れるたびに、また全部教える」
シャオロンの真紅の瞳が揺れる。何かを堪えるように、目元がわずかに歪んだ。
忘れたくない。忘れてしまうのが怖い。でも、自分ではどうすることもできない。
そのどうしようもない恐怖を、シャオロンは一人で抱えていた。チーノにはそれが痛いほど伝わってきた。
「――何回、忘れても?」
「何回でも」
それは、約束だった。
忘れたなら、また最初からでいい。名前を教えて。出会った日のことを話して。一緒に過ごした時間を、もう一度積み重ねればいい。それはきっと、昨日までとは違う形になるかもしれない。
それでも、何もないところから始めることを、チーノは怖いとは思わなかった。
「――――」
ふ、と。吐息がこぼれる。シャオロンが笑っていた。 朝日をガラスが反射した光の中で。泣きながら、それでも嬉しそうに、笑っている。
(……あぁ)
――初めて、この人の本当の笑みを見た気がした。
◆ ◆ ◆
それから、幾日かが過ぎた。
シャオロンが軍に入ることが正式に決まった。罪を償うため。そしてこれ以上、大切なものを失わないために。
「……あれ?」
チーノが廊下を歩いていると、見慣れた二人の背中が目に入った。二人がこちらを振り返る。
「お、チーノやん」
ロボロがいつもの調子で手を上げた。その隣で、シャオロンもこちらを見つめている。
「シャオさん、調子はどうですか?」
何気なく尋ねると、シャオロンはわずかに目を見開いた。それから、何かを探すように視線を彷徨わせる。困惑したような顔でロボロを見た。
「どしたん?」
「……えっと……」
シャオロンの視線がゆっくりとチーノへ戻ってくる。胸がざわついていた。何かがおかしい。それは、初対面の人間を見るような眼だった。
「……シャオさん?」
シャオロンは答えない。ただ困ったように眉を下げ、チーノの顔を見つめていた。
「――ごめん、誰だっけ」
その言葉を聞いた瞬間、チーノとロボロは同時に息を呑む。世界から音がなくなったような感覚だった。
――分かっていた。
いつか、こうなることは。何回でも教えると約束したのだから。それなのに、いざ目の前で忘れられると胸の奥にぽっかりと穴が開いたようだった。
「……初めまして。チーノと申します」
軍に来てから、シャオロンの記憶障害についてしんぺいに診てもらった。どうやら、シャオロンの記憶の器は人よりもずっと小さいらしい。新しい記憶を積み重ねていくうちに、器から溢れた分が少しずつ零れ落ちていってしまうのだという。
このまま少しずつ記憶を失っていき、最終的には三日程度しか記憶が持たなくなると言っていた。
――何回、忘れても?
あの日のシャオロンの声が蘇る。それに「何回でも」と、そう答えたのは自分だ。
「……チーノ」
不意に名前を呼ばれる。顔を上げると、シャオロンがこちらを見ていた。
「どうしました?」
「……いや、なんでもない」
そう言うと、シャオロンは小さく微笑んだ。
「なんか、チーノを見てると懐かしい感じがする」
チーノの息が詰まる。忘れてしまった。でも、すべてが消えてしまったわけではない。
名前も。言葉も。共に過ごした時間も。シャオロンの中から形を失ってしまったものはあっても、それが最初から存在しなかったことになるわけじゃない。
少なくとも、チーノは覚えている。だから、もう一度始められる。
「……シャオさん」
「ん?」
「俺、チーノです」
その言葉に、シャオロンは一瞬だけ目を瞬かせた。そして、不思議そうに笑う。
「知ってるよ」
――知ってる。その一言が、今は嬉しかった。
目の前にいるシャオロンともう一度、出会い直した。なら、今度はここから始めればいい。
「これからよろしくお願いします」
チーノがそう言うと、シャオロンは少しだけ目を丸くした。それから、すぐに笑う。
「うん。よろしく」
その笑顔を見て、チーノも笑った。
――最初から。もう一度、ここから。
いつか、また忘れられる。それでもいい。
そのたびにもう一度名乗ればいい。
出会った日のことを話せばいい。
何度でも、初めましてを繰り返せばいい。――そう、約束したのだから。
「そういえば、シャオさんに貸してたお金ってどうなりました?」
「えっ、そうなん?」
「嘘つけ。シャオロンがお前に借りるわけないやろ。こいつの言葉は八割嘘やから信用したらあかんで」
・
・
・
がちゃり、と扉を開ける。窓から差し込む午後の光が机の上に積まれた書類の端を白く照らしている。その向こうで、ショッピが椅子に腰掛けたまま顔を上げた。
「遅かったな」
そして、手に持った一枚の書類をチーノへ差し出す。
「これ、新しい任務やって」
受け取った書類へ視線を落とす。そこには、見覚えのない街の名前といくつかの調査項目が並んでいた。事件の概要は簡潔にまとめられている。まだ詳しいことは分かっていないらしい。
「……また面倒くさそうな事件やな」
「ほんまに」
ショッピが肩を竦める。その何気ないやり取りにチーノは小さく笑った。
「準備できた?」
そう言って、ショッピは椅子から立ち上がる。
「いつでも」
「ほな、行こか」
二人で廊下へ出ると、遠くから誰かの話し声が聞こえてきた。軍靴が床を叩く音も、書類を抱えた兵士が行き交う気配も、いつもと変わらない。
廊下の窓から差し込む光が、床の上へ細長く伸びていた。チーノはその光を一瞬だけ見つめる。それから、先を歩くショッピの背中へ視線を向けた。
「待って!」
足早に追いつく。気づけば、ショッピの隣に並んでいた。二つの足音が同じ速さで響く。伸びた二人分の影が、廊下の先へゆっくりと消えていった。
◆ ◆ ◆
その日は、なんの足音もなくやってきた。
「……だれ?」
琥珀の瞳がシーツに横たわったままロボロを見上げた。ドクリと心臓が跳ねて、呼吸が止まる。
(……ついに、きたか)
ロボロを見つめる眼がいつもと違う。琥珀の奥には困惑が揺らめいていた。だが、そこに宿る輝きだけは、たとえ記憶があろうがなかろうが変わらない。ロボロはマゼンダの瞳をゆうるりと和らげた。
太陽のような笑顔が傍にある日々が、再び訪れることを望んで。
「はじめまして、シャオロン」
――ロボロはそう、口にした。
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ここまで読んでいただきありがとうございます!
間に合いませんでした(殺してください)
ほんとにすみません……誰か百発くらい殴ってください……
この度は、きゅうりさんの主催する企画に参加させていただきました。初企画参加ということで張り切りすぎた感は否めませんが、楽しかったです。絶望ホスクラのshaさんに永遠に脳を焼かれているオタクです。
#夜に浮かぶ黄色い月 #黄ポメ主役の誕生祭2026
自分の他にも素敵な作品が投稿されています。こちらのタグを検索すれば、他の参加者様の作品も見られるのでぜひ。
今日はこのあと18時〜19時頃に ほうじ茶さんの投稿です!