「私は、時也様の式神。
意識を共有しておりますゆえ⋯⋯
時也様の記憶もお話できましょう」
青龍が静かに語り始めた。
レイチェルの部屋に響くその声は
まるで古い記憶を辿るように
淡々としていた。
「まだ、時也様が
不死鳥に命を奪われる前の話です」
青龍の視線は
遠くを見つめるように揺らいだ。
⸻
当時、時也とアリアは夫婦となり
穏やかな日常を過ごしていた。
時也は当時この世界には存在しない
初の陰陽師として依頼を受け
術を駆使して人々の厄を祓うことで
生計を立てていた。
その日も
時也は早朝から仕事の準備を整え
朝食の支度をしていた。
「アリアさん、おはようございます」
穏やかな声で告げながら
時也は盆に載せた朝食を
机に運んできた。
炊きたてのご飯
香ばしく焼き上がった魚
味噌汁には
彩り鮮やかな野菜が浮かんでいる。
優しい香りが部屋に広がるが
その瞬間──
アリアが、僅かに顔を顰めた。
「アリアさん⋯⋯
ご気分が悪いんですね?
お食事は⋯⋯召し上がられますか?」
アリアは小さく首を振った。
「⋯⋯⋯」
無表情のまま、目を伏せるアリア。
その仕草からも
内に感じている不快感が伝わる。
「⋯⋯お食事は下げますね?」
時也は無理に勧める事はせず
優しく声を掛けると
手早く膳を片付けた。
その後、アリアの傍に静かに座り
そっと彼女の背中に手を添えた。
華奢な背中をゆっくりと撫でると
アリアは身を預けるように
時也の肩にもたれ掛かった。
「⋯⋯アリアさん」
その柔らかく頼る仕草に
時也の心に
ふとある考えが過ぎった。
「アリアさん⋯⋯
不躾な質問をお許しくださいね」
時也は言葉を選びながら
そっと問いかける。
「最後に血穢があったのは⋯⋯
いつ頃でしょうか?」
アリアは瞬きし
僅かにに首を傾げる。
彼女自身
気にしていなかったのか
思わぬ問い掛けに
驚いているようだった。
(⋯⋯4ヶ月前)
時也は
アリアの心の声を
そのまま読み取った。
「⋯⋯あぁ!」
思わず声が漏れた。
「アリアさん⋯⋯
ありがとうございますっ!!」
時也は嬉々とした声を上げ
もたれかかったアリアの身体を
そっと支えながら
背中から抱きしめた。
「⋯⋯⋯?」
アリアは何が起きたのか分からず
困惑したように彼を見上げる。
「貴女のお腹に
新しい命が宿ったんですよ」
優しく
けれど抑えきれない喜びに
声が震えていた。
「⋯⋯赤子、が⋯⋯⋯?」
アリアの唇が、微かに震えた。
「私と⋯お前の⋯⋯子が⋯⋯此処に?」
か細い声で呟き
アリアは両手を
そっと自らの腹部に添えた。
深紅の瞳が揺れ、薄く潤み始める。
「えぇ⋯⋯アリアさん」
時也は
アリアの手の上に 自らの手を重ねた。
彼女の華奢な手の震えが
時也の手にも伝わる。
「男の子でしょうか?
女の子でしょうか?
どちらにせよ、楽しみですね」
柔らかな声に
父となる覚悟が滲んでいた。
「⋯⋯女児で⋯あって、欲しい⋯⋯」
ぽつりと呟いたアリアの声は
消え入りそうな程に小さかった。
同時に
アリアの心が静かに言葉を紡ぐ。
(⋯⋯不死鳥が相伝されたならば
お前と共に⋯⋯人として死ねる)
アリアの
胸の奥に秘めていた思いを知った瞬間
時也は言葉を失った。
不死鳥は、女児にしか相伝されない。
もし娘が生まれ
不死鳥が相伝されたなら⋯⋯
アリアの不死は終わる。
長い苦しみに、終止符が打たれる。
──けれど。
その娘は
アリアと同じ〝不死の呪縛〟を
受け継ぐことになる。
魔女狩りが再び起こるとは限らないが
まだ産まれ直しが済んでいない不死鳥を
我が子が
その宿命と共に背負うかもしれない
という現実に
時也の胸は締めつけられた。
(⋯⋯だめだ、今は)
感情に揺らいではならない。
増えた守るべきものの為に
今から弱気になってはいけない。
「⋯⋯大丈夫です。
僕が、必ず守りますから」
時也は感情を抑えながら
アリアの背中に
さらに腕を回した。
包み込むように
温もりを伝えるように。
アリアはそっと目を伏せると
そのまま静かに
彼の胸に顔を埋めた。
アリアの腹部は
時が経つ毎に穏やかに膨らみ
命の存在を主張するかのように
丸みを帯びていた。
その日もアリアは
彼女なりに
穏やかな表情で窓辺に座り
ゆっくりとお腹を撫でながら
鼻歌を口ずさんでいた。
唇から漏れる旋律は
僅かに揺らぎながらも
柔らかく温かい響きを持っていた。
彼女の視線は
ぼんやりと窓の外に向けられていた。
降りそそぐ陽光が
淡く金髪を輝かせる。
その穏やかな光景の中に
彼女の瞳だけは
何処か鋭く冷たい光を宿していた。
──そこに、気配があった。
〝狩人〟
誰かが身を潜める気配が
微かにアリアの肌を撫でる。
アリアは視線を外に向けたまま
そっと右の掌を上げた。
掌に小さな紅蓮の炎が、ぽっと灯る。
ふわり、と揺らめいたその炎は
やがて一枚の羽根の形へと変化した。
艶やかな紅色の羽根は
まるでナイフのように細く鋭く
妖しく燃え上がる。
アリアは窓の外の一点に向けて
その羽根を軽く放った。
羽根は静かに宙を舞い
隠れ潜んでいた影の首筋に
吸い込まれるように突き刺さった。
ズシャッ──
鋭い音が響いた。
ハンターの喉が切り裂かれ
口から血が溢れ出す。
血液が土に吸い込まれるよりも早く
彼は力なく膝をつき
音も立てずに崩れ落ちた。
命が尽きる刹那
目に宿った恐怖が
そのまま硬直した顔に刻み込まれる。
アリアは
窓の外に転がる死体に
冷ややかに目を落とし
無感情に唇を開いた。
「⋯⋯死の翼に触れよ、愚か者め⋯⋯」
声は微かで
ただただ冷たい響きを
孕んだ呟きだった。
次の瞬間
アリアは指をかるく鳴らした。
パチン──
倒れた男の血から
瞬く間に炎が広がり
転がる死体を包み込む。
不死鳥の炎に焼かれた肉は
血の匂いすら残さず
塵すら残さず
瞬きの間に消え去った。
もう其処には
何事もなかったかのように
穏やかな庭が広がるだけだった。
アリアは再び腹部に手を添えた。
温かさを感じるように撫でながら
再び柔らかく鼻歌を口ずさむ。
⸻
「ただいま戻りました!アリアさん!」
玄関の戸が開き
弾むような時也の声が響いた。
「ただいま戻りました、アリア様」
青龍の落ち着いた声がそれに続く。
二人の声には
以前よりも張りがあり
喜びが滲んでいた。
子供を授かった事は
彼らにとって何よりの幸せだった。
時也が部屋に入ると
アリアは窓辺から振り向き
静かに彼を迎えた。
「アリアさん
今日は謝礼にと
釣れたての鮎をいただいたんですよ!」
声の調子は弾んでいたが
時也はその言葉に
深い意味を込めていた。
妊娠中のアリアは
日によって体調が不安定だった。
少しでも食べやすく
栄養のある料理を作ろうと
日々気を配っていたのだ。
「お腹の子の為にも
腕を振るいますね!」
満面の笑みを浮かべ
時也は台所へと向かった。
「では、私も⋯⋯」
青龍も
時也に続いて部屋を出ようとしたが
アリアは
青龍の表情が一瞬だけ
曇ったように感じた。
その表情は
ほんの僅か、ほんの一瞬の変化だった。
(⋯⋯⋯⋯?)
アリアの鋭い瞳が
無意識に青龍の背を追った。
だが
青龍の表情はもう
いつも通りの威厳に満ちており
静かに部屋を出ていった。
再び静寂が訪れる。
アリアは再び腹部に手を当て
静かに撫でた。
不安はなかった。
ただ、愛おしさだけが
胸の奥にじんわりと広がっていた。
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痛みと祈りの果てに、二つの命が誕生した夜。 命を繋ぎ、愛を抱きしめるために、すべてを懸けた。 静かに交わされた感謝と誓い──それは家族の始まりだった。