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命の誕生に喜びながらも、不死鳥の呪縛は静かに牙を剥く。 アリアと時也は絶望を噛み締めながら、それでも誓った。 愛する子を守り抜くために── 闇に抗う覚悟を胸に。
扉が静かに閉まると同時に
時也はその場に
崩れるように膝をついた。
「⋯⋯ぐっ、ごほっ!」
鈍く苦しげな咳が
喉の奥から絞り出される。
吐き出された息は
鉄の匂いが混じり
どろりとした感触が口内に広がった。
唇を押さえた手をそっと開くと
掌にはべっとりと
赤黒い血が広がっていた。
鮮やかな紅ではなく
どす黒く濁った色合い。
「⋯⋯良かった⋯⋯」
彼は
息を切らしながらも
微かに笑った。
それは、安堵の笑みだった。
(⋯⋯アリアさんに
気付かれなくて良かった⋯⋯)
心の中でそう繰り返し
震える手で壁に手をつきながら
苦しげに呼吸を整える。
「時也様⋯⋯」
背後から、青龍の声が掛けられた。
気付けば
青龍がそっと背中に手を添える。
その手は小さくも力強く
時也の背を摩り続けた
「大丈夫⋯⋯大丈夫ですよ。青龍」
時也は真っ青な顔のまま
無理に笑顔を作った。
震える手で
青龍の銀髪を優しく撫でる。
「⋯⋯僕は、まだ
倒れる訳にはいかないんです」
その声には
弱々しさよりも
強い決意が滲んでいた。
「くれぐれも⋯⋯アリアさんには
気取られぬように⋯⋯。
お腹の子に⋯⋯障ってしまう⋯から」
時也の声が掠れ
言葉の最後は息に紛れた。
青龍は口を引き結び
何も言わずに
ただ時也の背を撫で続けた。
時也の病が〝心臓の病〟であると
医師が告げたのは
つい先日のことだった。
陰陽道で身体の気の流れを整え
穢れを祓っても
病は悪化するばかり。
まるで何者かが
その治癒を阻んでいるかのように──
アリアの中で
不死鳥がその嘴を
人のように口角をニタリと上げて
時也の心臓の鼓動に
邪な炎を絡ませていた。
それに⋯⋯
誰も気付いてはいなかった。
⸻
時は流れ
アリアの腹部は
さらに大きく育っていた。
子が順調に育っているのだろう。
膨らんだ腹部は
アリアの細い体に重く伸し掛り
今や身動き一つ取るのも
不自由なほどだった。
時也はその膨らんだ腹部を
まるで宝物に触れるように
そっと撫でた。
「⋯⋯こんなにも
大きくなるものなんですね」
優しく微笑みながら
時也は顔をアリアの腹部に寄せた。
「⋯⋯⋯」
耳をそっと押し当てると
微かに感じる鼓動と共に
僅かに内側から蹴るような感覚が伝わる。
「⋯⋯あ!動きましたね」
目を細め、微笑む時也。
アリアは
そんな彼の髪を静かに撫でた。
彼の髪に指を絡め
穏やかに梳くように。
──その時だった。
時也はアリアの〝痛み〟を感じ取った。
「────っ!?」
驚いて顔を上げると
アリアは無表情のまま
彼を見つめていた。
けれど
無表情の奥には
確かに苦痛が滲んでいる。
「アリアさん⋯⋯っ!」
時也は声を震わせ
直ぐに立ち上がろうとした。
「医師を呼びます!」
そう言いかけた瞬間──
アリアの手が
時也の手首を掴んでいた。
「⋯⋯離れるな⋯⋯っ」
ぽつりと
落ちるように言ったアリアの声。
その頬には、一筋の汗が伝っていた。
「⋯⋯青龍っ!」
時也のただならぬ声に
扉の向こうで待機していた青龍が
勢いよく駆け込んできた。
「⋯⋯始まりましたか」
青龍の小さな瞳が
アリアの腹部を見つめて
険しい光を宿した。
とうとう兆しが始まったのだ。
⸻
アリアは痛みに耐えながら
微かに意識を研ぎ澄ませた。
(⋯⋯無事に⋯⋯無事に⋯っ)
痛みに霞む意識の中で
腹部に手を添えながら
心の中で何度もそう繰り返す。
時也の手が
しっかりとアリアの手を包んでいた。
彼の手の温もりが
微かに震える自身の身体に
染み込んでくる。
深紅の瞳が
痛みに僅かに潤みながらも
まっすぐに時也を捉えていた。
アリアの
母としての最初のつとめが
始まった⋯⋯。
声にも顔にも
殆どそれを感じさせない。
しかし
アリアの内に渦巻く痛みは
読心術によって
時也には痛烈に伝わってきていた。
「⋯⋯っ、は⋯⋯っ⋯っ!」
アリアの心は
無言の悲鳴で満たされていた。
冷や汗が額を伝い
無表情のまま青白くなった顔には
苦痛の色が確かに浮かんでいる。
「アリアさん⋯⋯!
頑張ってください⋯⋯っ」
時也は震える声でそう告げながらも
アリアの手を握る事しかできない。
彼女の指は細く、冷たく
だが
しっかりと力が篭っていた。
「⋯⋯っ⋯⋯!」
アリアが僅かに歯を食いしばると
また波のように
痛みの感情が押し寄せる。
時也は
アリアの苦痛を読み取るたびに
まるで自らの胸を
刃で切り裂かれるような錯覚に陥った。
「アリアさん⋯⋯っ」
彼女の手を握る力が、さらに強くなる。
「⋯⋯ぅっ⋯⋯!」
時也はその華奢な指を
今にも折れてしまいそうな程
しっかりと握り返した。
⸻
その傍らで
青龍が手際よく湯を沸かし
桶に入れた清潔な布を濡らして絞る。
小さな身体でそれを運び
助産の準備を整えていく姿には
かつての龍の威厳が滲んでいた。
「アリア様!
息を大きくお吸いください!」
青龍の声が鋭く響いた。
「頭が見えて参りました!」
青龍の声が張り詰める。
その言葉に
時也はアリアの顔を見下ろした。
アリアは依然として
無表情のままだったが
額には汗が滲み
唇は僅かに血の気を失っていた。
それでも
アリアは声を発さず
必死に耐えていた。
時也は震えそうな声を抑え
アリアの肩を摩りながら声をかける。
「アリアさん⋯⋯あと少し、です!
あと少し、頑張ってください⋯⋯っ!」
その瞬間
アリアの体の間から
小さな手が血に染まった青龍が見えた。
「ぅ⋯⋯っ」
その赤々とした色に
時也の喉から短い悲鳴が漏れた。
愛する者から流れる血に
顔が青ざめ
血の気が引いていくのを感じる。
「時也様っ!」
青龍の声が怒気を帯びて響いた。
「そんな顔を
赤子に最初に見せては
情けのうございますよ!」
その言葉に
時也は歯を食いしばり
意識を強く保った。
「⋯⋯そう、ですね⋯っ!」
深く息を吸い
時也はアリアの手を握り直した。
次の瞬間──
「おぎゃあっ⋯⋯!」
響き渡る産声。
弱々しくも、確かに命の証が響いた。
時也は目を見開き
その声にしばし呆然とする。
涙が零れそうになるのを堪えながら
青龍が抱き上げた
その小さな身体を見つめた。
「⋯⋯女児にございますっ」
青龍が素早く
産着に包んで赤子を抱き上げる。
血に染まった手で
そっと頭を撫でながら
その顔を覗き込む。
「⋯⋯おお、元気な子です」
青龍が安堵の声を漏らした。
歓喜と安堵が
時也と青龍を包み込んだ。
「⋯⋯女児⋯⋯」
時也の胸の奥が、静かに揺れた。
喜びの中に
僅かな不安が混じる。
女児ならば
不死鳥はアリアからこの子へと
相伝されるかもしれない。
けれど──今は。
今はただ
無事に
産まれてきてくれた事に感謝しよう。
「アリアさん⋯⋯!
あぁ⋯お疲れ様です⋯⋯っ」
そう言いかけた時也の耳に
再びアリアの
心の声が飛び込んできた。
(痛い⋯⋯まだ⋯痛い⋯⋯っ)
「──⋯っ!?」
時也が再びアリアの顔を覗き込むと
無表情の中に
確かに苦悶の色が宿っていた。
「⋯⋯まだ⋯⋯?」
青龍が顔をこわばらせた。
「時也様っ!
⋯⋯もう一人、まだ腹におります!」
青龍の焦った声が響いた。
「⋯⋯双子⋯⋯っ?」
時也が驚きの声を漏らした瞬間
アリアが小さく喘ぎ声を漏らした。
再び強い痛みが襲ってきたのだ。
青龍は
急いで清潔な布を取り換え
もう一度
アリアの体に手を添えた。
「アリア様⋯⋯
もう少しです⋯⋯もう少し⋯⋯っ!」
アリアの心の中は
すでに言葉を成さず
ただ激痛に引き裂かれるような
悲鳴だけが響いていた。
「アリアさん、しっかり⋯⋯っ、
僕が、僕が此処にいます⋯っ!!」
時也は、なおもアリアの手を握りしめる。
「⋯⋯がんばって⋯⋯!」
不死鳥がもし
もう赤子に相伝され
アリアが不死でなくなっていたら⋯⋯。
喪うかもしれない恐怖が
時也を苛んでいた。
⸻
しかし
その不安は杞憂と終わり
再び、産声が上がった。
「⋯⋯もう一人も、女児です」
青龍の声は
ほっと息を吐くように柔らかく響いた。
青龍は
丁寧に双子の産着を整え
赤子達の顔を見つめた。
アリアの産後の処置も終え
血に塗れたその手で
額の汗を拭いながら静かに言葉を紡ぐ。
「⋯⋯強く、美しく⋯⋯生きなされ」
そして
青龍は双子を抱きかかえると
産湯に入れる為
疲労も感じさせぬ足取りで
向かうのだった。
赤子たちの産声が
青龍と共に遠ざかると
アリアは糸が切れたように
深く息をつき目を閉じた。
「⋯⋯アリアさん」
時也は
眠るアリアの額に貼りついた金髪を
指でそっと整えた。
優しくかき上げ
その顔を慈しむように見つめる。
「お疲れ様です、アリアさん⋯⋯
ありがとうございます」
時也は
そっとアリアの手に唇を落とした。
彼女の手は、まだ冷たい。
時也は彼女の手を
そっと頬に押し当てた。
我が子を共に抱く瞬間を
焦がれるように。