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陽の光もとうに落ちて。
ランバルドの式場へ走る馬車の中で、父が娘を問い詰めていた。
「おい! 聞いているのか」
5年後、10歳になった令嬢が「はい、お父様」と答える。父が鼻を鳴らした。
「その肉は、その血は、誰に与えて貰ったものだ?」
お父様です。
「その目は、その髪は、その声は、誰に与えて貰ったものだ?」
お父様です。
「よろしい。では、返せ」
「今までお前にかかったもの。すべてを返せ」
そう父に言われ、娘は押し黙った。
娘には自分の物と呼べるものは何一つない。
今着ている花嫁衣装、ランバルド国王より賜った古い紋章入りの紺のドレスも、弟切草の花を模した黄色い髪飾りも、実際には国の所有物だと聞いている。
「できないのなら言う通りにしろ。わかったな」
目に刺さりそうなくらいの距離で指を突きつけられても、まぶた一つ動かない。
そんな娘の姿に苛立った父が頬を叩いた。
凍り付いた心は何の痛みも感じない。
空には星も月もない夜が、どこまでも広がっていた。
「お前も俺を馬鹿にするのか、あの女のように」
あの女というのは娘の、実の母のことだ。
父に代わり領地の経営を手がける聡明な人物だったが、産後の肥立ちが悪く、産後すぐ死んだと聞かされていた。ヴィドール領の経営が傾いたのもそれがきっかけらしい。
母は他にもアンシュロ伯、リゼット伯、モンテス伯など複数の領地を管理しており、それらを同時管理できていたのは母が傑物だったと言える。
一方で凡人の父は娘にろくな教育を与えなかった。
娘が愚かであればあるほど、妻もさほどではなかったと思える。娘が何かしくじる度に、領地の経営がうまくいかないのは自分が無能なのではなく、単に時流のせいだと思うことができた。
逆に、継母の連れ子には大枚を叩いてあらゆる教育を受けさせ、蝶よ花よとかわいがった。
時に同じテーブルで食事をさせて、お前は何もできないのだなとほくそ笑んだ。
当初は戸惑っていた義姉も褒められ続けるうちに増長を重ね、事あるごとに見下すようになり、継母はうまくできなかったことを笑いながらいじめた。
最初のうちは、ただ完璧であれば怒られることはないはずだと思った。自分が愚かで無価値だからいじめられるのだと考えた。もっともっと完璧であれば、間違えなければ、わたしも愛されるはずと考えたこともある。
それはあわい期待だった。
ある日、義姉と横並びに淑女の礼をとった時、慢心した義姉が転んだことがあった。
どう贔屓目に見ても転ぶよりはマシなはず、今日は褒めて貰えるだろうか。そんなことを考えて父を見ると、父は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
「×××は転び方もかわいらしいな。それに比べてこいつは」
義姉は顔を真っ赤にしてこう言った。
「こんなことはおかしいわ。、何か卑怯な手を使ったのね。正直に言いなさい。あなたが私に勝てるわけがないのだから」
「×××に謝りなさい! さぁ早く!」
まるで、崖から落とされたような心地だった。
中身なんて関係が無いのだ。
どんなに努力しても、結局は義姉を引き立てるためのお人形役。求められているのは弱く愚かな妹の役で、どうにかしてその役に当て込めようとしてくる。
逆らえば、道理を無視して叱られるだけ。
人間はいつだって心の中にある物語を信じていて、そこから逸脱するものを許さない。自分が信じている世界が、信じたとおりであって欲しいという、強い願望がある。
強い願望は視界を捻じ曲げ、耳を塞ぎ、都合の良いできごとだけが真実になる。
なんだ、わたしはこんな人達に褒められたいと思っていたのか。
凍てつく心は愛を殺し、身体はただ、目的を果たす機械のように。
ただ、求められるままに愚かに振る舞い、求められるままに勝利を高揚を優越を与え続ける。
虐げられ続けた娘の視界は、まるで氷の中から世界をみているかのようにぼやけ、声はくぐもって聞えず、人の表情はわからない。つばが飛んできたから、このぼやけた父は怒っているのかもしれなかった。
どこか他人事のような冷静さで、娘に八つ当たりする父の物語を想像する。ぼんやりと理解はできた。できたが、だから何だというのだろう。
父が、顔をすごく近づけて怒鳴っている。
ひび割れるような恐怖は、湧き出る端から凍りついては失せていった。
5年前にかけられた氷の魔法は今でも心を守り続けている。
あの魔法使いが心を凍らせていなければ、とうの昔に擦り切れていただろう。
ヴィドール家では両親も義姉も、使用人すらも、少女の味方をするものはなかった。疎まれていながら殺されなかったのは、みんなが世間体を守ろうとしたからだ。
でも、それもこれまでの話だ。
今では状況が違う。
「いいか、お前はこれから。憎き敵国フリージアのアベル王子に嫁ぐ」
「暴君らしいが、気にすることはない」
「毒を仕込んだ髪飾りは持っているな? お前は嫁いだら一晩夜を明かし、自殺しろ。我らがランバルドの礎となるのだ」
父の言葉にただ「はい」と答える。
そうすれば傷つかずに済むから。
叩かれずに済むから。
母国ランバルドと敵国フリージアは長く戦争を繰り返していた。
そして、先日停戦協定が結ばれた。
その条件のひとつが、フリージアの王子とランバルドの公爵令嬢の結婚だった。
ランバルドの貴族たちにとっては人質を要求されたに等しい。
戦争の長期化によって停戦を余儀なくされたものの、ランバルド国内の憎悪は未だ激しく。快く思わない貴族も多い。
ならば嫁ぐのは国と国とを繋ぐ大切な花嫁ではなく、どうでもいい捨て石でいい。そこに名乗りをあげたのが父だった。
『大切な娘を犠牲にするのは心が痛みますが、断腸の思いで送り出します! 痛いのはみんな一緒です! 必ずやこの戦争に勝利しましょう!』
そう領地で演説し、喝采を受けた時の父はどんな顔をしていたのだっけ。
「なぁにが停戦だ!あの悪魔どもはこの地上から一人残らず消し去る他ないということを、王は忘れたのか!!」
「お前は捨て石だ。やつらが浮かれている間に我が軍は戦力を回復し、フリージアを蹂躙してやる!!」
「聞いているのか! この穀潰しめ、最後くらい死んで役に立て!!」
お前が自殺すれば、それを大義名分にして父親が攻め込んでもおかしくはない。愛に溢れる優しい父だと皆、称賛してくれる。そうすれば王も、あの頑なな王も、この戦争に賛同してくれるはず……!
概ねそんなことをぶつぶつ呟きながら、父は高価なワインをあおる。しばらくして何かに憤り、酒瓶を叩きつけて馬車を汚した。ごろごろと酒瓶が転がり、時折ワインがごぼりと吹きだす。それを見た父は馬車が汚れたことに憤りはじめる。
そのすべてを眺めながら、娘は別のことを考えていた。
どうしようもないひとだ。
それでも、わたしは父に逆らえない。
逆らえたことなんて一度もなかった。
この馬車から逃げ出しても連れ戻されるだけ、きっとわたしは言われたとおり死ぬだろう。
幸いにして痛みはない。
氷の魔法は、さながら冷たい麻酔のように、この苦しみを解くだろう。
令嬢は祈った。
星も月も何もない、暗い空へと祈った。
どうか、どうか神様。
わたしの願いを聞いてください。
わたしの心を凍らせてくれた、あの魔法使いにひと目会わせてください。
この人生はどうしようもないものだったけれど。それでも、苦しまずに済んだのはあのひとの魔法のおかげ。
名前も何も知らないけれど。最後に一言、お礼が言いたいのです。
あなたのおかげで幸せでしたと。
令嬢が祈りを捧げたその時。
一筋の流れ星が、天上におわす女神の涙のようにすっと落ちた。
闇を引き裂くような奇跡の輝きに、令嬢は馬車から身を乗り出す。
眠ってしまったのだろう、父の罵声も今は聞えない。
憐憫の光が向かったのは、フリージアの方角だった。