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懐かしい声に呼ばれた気がして、
微睡んでいた意識がぼんやりと浮上する。
瞼の裏に差し込むあたたかい光に誘われるようにして、うっすらと瞼を持ち上げた。視界にあったのは見覚えのあるバスの車内で、どうやらどこかを移動している最中のようだった。再び名前を呼ばれる。オレを起こしたのはゴンだった。
「起きた? キルア、ぐっすり寝てたね」
頬に伝わるあたたかい体温と、傾いている視界に、自分が彼の肩に頭を預けていたことを理解した。まだ重たい身体を引きずって、ゆっくりと身体を起こす。寝起きの頭は思考さえもままならず、耳に馴染む心地よい声をぼんやりと聞いていた。
「……ゴン」
「ん?」
「ここ、どこ?」
えっとね、と言った後に続けられた言葉はうまく聞き取れなかった。ぱちぱちと数度瞬きをして、視界の明るさに目を慣らしてから、隣に座るゴンを見た。ゴンはバスの前方、行き先を表示する電光掲示板のあたりを見ているようだった。オレに見られていることに気がついたのか、ゴンはふっと視線をこちらに向けて、嬉しそうに顔をほころばせた。
「キルア、よく寝るようになったよね。昔はぜんぜん眠らなかったのに」
そうさせたのは誰だと思う? 戯けてそう問いかければ、きっとゴンは「オレだね!」と言って、くすぐったそうに笑うんだろう。それでオレは、そんなゴンの脇腹を肘で小突いて、二人でくすくすと笑って。でもそれはできなかった。オレの口は、なにか重たいヴェールに覆われたかのように動けなくなっていた。
落ち着いた眼差しで車窓の外の景色を見ているゴンの横顔をぼんやり見つめる。傾く夕陽の橙に照らされて、横顔の輪郭が淡く照らし出されている。ゴンの頬はふっくらとした丸みを帯びていて、その線のやわらかさは生まれたての赤子を彷彿とさせた。その姿にたまらなくなって、くしゃりと歪みそうになった顔をごまかすように口を開いた。
「今ってさ、どこ向かってんの?」
「うーん、どこだろうね」
ゴンは車窓の外に目を向けたまま、穏やかに言った。なにか外にゴンの目を引くようなものがあるのかと、少し身体を傾けて外の景色を見ようとしたけれど、不思議と窓の外は煙のような雲に覆われていて、何も見ることができなかった。
「どこか行きたいとことかは?」
「特にないかなあ」
ゴンのぼんやりとした答えに、何て返そうかと考えているうちに、ゴンは外の景色から徐に視線を外して、オレを見た。大きな瞳をやわらかく細めて、優しい声で言った。
「キルアがいれば、どこでもいいよ」
「…………」
きらきらとした春の日差しのようなひかりを宿した瞳がオレだけをうつして、水面のように揺らめいている。ゴンはいつも子供らしい好奇心にあふれていて、万華鏡のように色々なものを瞳にうつすけど、その分、ひとつのものにかける時間は短い。それが、静かにオレだけを見つめていることが途方もなくうれしくて、かなしい。
「……キルア?」
ゴンの形の良い眉が情けなく歪んで、心配の色を浮かべた。大丈夫?と続けられた言葉に返事をすることができなくて、うつむいた。
「ねえ、なんで泣いてるの?」
そんなの。決まってるだろ。お前のせいだよ。
そう言ってやりたかったけど、言葉は出てこなかった。息をするのに精一杯で、身体の内側から勝手に流れてくる涙を止める術など、オレは分からなかった。
「悪い夢でも見た?」
膝の上で握りしめた拳にやさしく置かれたてのひらの、そのあたたかい温度に縋りつきたくなった。ゴンの声は心地よくて、硬く凍てついた身体の芯からとろとろと溶かされていくみたいだった。何度も聞いた声。その柔らかい声色に、ゴンが言うように、どうか悪い夢であってくれと願いたくなった。ここが現実ならどれほどよかっただろう。しかし、彼のあの凄惨な成れ果ては脳裏に焼きついて、今でも新鮮に心を引き裂く。
ふっくらとしたてのひらには、傷ひとつない。どうしたらこの手を守れたんだろう。目の前でみるみると生気を失って、老人のようになった姿を思い出すたびに、後悔と自責の念に押しつぶされて消えてしまいたくなる。
視界が滲む。ぽたぽたと、腿にあつい滴が落ちていく。胸に渦巻いているさまざまな感情があふれだして、絶対に普段じゃ口にしないだろう言葉がこぼれでた。
「オレ、いらなかった?」
心臓と呼応するように声が震えた。口にした言葉とその声色の情けなさに唇を噛む。こんなとこ、みっともなくて絶対に見せたくないのに。いや、見せなかったから、こうなったのかな。ぼんやりと考えた。
「そんなわけない。キルアはずっと、オレの最高の友達だよ」
聞き覚えのある言葉に、当時の記憶が蘇る。ゴンの父親探しの旅に付き合っていたあの日々のこと。強くなるために、思考を巡らせて、身体を鍛えて。肉体的にはきつかったけれど、それより遥かに楽しさの方が上回った。ゴンの隣にいると、世界が輝いて見えた。
……それでも、その日々は、もう。
「ゴン、オレさ」
言葉を止める。いちど深く息を吸って心を静めて、顔を上げた。ゴンは心配そうに眉を下げていて、なんだかまた泣きたくなった。
「お前に会えて、本当によかった」
甲に覆い被さるようにして添えられていた手のひらに、自らの指を絡めさせる。ぎゅっと強く握りしめて、ゴンの手の形を確かめる。やわらかい肌、すこし高い体温。オレはこれを忘れない。きっと死ぬまで忘れないだろう。
「オレもだよ。キルアに会えて、本当によかった……」
きっとこれはオレの願望でしかなくて、だからこそオレはこの胸の内を言うことができた訳だけれど、ゴンがあまりにも無邪気な、明るい笑みを見せるから、まるでここは本物の世界のように思えた。それでも、目的のない旅も、オレたちの永遠も本物にはならない。こんな夢は、どうやったって現実にはなり得ない。
指先を絡めて、わずかな隙間さえも生まれぬほど強く手を繋いでいるというのに、どうしようもなくオレたちは他人だった。それでもこのかりそめの幸福の温度にひたっていたくて、あたたかな温度に縋り付く。窓の外では落ちゆく斜陽がつめたい空気を赤く透き通らせていた。