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九条貴時は、九条質屋の嫡男として生を受けた。
両親や身の周りの人々に愛され、何一つ不自由をすることなく、小学校、中学校と通い、卒業してからは社長である父貴保の仕事を間近で見ながら貴保の補佐をしていた。
そんな、貴時が十九になった年の初冬のこと。
「結婚、ですか」
貴時は貴保に呼び出された。
「ああ。お相手は宮野呉服屋のご息女いとさんだ」
宮野呉服屋と言えば、多くの富裕層御用達の歴史ある大手企業だ。
「年齢は次で十五、控えめで気立ての良いお嬢さんだそうだ。家柄も申し分ない。お前もそろそろ結婚を考えていたろう」
なるほど。
確かに、もう十九なのだから、そろそろ結婚を考えねばとは思っていたが。
貴時は貴保を見据える。
「何か別の目的があるのでは?互いの利益のためだけではないでしょう」
ただの勘だった。
貴保は僅かに目を見開き、意味ありげに笑む。
「さすがだな、貴時」
……やはり。
「うちの従業員に、佐々木という者がいるだろう。彼が宮野家の使用人の一人と知り合いらしくてな」
貴時は黙って耳を傾ける。
「佐々木がその使用人から聞いたらしいのだが、いとさんは家族からも使用人からも虐められているのだそうだ 」
貴時は目を見張った。
「私もその宮野家の使用人と会って直接話を聞いたのだが、聞けば聞くほど彼女が哀れになってきてしまってな。他人事だと思えなくなってしまった」
なるほど。
「なんとかできないかと考えた結果がお前との結婚だ。他の案も考えたが、それでは宮野家と彼女を引き離せないだろう。……というわけで、私情に巻き込んで申し訳ないが、引き受けてくれないか?」
会ったこともない娘にそこまで入れ込んでいるとは。
よほど哀れに思っているのだろう。
だがそれはお節介というものではなかろうか。
……いや、自分は今まで父に愛情をもって育てられてきた。
ここで孝行をすべきではないのか。
貴時は心を決めた。
「わかりました」
「本当か、貴時」
貴保の顔が明るくなった。
「はい」
貴保は満足そうに笑み、貴時の頭を撫でる。
もし相手とうまく行かなかったとしても、父のための結婚だったと割り切ればいいだけの話だ。
「感謝するよ」
貴時は貴保の顔を見て安堵した。
季節は春になった。
いよいよ顔合わせの日を迎え、貴時は着飾り、貴保と共に宮野邸へと向かった。
貴時は貴保が話していたいとの性格に若干の疑いを感じていた。
貴保が又聞きした話でしかないからだ。
だから、宮野家の娘がどんな人物であろうと受け入れようと思い、身構えていた。
屋敷に入り、いとを一目見て貴時ははっと息を呑んだ。
後ろで一つにまとめた、たっぷりの艶を帯びた黒髪、透けるように真っ白な肌、長いまつ毛、大きな黒曜石の瞳、整った目鼻立ち、薄く紅が引かれた小さくて愛らしい唇。
身体つきは小柄でほっそりしており、貴時との身長差は二十五センチはあるだろう。
貴時は生まれて初めて何かをかわいいと思った。
一瞬で心の全てを奪われてしまったのだ。
貴時は思わずいとに見惚れた。
父親同士の会話が始まり、雅経と貴保の視線がいとに集まる。
いとは微笑んだ。
その笑みは、まるで人形のように美しかった。
「お初に御目文字仕ります。いとと申します」
声まで鳥のさえずりのように愛らしい。
貴時は胸がどくりと跳ねたような気がした。
しばらく父親同士が話し、数十分して貴時はいととふたりきりにされた。
いとは微笑んだまま何も言わず動きもしなかったが、しばらくして口を開く。
貴時はいとに尋ねた。
いとは、この婚姻が成ってもいいのかと。
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彼女はまた人形のように笑う。
「お家のためですから」
貴時は少し気分が悪くなった。
この婚姻が成ってしまえば、自分はもう彼女を手放せなくなるだろう。
好きでもない、そもそも先程初めて会った男なんぞと添い遂げてもいいのか、貴時なりの気遣いだった。
押し倒せばさすがに迷うだろうと、貴時は強引にいとを押し倒した。
結婚すれば跡継ぎも産んでもらわねばならないのだ。
いとは一瞬目を丸くしたが、顔を背けて笑んで答えた。
「……お家のためですから」
貴時はさらに気分が悪くなった。
嬉しいような腹立たしいような、妙な感情を抱きながら貴時はいとから離れた。
その日のいととの会話はそれきりになってしまった。
宮野邸からの帰り道。
歩きながら貴保は呟く。
「智実はとんでもない美人だったが、彼女も負け劣らずだな」
智実とは、貴保の最愛の妻であり、貴時の母のことである。
智実は貴時が六つの時に肺結核で若くして亡くなってしまった。
貴時にとって智実という母は、優しいだけではなく、叱るべき時は叱ってくれた女性だった。
自分に厳しく、他人には優しく、しかし正すべきことは正す。
そういう信念を持ったひとだった。
貴時は昔も今も、母のことを尊敬している。
貴時が母のことを思い出しながら歩いていると、貴保が尋ねた。
「ところで、どうだったか?」
貴保の声音はどこか弾んでいる。
表情も楽しそうだ。
「…………惚れてしまいました」
貴時が正直に言うと、貴保は顔を輝かせ、満足そうに笑んだ。
「良かった」
貴保は鼻歌を歌いながら貴時と並んで歩く。
貴時は黙ってぐるぐると考える。
どうやら事前に聞いていた話は全て本当だったらしい。
いとは心を完全に閉ざしてしまった少女だ。
結婚はもう確定になってしまったが、そんな彼女とうまくやって行けるのだろうか、と貴時はひとり先を案じた。
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