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篠原愛紀
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そこは
まるで生活感のないミニマルな宅だった
雲の上の存在
天上人たるビリオネアに連れられ
天界なる住居
タワーマンションの上層階に足を踏み入れた
「どうぞ入って」
促されるままに
社長の後を追い奥へと進む
食材が無いのは聞いていたが
食材どころか
装飾物もほとんど無い
壁には絵画もポスターも無く
入居時ままの
壁一面一色の通路
置物も生活用品も無く
入居時ままの
整然とした床を這いまわる清掃ロボット
買い物袋を抱えた社長が
長い通路を脇に折れる
そこは
ほぼ何も置物の無い
整然とした広いL字コーナーのキッチン
そこに買い出して来た食材を置く社長
あまりにもミニマルで
生活感のない社長宅
「……社長は普段家で何なさってるんですか?」
失礼かなと思いつつも
あまりに生活がイメージ出来な過ぎて
思わず尋ねてしまった
「食べたり家事したり……後はジム行くか……とか?」
「と言いつつ大抵は仕事してるかな」
(あれだけ多忙なら余裕無いだろうな……)
「どうぞリビングでゆっくりして下さい」
そう促されたリビングは
壁一面ガラス貼り
ジオラマの様なパノラマ
高層から都心のリアルを映し出している
「……」
それが
あまりに未体験過ぎて
あまりに異世界過ぎて
ドラマや映画の創作でしか知らない
非現実的な世界観に落ち着かなかった
「仕込みもあるし、先作っちゃいますね」
小心者で
臆病者の私は
飛び慣れた空
キッチンでの調理に逃避した
「え?ゆっくりしてからで良いですよ」
「まああっち座って下さい、コーヒーでも淹れますから」
「いえ、長居してもあれですし……先に仕込みだけでもしちゃいます」
私は
髪を結い
腕まくりをし
早速調理に取り掛かった
「冷蔵庫とか開けても大丈夫ですか?」
「全然OKです、自宅だと思って好きにして下さい」
開けた大きな冷蔵庫に
整然と並ぶ同一のミネラルウォーター
それと
申し訳程度に置かれた
僅かな調味料や食材その他諸々
社長の生活を除き見てしまったようで
申し訳なさと
知れた嬉しさが複雑に入り混じる
几帳面に陳列されたミネラルウォーターに
社長の性格を伺い知りつつも
意外とビリオネアらしからぬ庶民的な一面に
安堵と親近感が僅かに込み上がった
髪を結い
普段長髪で隠していた
補聴器を晒し
ガサゴソと買って来た食材を出す
ビニール袋の摩擦音が
普段よりもよく鼓膜に響く
「ハンバーグで大丈夫ですか?」
「お、良いね~めっちゃ好き!」
脇で私の様子を見守る社長の声が
普段よりもよく鼓膜に届く
(ハンバーグで喜ぶとか……)
(この人子供みたいなとこあるな……)
社長の
会社とプライベートのギャップにほくそ笑みながら
諸々の食材を並べる
「……社長はくつろぐなりお仕事するなりしてて大丈夫ですよ」
背後霊のように付きまとい
背後であれこれ手伝っていた社長
調理は一人でするもの
今までそう思っていた
今までそうしてきた
慣れない状況と
慣れないキッチンに落ち着かない
「せっかくだし一緒に料理しようよ、共同作業共同制作」
「それなら話しながら楽しく出来るじゃん」
「……」
今まで
料理は日々の日課だった
手伝って貰った経験などない
慣れない言葉に少し戸惑いながらも
その言葉が
その気遣いが
私は少し嬉しかった
私との時間を
大切にしてくれた事
きっと
私を想っての言葉
社長の提案に
微少の気後れをしながらも
私はその提案を笑顔で快諾した
「じゃあ社長は私が食材切ったらお肉と一緒にこねて下さい、出来ますか?」
「出来るよこねるくらい~子供だと思ってる?」
そんな他愛もない会話が
なんだか
以前よりも少し
打ち解けた気がして
以前よりも少し
距離が縮まった気がして
笑顔が零れてしまう
心なしか
社長の口調も会社と違う
砕けているというか
フレンドリーというか
そういえば
二人きりで一夜を過ごしたあの夜も
そうだった気がする
一社の長たる会社では見せる事のない
これが素の社長なのかもしれない
「あと、それと……」
「リュカで良いから、呼び名。休日まで社長呼びはちょっとね」
(——え?)
さすがに驚いた
さすがに無理だろう
私が勤める会社の社長
天上人のビリオネア
それを庶民の私が名前で呼ぶなど……
でも……
それって……
どういう意味だろう?