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「今日からこの家が君の家だよ」
そう言って、彼は優しく笑った。
冷たい玄関の床。
見知らぬ廊下。 漂う洗剤の匂い。 そして、まっすぐにこちらを見つめる、優しすぎる目。
○○ は、鞄を握る手に力を込めた。
引き取られた理由は、母の再婚相手による暴 力だった。
家に居場所はなく、病院の先生に言われるま まに児童相談所へ連れて行かれ、そのまま保 護された。
数ヶ月の施設生活のあと、急に決まった“里 親”。
名前は遥楓(はるか)。二十代後半、未婚の 男性。元は社会福祉のボランティア活動をしていたらしい。
ーーなぜ私なんかを引き取ったんだろう。 この身体のことも、心のことも、何も知らないくせに。
袖の中に隠した傷跡。
夜中にやってくる衝動。 すべてを知られたら、きっとこの人も逃げて いく。
「お腹すいた? 何か食べられそうなもの、あ るかな」
遥楓がそう言ってキッチンに向かう。 ○○はかすかに首を振った。
「いらない」
声はか細くて、自分でも聞こえないくらいだ った。
遥楓はそれ以上何も聞かなかった。 代わりに、棚からクッキーの缶を取り出し て、テーブルの上にそっと置く。
「ここに置いておくね。無理に食べなくてい いけど、ちょっと甘いもの食べると落ち着い たりするから」
その言葉に、○○は少しだけ目を見開いた。 “落ち着く”
まるで、何かを見透かしているみたいな言い 方だった。
でも–知られるはずがない。 この腕の下に隠した、赤く腫れた傷も、 過呼吸になるくらい泣いた昨日の夜も、 何も知られていないはずなのに。
「お風呂、今日は入れそう? 無理なら、明日 でもいいよ。タオルは用意しておいたから」
そう言って、ふわふわの白いタオルを差し出 す。
○○は黙って受け取った。
その夜、○○は風呂場で泣いた。 傷跡を見て、泣いた。
水に濡れると、赤く浮かび上がる線。 一度見たら忘れられない、自分の“証”。
–この家でも、私はきっと変われない。 そう思った。
けれど。
風呂から出ると、リビングには温かいミルク が置かれていた。 メモには、たったひと言。
「おかえり」
胸がぎゅっと痛くなった。
この人の前では、 なぜか少しだけ、泣きたくなる。