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「美紗ちゃん?」
思わず立ち止まってしまった私の視線の先を、日下さんが追った。
「すみません。荷物、先に部屋に持って行っておいて頂けますか? ちょっと……偶然知り合いに出くわしまして」
仲居さんにそう言うと、顔を歪ませた日下さんが、ロビーに向かって歩き出した。
仲居さんに「すみません」と会釈をして、慌てて日下さんの後を追う。
「なんでここにいるんですか? 佐藤さん」
少し苛立った日下さんが、ロビーにあったソファに座っている勇太くんに声を掛けた。
「旅行ですよ」
勇太くんも不機嫌に返事をする。
「……真琴か。そうきたか。個人情報保護なんかあったもんじゃないな」
勇太くんの返答に納得のいかない様子の日下さんは、更にイライラし出し、不満を零す。
折角の楽しい旅行が、旅館に入った途端に暗雲が立ち込めてしまった。
さっきの勇太くんの『旅行ですよ』に、私の気持ちも盛り下がり出してしまう。
男の人が平日に1人で旅行などするだろうか。1人でないとすれば……。
「た……たまたま選んだ旅館が被っちゃっただけじゃないですか? 予約は真琴ちゃんにしてもらったかもしれないですけど、ここの旅館のリーフレット、結構目立つところに置いてあったじゃないですか。行きましょう、日下さん。佐藤さんにもお連れの方がいらっしゃるだろうし、お邪魔しちゃ良くないですよ」
勇太くんはきっと、小田ちゃんと一緒に来たのだろう。
勇太くんと小田ちゃんが一緒にいるところなんて見たくなくて、どこかにいるだろう小田ちゃんが来ないうちにこの場を去ろうと日下さんの腕を掴み、引っ張った。
「場所は兎も角、日にちまで被る?」
私の言葉が腑に落ちない様子で、その場から動こうともしない日下さんを、
「何故か不運が重なる様に、偶然が被ることだってあるんじゃないですか⁉ 早くお部屋に行きましょうよ‼ 私、夕食の前に温泉に入っておきたいんですよ‼ 時間なくなっちゃうじゃないですか‼ ただでさえ遅れて来ちゃったんだから‼」
力ずくで引きずり、勇太くんから遠ざけた。
「あの、今日は美紗ちゃんに楽しい時間を過ごしてもらう為の旅行なんです。それだけはご理解ください。お願いですから、台無しにしないでください。ぶち壊さないでください。お願いします」
私に手を引かれながら、日下さんが勇太くんに向かって鋭い目をしながら『お願い』をした。
しかし、日下さん眼光がどう見ても『お願い』をしている様には見えず、限りなく【牽制】に近かった。
そんなご立腹の日下さんを連れ、予約していた部屋に向かう。
ワクワクしながら部屋の扉を開くと、
「わぁー。凄い‼ 広い‼ 豪華‼」
畳のいい香りのする、見晴しの良い綺麗な部屋が目の前にあった。
「気に入って頂けましたでしょうか?」
先に私たちの荷物を運んでくれていた先程の仲居さんが、お茶を用意しながら私たちが来るのを待っていた。
「大満足です‼」
仲居さんに興奮を伝えつつ、「ね?」と同意を求める様に日下さんを見上げると、さっきまで怖い顔をしていた日下さんが嬉しそうに笑った。
「では、ごゆっくりお寛ぎくださいませ」
お茶を出し終え、夕食の時間を私たちに伝えると、仲居さんは下がって行った。
仲居さんが作ってくれたお茶を美味しく頂くと、
「さて。私はお風呂に行きますが、日下さんはどうします?」
早速クローゼットを開け、浴衣とタオルセットを手に取った。
「もう入るの? 美紗ちゃん、何回入るつもり?」
運転疲れか、畳の上に寝転がって動こうとしない日下さん。おそらく日下さんは、まだ温泉に浸かる気分ではないのだろう。
「温泉に来たからには最低3回は入りますよ‼ 3回は必須です‼ 義務だと思います‼」
そこまで温泉が大好きなわけではないが、頻繁に来れる所でもないので、入れるだけ入らないともったいない気がする。
一瞬たりともハンドルに触っていない私は、日下さんと違って、体力が有り余っている。なんなら今日中に3回ノルマを達成出来そうだ。
「美肌を通り越してふやけるよ、美紗ちゃん」
と言いながら座布団に顔を埋めた日下さんの目はトロンとしていて、今にも寝てしまいそうだった。
「別にふやけてもいいですもん。日下さんは、夕食まで寝てていいですよ。豪華海鮮料理の時間になったら叩き起こしますから」
クローゼットの中に浴衣と一緒に入っていたブランケットを日下さんに掛けると、
「優しく起こしてー……」
と願望を口にしながら、日下さんは夢の世界へ誘われて行った。
「すーすー」と寝息を立てる日下さんに、「運転、ありがとうございました」と呟き、大浴場へ向かう。
歩いている途中、お土産コーナーが見えた。おいしそうな温泉まんじゅうやおせんべいが並んでいる。
「お風呂上りにちょっと寄ってみよう」と、それを横目に通り過ぎた。
大浴場に辿り着くと、運良くお客さんは誰もいなかった。
「よし‼」と小さくガッツポーズをすると、服を脱ぎ捨て浴室の中へ。
サウナに入ったり、肩に打たせ湯を浴びてみたり、温泉を大満喫。
楽しみすぎて危うくのぼせかけた為、お風呂を上がることに。
浴衣に着替え、ドライヤーで髪を乾かしながら壁に掛けられた時計を見上げる。
……夕食までまだ時間あるな。
よし。さっきのお土産コーナーに行こう。
後は自然乾燥にしてしまえ。と、半乾きのまま大浴場を後にした。
お風呂でサッパリし、浴衣の袖を揺らせながら意気揚々とお土産コーナーの中に入る。
なかなかの品揃えだった。
おまんじゅう、おせんべい、クッキー、サブレ、おかき……。
目移りしながらお土産コーナーをぐるっと一周。
有給を取って旅行に行くと言ってしまった手前、明後日手ぶらで会社に行くわけにはいかない。
ただでさえ相当に嫌われているのに、『木原さんは気が利かない』とか言われたくない。
更に、変なお土産を買って行って『やること成すこと全てが余計』とか言われたら、出社拒否を起こしそう。
このお土産選びで失敗したくない。
取りあえず、温泉に来たからには温泉まんじゅうは必須。甘いものが苦手な人もいるから、やはりおせんべいも買おう。
徐々に選択肢を狭めて行く。
おまんじゅう、どれにしようかな。こしあん、つぶあん、白あん、うぐいすあん……。
おせんべいはどうしよう。堅焼き? ソフト? ぬれせん?
悩む……。試食してみようか。
お土産の品が並ぶ箱の前には、それぞれの試食用のお菓子が置いてあった。……が。なんて太っ腹なのでしょう。試食用に切られたお菓子、デカイ。
全部試食していたら、豪華海鮮料理を詰め込む胃のスペースがなくなってしまう。
選択の幅をもっと減らそう。
おまんじゅうは、【私が1番好きだから】という理由でつぶあんに決定。おせんべいは、歯が弱い人も食べれるようにソフトタイプのものにしよう。……と、買うものは決まったのに、つぶあんのおまんじゅうにしろ、ソフトタイプのおせんべいにしても何種類もあった。
お菓子の箱の近くには【当店№1】【おすすめ】【新商品】などと書かれたポップが貼られている。
……結局、どれが1番美味しいのよ。
試食用のおまんじゅうは、おそらく4分の1カット大。
当店№1とおすすめと新商品をそれぞれ食べると、おまんじゅうを4分の3を食すことになる。
夕食前におまんじゅうをほぼ1個。
大丈夫かな……。イヤでも、甘いものって別腹っていうし、イケるかもしれない。
爪楊枝の刺さった試食用のおまんじゅうを1つ摘まみ、少し齧ってみた。
美味しい……が、別腹の存在を感じることが出来ない。しっかりいつもの腹の中に入ってきた。
結構お腹に貯まるな、おまんじゅう。
爪楊枝の先にある、一口食べてしまったおまんじゅうを見つめる。
試食のお皿に戻すわけにもいかないから食べるしかないのだけど、今キミにお腹を満たされては困るのだよ。と、心の中でおまんじゅうと会話。
『働け、胃酸‼ 今から入ってくるおまんじゅうは、すぐさま消化するんだぞ‼』と自分の胃にまで念を送り、残りのおまんじゅうを口に運ぼうとした時、誰かがおまんじゅうを持つ私の手を掴み、そのままおまんじゅうに喰らいついた。
コメント
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中めさん、第13話拝読しました!温泉旅行のほっこりした空気の中、勇太くんとの偶然の再会で一気に張り詰める緊張感がすごく伝わってきました。日下さんの牽制と、美紗ちゃんを想う優しさのギャップに胸がきゅんとします。そして後半の「胃酸働け!」とおまんじゅうに念を送る美紗ちゃんの可愛らしさに笑ってしまいました。最後の誰かの登場で次回が気になりすぎます…!続きを楽しみにしています🌷