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※BL
梅雨の終わり、駅のホームに雨が打ちつけていた。
人影はまばらで、傘の花だけが静かに開いたり閉じたりを繰り返している。
湊は、柱にもたれて佇んでいた。
肩から雫が落ちる。
傘は持ってこなかった。
……いや、あえて持たなかった。
「……まだ、この時間に来るんだな」
その声は、背中から降ってきた雨よりも、胸に深く突き刺さった。
ゆっくり振り返ると、そこに立っていたのは、
あの人――榊原だった。
黒いコートに雨粒を弾かせ、変わらぬ落ち着いた佇まい。
胸の奥が軋む。
「……お久しぶりです。榊原さん」
「元気だったか?」
「……ええ。おかげさまで」
「相変わらず、傘も差さずに。びしょ濡れだぞ」
「今日は、……何となく濡れてもいいと思ったんです」
榊原は少し眉をひそめた。
そして、湊の上に傘を差し出す。
「風邪ひくな。お前、昔から無茶するから」
「……また、会える気がしていたんです。今日、この雨の中で」
榊原の瞳が一瞬だけ揺れた。
何年も会わなかったのに、
こうして、ふたりは同じ雨の下に立っている。
なのに、きっと。
今夜もこの人は、去ってしまう。
「榊原さん……あの日のこと、覚えていますか」
「……どの日だ」
「……最後に、私があなたにキスをした夜です」
榊原は黙った。
その沈黙の意味を、湊は知っていた。
けれど、それでも聞きたかった。
「……あれが、私にとって初めてでした。誰かを、あんなに……強く求めたのは」
「……湊」
「……はい」
榊原はそっと手を伸ばし、濡れた湊の髪を撫でた。
その仕草があまりに優しくて、涙が零れそうになる。
「お前のことを、今も忘れたことはない」
「だったら、どうして……何も言わずに行ってしまったんですか」
「守りたかったんだ、お前を。俺なんかのことで……縛りたくなかった」
「勝手ですね……それでも、私はずっとあなたの言葉を待っていたんですよ」
榊原は苦笑した。
その笑顔すら、もう二度と見られない気がして、湊はたまらずに言葉をこぼす。
「あなたのことが、今でも好きです」
「……俺も、お前が好きだ」
その言葉があまりに静かで、あまりに遠くて、
胸の奥でなにかがひどく壊れた気がした。
榊原は湊の頬に手を添え、ゆっくりと唇を重ねた。
この雨の日にだけ許される、ふたりだけの約束のようなキスだった。
……短くて、深くて、どうしようもなく切ない。
「これで、終わりにしよう」
「……いやです…」
湊は榊原に思い切り抱きつき離さなかった。まるでちぎれそうな糸をまた繋げるように。
「行かないで…ください…!」
「僕を置いていかないで…っ!」
榊原は湊を抱きしめ返さずただ湊の頭を撫でていた。
「ごめんな…」
榊原は湊からそっと離れる。湊の顔は涙でぐちゃぐちゃだった。
「そんな顔すんなよ…」
榊原は湊の濡れた顔を優しく拭く。その手はとても温かくて、まだ湊に対しての愛情がこもっている。
引き止めたい止めたいあなたのことを…
だけど、止めなかった。
榊原は湊の手に、傘をそっと握らせた。
「ちゃんと、前を向いて生きろ」
「……あなたも、風邪など引かれませんように」
電車が来る。
榊原はそのまま、ホームを歩いていく。
湊は、ただ濡れたままそこに立ち尽くした。
その傘を、広げることなく。
唇に残った温度だけを、ひたすら抱きしめていた。