冷たい空気が肺に入り、心臓の鼓動を静かに感じながら、彼は次の行動の準備を整える。鉄の扉の前に立ち止まった瞬間、倉庫の中から微かに漏れる灯りが、夜の闇にくすんだ輝きを差し込んでいた。
錆びた扉は長い年月を経て重く、手のひらで触れればひやりとした冷たさが伝わる。その感覚を確かめるように指先に力を込め、押すと、金属の蝶番が軋み、重苦しい音が倉庫の奥へ響いていった。
隙間から漏れた光が暗闇を切り裂き、次第に内部の空気が顔に触れる。油と木材と埃、しかしどこかイカタコの営みを感じさせる温かな匂い、料理の湯気が混ざっていた。倉庫の奥には鉄骨の梁が無数に走り、所々に吊された裸電球が黄色く光を放ち、古びたコンクリートの床に影を描いている。
机や棚には工具、使い込まれた銃器の部品、弾薬箱、衣類や毛布が整然と並び、天井近くまで積み上がった木箱には何が入っているのかもわからない。殺伐とした倉庫でありながら、灯りと匂いが確かに「生活」を証明していた。
「あ、アマリリス!」
弾む声と共に、奥から駆け寄ってきたのはミアだった。小柄な身体に不釣り合いなほど大きな瞳をきらきらと輝かせ、厚底のブーツをカンカンと鳴らして一目散に近づく。
「遅かったじゃん!すっごく待ったんだから!」
彼女の明るさが倉庫全体に反響するように広がった。すぐ後ろで鍋をかき混ぜていたキヨミは眉をわずかに動かしながらも、手を止めずにこちらに視線を寄越す。エルクスは椅子に腰をかけたまま、吹いていたスコープを置き
「おかえり。何か収穫は?」
と口角を上げる。アマリリスは答えず、背からリュックを外して床に置くと、無言でチャックを開けた。中から現れたのは衣類の束、毛布、乾パン、缶詰、調味料、大小の工具。彼は一つ一つを床に並べ、静かに整頓していった。ミアが横から覗き込み
「わぁ!ほんとにいっぱい!すごい、これで快適になるね!」
と無邪気に笑う。キヨミは目を細め
「助かるわね。保存食が増えるのはありがたい。」
と告げる。エルクスは頬杖をつき
「お前、妙に家庭的だな。倉庫が一気に家っぽくなる。」
と揶揄するように笑った。だがすぐに真顔になり
「で?外で何があった?」
と低く問う。アマリリスは一瞬だけ視線を落とし、次に淡々と口を開く。
「鎖のチーターと遭遇した。」
倉庫の空気が張り詰める。ミアが驚愕の声をあげ
「えっ、また!?どうして…」
と震えた声で続ける。キヨミは眉を寄せ、木のスプーンを止めた。エルクスは口を引き結び
「やっぱりそろそろ現れると思ってたが…。」
と呟く。アマリリスは感情を抑えた声で説明した。
「奴は鎖を自在に操る。鋭く伸ばし、切り裂く。だが本気を出す前に必ず退く。決して決着をつけようとしない。」
キヨミは低く吐き出す。
「…捕まらない理由がわかった気がするわ。」
ミアは拳を握り締め
「攻撃するくせに逃げるなんて卑怯だ!」
と怒りを露わにする。エルクスは顎に手を当て
「俺らを測ってんだろうな。狩るんじゃなく見ている。そんな動きだ。まあ、にしては現れすぎだが。」
最後に少し呆れつつ結論づける。
「観察はできた。だが今は仕留められない。」
アマリリスは短く答えた。
「上等だ。次に繋がる。」
エルクスは呟き、話を締めた。会話が一区切りつくと、倉庫は再び生活の色を取り戻す。テーブルには温かいシチューと切ったパン、即席のサラダが並べられる。キヨミが料理をよそい、ミアが皿を配り、エルクスがテーブルを整える。
アマリリスは持ち込んだ調味料を出し、味を整えた。温かな湯気が立ち上り、空腹を満たす香りが鼻をくすぐる。食卓を囲み、ミアは「おいしい!」と声を弾ませ、無心に食べ続ける。
「もう少し落ち着いて。」
とキヨミは呆れつつも口元に小さな笑みを浮かべる。エルクスは冗談を飛ばし
「この倉庫レストラン、意外と繁盛しそうだな」
と笑いを誘う。アマリリスは黙々と食べながらも、僅かに口角を上げた。食事が終わると、順に簡易シャワーへ向かう。ミアは子供のように叫び、髪 ゲソから滴る水をタオルで拭く。キヨミは黙々と身体を洗い、タオルを丁寧に畳む。
エルクスは鏡に向かい「今日も俺は完璧だな」とふざけ、ミアに笑い混じりに叩かれる。その光景を眺めるアマリリスの顔に、一瞬だけ柔らかい影が差す。最後に歯を磨き、毛布を床に敷き、鉄骨が軋む音を聞きながら横になる。
倉庫の天井の裸電球が揺れ、仲間の寝息が重なり合い、静けさが訪れる。目を閉じてもなお、鎖のチーターの気配は脳裏を離れず、しかしその影を胸の奥へ押し込み、やがて意識は深い眠りへ沈んでいった。
冷たい空気が寝室の隙間から流れ込み、微かに揺れるカーテンの端が月光に照らされて白く光っていた。アマリリスはうつらうつらと眠りから目覚めかけていたが、床の奥、倉庫の方向からかすかに響く金属音に目を覚ました。音は一定の間隔で、微かに振動を伴って伝わってくる。寝返りを打ちつつ耳を澄ませる。
確かにイカかタコの動く音だ、しかも無作為ではなく意図的に何かを扱っているような、微かなリズムが伴っている。心臓の鼓動が胸腔でゆっくりと高鳴る。
アマリリスは布団を剥がし、寝間着のまま素早く足を下ろすと静かに立ち上がった。足音を抑え、床の冷たさを感じながら歩く。倉庫の扉に向かう途中、頭の中で瞬時に状況を整理する。深夜に物音を立てるのは誰だ、誰がそこにいる、危険はあるか、侵入者なのか、仲間なのか。
扉の向こう、倉庫の奥からは微かに光が漏れている。ランプの光でもなく、月明かりが差し込むわけでもない、その場所だけがほのかに明るい。
アマリリスはそっと扉を押し開ける。きしむ金属の音が耳に届き、しかしそれ以上の音は出さぬよう意識する。目の前に立つのは倉庫の奥、普段は未開放の区域で、埃にまみれた段ボールや古い棚が無造作に積まれている場所だ。
そこで、エルクスが低くかがみ、小瓶を手に取りながら何かを調べている。小瓶の中には淡く青白い粉末が揺れていて、月光に反射するたびに薄い光を放つ。アマリリスは少し息を整えながら声をかける。
「……何をしている?」
声は小さく、しかし倉庫内にしっかり届く。エルクスは顔を上げ、静かに微笑んだ。
「お、目覚めたか。やっぱ話してなかったから来たくなったか?」
アマリリスは視線を固定し、微かな光に照らされる小瓶に視線を移す。青白い粉は、彼がこれまで戦ってきたチーターの肉体の隙間から光っていた物に見える。
エルクスはアマリリスを奥に招き、ゆっくりと話し始める。
「これが何か知ってるか?」
エルクスはやけに神妙な趣きでアマリリスに語りかける。アマリリスは表情を崩さずに「知らない」と言う。エルクスは再び小瓶に視線をやり話す。
「これは『神秘』だ。俺らが名付けたんだけどな。イカタコなら誰でも体内に持っている成分だが、チーターの場合は量が桁違いに多い。こいつは理性を保つために、理性を崩す悪い成分とのバランスを取るために存在する。普通の者の数十倍、いや場合によってはそれ以上だ。」
アマリリスは静かに小瓶に手を伸ばし、指先でガラスを触る。冷たい感触が伝わる。粉は微かに舞い上がり、倉庫の静寂の中で細かく光る。エルクスは続ける。
「悪い成分も神秘も、正体や起源は不明だ。ただ、我々の倉庫ではこうして小瓶に詰めて大量に保管している。狩ったチーターから採取したものだ。」
アマリリスは頷き、倉庫内を見回す。棚には小瓶が無数に並び、埃をかぶった箱や整理されていない書類、作戦用の図面、武器の予備弾、ナイフやローラー、ブラスターまで、それぞれの格納場所が決められているかのように整頓されている。エルクスは小瓶を棚に戻しながら話す。
「神秘は危険でもある。量が多すぎても理性が揺らぐ。だから狩人は扱いに細心の注意を払わなければならない。戦場では神秘の影響で予測不能な行動を取るチーターもいる。」
アマリリスは黙って聞き、頭の中でこれまでの戦いの記憶を反芻する。血のチーター、並行のチーター、幻覚のチーター……あの粉は確かに体内で見たものだ。
理性を保つために存在するとは言え、彼らの残虐さや再生能力の異常さは、この神秘の影響が絡んでいるのかもしれないと考える。エルクスは静かに棚の前に座り、小瓶を膝に置く。
「深夜にこんな話をするのもなんだが、君にも知っておいてほしいと思ってな。狩人として、チーターを理解するためには神秘の存在は避けて通れない。」
アマリリスは無言で頷き、腰を下ろす。冷えた倉庫の床が背中に伝わり、眠気と警戒心が混ざった微妙な感覚が広がる。エルクスはさらに説明を続ける。
「チーターを倒すと、必ず神秘が出る。だが、それは単なる粉ではなく、チーターの理性と行動パターンを解析する手がかりでもある。量の多さや濃度で、あの個体がどれだけ理性を保とうとしていたかがわかる。」
アマリリスは視線を小瓶から上げ、倉庫の奥に目を向ける。棚の影に置かれた武器や作戦図が月光に反射し、静かに輝いている。彼の胸中には、これまで戦いを経て得た知識と、今夜得た神秘の情報がゆっくりと積み重なっていく感覚があった。エルクスは微かに息を吐き、棚の間に座ったまま言った。
「夜が更けている。今日はここで寝てもいいが、神秘やチーターのことを考えると、完全に眠れる者は少ないだろうな。」
アマリリスは少し間を置き、静かに答える。
「……俺はベッドに戻るからな。」
「了解。」
二人はそれぞれの場所に身を沈め、冷たい床や簡易ベッドに体を横たえる。倉庫内は再び静寂に包まれ、外の風や微かな物音が遠くに響くだけとなった。アマリリスはまぶたを閉じ、頭の中で神秘の粉とチーターたちの存在を反芻し、胸に残る戦闘の感覚を整理する。エルクスもまた小瓶を棚に戻した後、体を伸ばして眠りにつく準備をする。
二人の呼吸が揃い、倉庫内にわずかな静寂と安心感が広がる中、月光が差し込む隙間から微かに光が零れ、神秘の粉の存在を淡く照らしていた。その夜、アマリリスは静かに倉庫で横たわり、戦いと神秘の情報を胸に抱えたまま、眠りへと沈んでいった。
【掲示板スレッド:最近チーター狩られてる件について Part4】
(前スレ >>980 あたりで埋まったので続き)
1: 名無しイカ (20XX/09/19 00:02:01)
お前ら、今日の午前10時のロビー前見たか?
やばすぎて一日中手が震えてる。
2: 名無しタコ (20XX/09/19 00:03:14)
ニュースとかメディアとかで全面的に扱ってるけど現場いたやつ全員噂してるよな。
「分裂したチーター」が虐殺したって。
3: 名無し (20XX/09/19 00:05:02)
分裂じゃなく「並行」って呼ばれてるらしい。
複数体同時に存在してたって証言だらけ。
4: 名無し (20XX/09/19 00:06:47)
てか10時って通勤ピークじゃん。
なんでそんな時間に出るんだよ……。
5: 名無し (20XX/09/19 00:08:13)
ロビー前、マジで血の海だったらしいな。
直接見たやつ「地獄絵図」って言ってた。
6: 名無し (20XX/09/19 00:10:00)
俺、現場近くで音だけ聞いた。
銃声と叫び声が同時に鳴り響いて、一瞬で静かになったんだ。
7: 名無し (20XX/09/19 00:11:38)
静かになったのは「狩人」が来たからだろ。
マジで誰なんだよそいつら。
8: 名無し (20XX/09/19 00:13:25)
最低でも複数人ってのは確定だな。
傷跡の種類が違いすぎる。銃、刃物、その他もろもろ。
9: 名無し (20XX/09/19 00:15:10)
俺の友達は「四匹いた」って言ってた。
影が同時に動いてたの見たらしい。
10: 名無し (20XX/09/19 00:16:42)
四人組狩人www
ゲームのレイド戦かよw
11: 名無し (20XX/09/19 00:18:03)
笑えねーって。
街のど真ん中で大量虐殺+即討伐とか映画でもやらんわ。
12: 名無し (20XX/09/19 00:19:41)
でも考えてみ?
あんな化け物を倒せる存在がいるってだけで救われるだろ。
13: 名無し (20XX/09/19 00:21:12)
逆に怖くね?
狩人の方が規格外すぎて一般人からしたら脅威だわ。
14: 名無し (20XX/09/19 00:23:05)
今日の死者数、噂だと三桁近くいってる。
マジで事件史に残るだろ。
15: 名無し (20XX/09/19 00:25:00)
公式発表は「負傷者数名」だったぞ。
隠蔽入ってるよな絶対。
16: 名無し (20XX/09/19 00:26:44)
だってロビー前通ったやつ全員知ってんだぞ。
隠せるわけねーだろ。
17: 名無し (20XX/09/19 00:28:12)
分身チーター vs 複数狩人。
誰かが実況してたらバズりまくったろうな。
18: 名無し (20XX/09/19 00:29:59)
お前不謹慎すぎ。
実際家族失ったやつ山ほどいるんだぞ。
19: 名無し (20XX/09/19 00:31:40)
すまん……。でもそれくらい現実味がねーんだよ。
もう街そのものがゲームみたいに感じる。
20: 名無し (20XX/09/19 00:33:12)
てかさ、なんで並行チーターってあんな大通りで暴れたんだ?
わざと見せつけてんじゃね?
21: 名無し (20XX/09/19 00:35:00)
それな。
「俺はお前らを殺せる」ってデモンストレーションにしか見えん。
22: 名無し (20XX/09/19 00:36:39)
でも結局狩人に狩られてんだろw
ダサすぎ。
23: 名無し (20XX/09/19 00:38:27)
いやいや、あんな強敵を倒せる狩人の方がおかしい。
どんな力持ってんだよ。
24: 名無し (20XX/09/19 00:40:01)
俺、狩人は組織だと思ってる。
裏で連携してんじゃね?
25: 名無し (20XX/09/19 00:41:40)
「不正者狩り」とか呼ばれてるらしいぞ、一部じゃ。
まあ都市伝説扱いだけどな。
26: 名無し (20XX/09/19 00:43:18)
不正者狩りwww厨二すぎwww
27: 名無し (20XX/09/19 00:44:55)
でも事実として、最近チーターの数減ってる。
ネーミングどうあれ結果出してるのは確か。
28: 名無し (20XX/09/19 00:46:12)
今日みたいに犠牲出るなら意味ねーだろ。
結局誰も救えてねぇじゃん。
29: 名無し (20XX/09/19 00:48:33)
いや、もし狩人がいなかったら死者三桁いってたかもしれんぞ。
止めただけでもでかい。
30: 名無し (20XX/09/19 00:50:11)
確かに……。
あのスピードで討伐できる存在がいるってだけで希望ではある。
31: 名無し (20XX/09/19 00:52:20)
でも狩人の正体は?
俺は軍人残党説を推す。
32: 名無し (20XX/09/19 00:53:59)
元軍人じゃなくても、ただのイカタコでもできる奴はいるんだろ。
今日証明されたわけだし。
33: 名無し (20XX/09/19 00:55:42)
……それ、逆に怖くね?
「普通の奴」が人殺しに手を染めてるかもしれんってことだろ。
34: 名無し (20XX/09/19 00:57:11)
チーター相手なら人殺しとは言わねーよ。
ただの駆除だろ。
35: 名無し (20XX/09/19 00:58:49)
そのチーター、元イカタコ説あるんだが。
もし本当なら狩人は人殺し確定。
36: 名無し (20XX/09/19 01:00:27)
うわ出た陰謀論w
でも……死体がイカタコっぽいのはマジで聞いたことある。
37: 名無し (20XX/09/19 01:02:03)
じゃあ狩人って正義じゃなくね?
ただの怪物狩る怪物。
38: 名無し (20XX/09/19 01:03:42)
怪物でもいいよ。
結果的にチーター減ってんだから。
39: 名無し (20XX/09/19 01:05:20)
今日の光景見てそう言えんのかよ。
ロビー前で親子で倒れてたぞ……。
40: 名無し (20XX/09/19 01:07:14)
やめろ……想像するだけで吐きそうになる。
41: 名無し (20XX/09/19 01:09:01)
でもさ、狩人が次にやられる可能性だってあるよな?
並行チーターの強さ半端なかったって言うし。
42: 名無し (20XX/09/19 01:10:39)
それな。
狩人が死んだら誰が街を守るんだ?
43: 名無し (20XX/09/19 01:12:17)
逆に狩人同士で殺し合い起きるかもって噂もある。
獲物の取り合いとかで。
44: 名無し (20XX/09/19 01:14:05)
そんなことになったらマジで地獄だわ。
不正者 vs 狩人 vs 狩人。
45: 名無し (20XX/09/19 01:16:02)
誰か言ってたけど、今日の現場にいた狩人は四人。
今後もチームで動くなら希望あるんじゃね?
46: 名無し (20XX/09/19 01:17:40)
狩人チームとか燃える展開すぎる。
漫画なら主人公だな。
47: 名無し (20XX/09/19 01:19:12)
いやもう現実が漫画越えてんだよ。
10時のロビー前事件で証明された。
48: 名無し (20XX/09/19 01:20:45)
……明日からロビー前通るの怖いんだが。
絶対まだ何か出るだろ。
49: 名無し (20XX/09/19 01:22:18)
みんな気をつけろ。
並行チーターが一匹じゃない可能性もあるからな。
50: 名無し (20XX/09/19 01:24:07)
結局、狩人が勝つか負けるか。
それ次第でこの街の未来が決まる。
スロスの薄暗い部屋には古い型のテレビがひとつ置かれており、無造作に転がったクッションに彼女は身体を沈めていた。
薄明かりに照らされるその顔は相変わらず怠惰で、眠たげに半分だけ開かれた瞳が、画面に流れるニュースの字幕をただ無感情に追っている。
「午前十時ごろ、ロビー前にて複数の市民が不正者に襲撃され……」
そこまで読み取った瞬間、彼女の眉がかすかに動く。だるそうに口を開き、何かを言いかけてやめ、代わりに床に転がっていたリモコンを足先でつついてチャンネルを変えた。
だが別の局でも同じ報道を繰り返していた。逃げ場のないニュースが、しつこいほどにロビー前での虐殺を映し出している。スロスは片手で頬杖をつきながら、わざとらしくため息を漏らした。
深い感情の色はなく、ただ呼吸と同じくらい自然に吐き出された音だった。だが画面に映る被害の大きさは彼女の耳を逃さない。市民は逃げ惑い、叫び声を上げ、そして血を流して倒れた。
画面にその光景が何度も流れると、怠惰な彼女の顔に一瞬だけ影が差し、かすかに笑みの形に口角が持ち上がる。喜びか、嘲りか、自分でも判然としないその表情は、彼女の奥底に巣食う「壊れた何か」の証だった。
ニュースのアナウンサーは淡々と被害者数を読み上げ、そして続けざまに「しかし現場では正体不明の存在により不正者が討伐された模様です」と告げた。その瞬間、スロスの瞳がぱちりと完全に開いた。退屈そうに半端に閉じられていた眼差しが、一転して冴えた光を宿す。彼女はリモコンを投げ捨て、身を起こした。ナイフを握る時のそれに近い動きで。
画面では「複数の市民の証言によれば、狩人らしき者が――」と続き、映像は誰かがスマートデバイスで撮影した粗い影を映し出した。人影が銃を構え、別の人影が刃を閃かせる。
次の瞬間、映像は途切れる。そこまでで、スロスは小さく舌打ちした。「……狩人?」その言葉を転がすように呟き、壁にもたれかかった。彼女はゆっくりと立ち上がり、部屋の隅に置かれた端末を開いた。掲示板アプリを起動し、トレンドの上位にあったスレッドを指で叩く。
【最近チーター狩られてる件について Part4】という見出しが画面に現れた。スクロールするごとに、匿名のイカタコたちがわいわいと無責任に語り合っている。「狩人がいる」「不正者より怖い存在」そんな文字の羅列が、無表情のスロスの瞳に次々と映り込んでいく。彼女は目を細め、嘲るように鼻で笑った。
「ふーん……近いうちに会う事になりそうだ…。」
その声には退屈を破られたことへの小さな喜びが混じっていた。彼女にとってこの世界は長いこと色を失っていた。どれほど戦っても死なない自分、壊れない自分、やがて再生してしまう自分。戦いの緊張も痛みの恐怖も、とうに意味を持たなくなった。
だが――「狩人」その二文字には彼女の退屈をわずかに揺さぶる響きがあった。掲示板の一レスには「二人いる」「組織かもしれない」とあった。スロスはその文を読み、息を漏らして笑った。
笑いながらも、心のどこかで別の感情が芽生えているのを自覚していた。それは恐怖ではない。警戒でもない。純粋な――好奇心。ページを閉じ、端末をベッドに放り投げたスロスは、薄暗い部屋を歩いて秘密の扉の前に立つ。無言でその扉をなぞる指先に、かすかな震えがあった。
奥に隠した死んでも蘇る保証。それがあるからこそ、彼女は恐れずに動けるし、何より死の重みを感じない。
「自分以外の狩人、か……。」
再び呟き、狂気をはらんだ笑みを浮かべる。
「だったら、退屈凌ぎになるか…?」
自分に問いかけるような声が、狭い部屋に小さく反響する。彼女はナイフを手に取って、その刃に反射するテレビの光を眺めた。無関心を装いながらも、心臓はほんのわずかに速く打っている。久しく感じなかった、退屈の隙間を破る音だった。
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