コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
朝礼が終わり、麻里子は自分のデスクに座った。
出社し、社員が集まると、まるでパズルの1ピースのように、麻里子はその動きの中に嵌まっていける。
何を考えても考えなくても、勝手に体が、脳が、神経が、仕事に切り替わってくれる。
「麻里子さん、本町の合田さんから電話です」
「麻里子さん、この間出してもらった冬タイヤの見積もり書のことで、ナンヨータイヤさんが話したいって」
「麻里子さん、自損事故の見積もり出たんだけど、これ、お客さんに麻里子さんからアポ取ってもらえる?」
「麻里子さん」
「麻里子さん」
「麻里子さん」
佐藤麻里子は、話しかけられた順に仕事をこなしていく。
どんな案件が来ても、大抵はこなせる。
8年間もこの仕事をしているのだから、当然だ。
「佐藤」
宮内が書類の束を麻里子に渡す。
「これ、新車グループの栗山さんのデスクに置いてきて」
『渡してきて』ではなく『置いてきて』。
イベント以外の土日は本部はいない。
新車グループも営業企画グループも、総務課も、庶務課も、そして。
経理課も。
薄暗いオフィスの通路だけ照明をオンにする。
下はうるさいほどの活気であふれているのに、2階に上がるとこんなに静かだ。
新車グループの栗田の机に書類の束を置く。
この束の一つ一つが、来週には新車に取り付けるナンバーとなって営業に戻ってくる。
先週、各店で開催されたイベントのせいで、栗田の机は溢れんばかりの書類の山で溢れかえっていた。
その様に弱く笑いながら振り返る。
経理課の机。
通路側が坂井のデスク。そのすぐ隣が結城のデスクだ。
営業課のそれとは違って、本部のデスクは小さい。
隣との距離も近い。
そのキャスターがついたオフィスチェアに、二人が並んで座っている様を思い浮かべる。
そこだけパッと明るくなったような気がした。
二人の後ろ姿は、自分でも驚くほどリアルに浮かび上がった。
音は聞こえない。
何かわからないところでもあるのか、坂井が首を傾げる。
すぐに気が付いた結城が、何か坂井に一言、二言、声をかける。
嬉しそうに振り返る坂井が、パソコンのディスプレイを指さす。
結城が少し椅子を寄せてそこを覗き込む。
彼女のキーボードを少し自分の方に引き寄せて、何かを打ち込む。
ディスプレイを指さす長い指に、坂井が頬を染める。
結城が微笑むと、坂井は大げさに頷きながら両手を合わせる。
麻里子は頭を振った。
二人の幻像は姿を消し、もとの薄暗い本部の一部に戻った。
(そりゃあ、ね)
彼らが仲良くなるのは当たり前である気がした。
そして、30になっても尚、頼りない彼女に、魅力を感じなくなってしまっても、しょうがない気がした。
坂井が悪いんじゃない。
結城が悪いのでもない。
だからと言って、麻里子が100%悪いわけでもない。
悪い人がいないんじゃ、誰のことも責められない。
必然だった。
ただ、それだけだ。
麻里子は本部を後にし、階段を下りた。
踊り場には、黒田市が生んだ油絵画家、松本薔子が描いた絵画が貼ってある。
空を駆ける三匹の馬。
「ーーーーーー」
麻里子は走り出した。
職員用玄関を抜け、エンジニアたちが行き交う工場を抜け、展示スペースを抜け、試乗車の列を抜ける。
「TOYODA自動車の豊富なラインナップを、ぜひご体感ください」
駐車場まで聞こえる大音量のアナウンスを聞きながら、麻里子はただ、走った。
お昼前にフラフラと帰ってきた麻里子を、宮内は呆れながら見上げた。
「新車グループはそんなに遠かったか」
結局当てもなく走り続けて、南の市境まで行き、そこからとぼとぼと国道沿いを歩いて帰ってきたのだった。
少し走っただけで踵かおかしくなったハイヒールを見下ろし、麻里子はため息をついた。
「お前の分の弁当。肉野菜弁当でよかったよな」
言いながら宮内がデスクに二つ並んだ弁当のうち、一つを麻里子に渡した。
「金は梨央ちゃんに――――」
そこまで言って宮内は舌打ちをした。
「本部の便所借りて、顔、洗ってこい」
麻里子は溢れる涙をぬぐいつつ、事務所を出ると、階段を上り始めた。
空を駆ける馬が、麻里子を見下ろす。
(いいなぁ。空を走れて)
踊り場で足を止める。
(私は――――どこにも行けない)