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オオモリシティの宿からは、広々とした海が見える。昨日の真昼と大差ない、鮮やかな海原。
綺麗に拭かれたガラス窓をほんのり開けるだけでも、潮風は部屋をすうっと訪れて、巡っていくと、新たに友人を呼んでまた帰ってくる。麗しい紺碧の海原をデッサンするために、そんな強い潮風を吹き込む海をものともせず、ウイエは大きく窓を開けてベッドに腰掛けている。
「いい風だ、今日はきっと大漁だろうなあ。」
呑気にそんなことを考えながら、ウイエは鮮やかで小気味良いような、聞き慣れてうざったいような鉛筆の音をあるか怪しい耳から耳へと流していく。そんなとき、自由奔放で乱暴な沼族のそれではないような気がしてしまう、丁寧な戸を押す音がする。
この丁寧な仕草で、尚且つ特に用事もない今日の真昼に彼女の下宿部屋を訪ねるものといえば……
「どうしたんだい、フク郎。あとでそっちに帰ると言ったのに。」
ウイエがパタリとスケッチブックを閉じると、邪魔をしてしまった、とか、なんで分かったんだろうか、というような顔をして驚いた顔の、ぎこちない顔をしたフク郎が戸を閉める。ぎぃ、と腑抜けたような蝶番の音を出して、スケッチブックを閉じるような音をさせてパッと彼女は振り向く。いまだにその変化した関係性が飲み込めないような顔つきで。
「それはわかってます。今日は少し、そばにいたくて。」
普段のような穏やかな顔に少し小っ恥ずかしいような、照れ臭いようなそれを浮かばせて、フク郎は一歩、もう一歩とウイエの方へ、ゆったりと歩いてくる。ゆったりと言っても悠然と、というよりは一歩一歩に謙遜が混ざっているような、そんなゆったりさをさせていた。
「普段離れてるみたいに言うね、今日はもっと近くでいようか。」
ウイエ自身でも意地悪に思えるようなことを言いながら、優しく隣のがらんと空いたスペースを叩く。やはりベッドと立地は一級品だ、なんて思いながら、きっと彼女はその辺りの椅子にでも座ってしまうだろうと勝手に落胆を飲み下したとき、謙遜気味にシーツに腰を下ろす音がした。…窓を閉める、という動作の後に。
「…お言葉に、甘えて」
潮風がずっと吹いていたら聞こえないほどぽそりと小さな声で言い訳を挟むと、珍しくフク郎はウイエの真隣へ浅く座る。ぽすん、と柔らかく凹んだシーツも、ウイエの手元の鉛筆のように紺碧の反射光を一身に受け、涼しそうに輝いている。ほんのり赤らみを帯びたフク郎の頬に反比例するように、シーツの紺碧は淡くなっていった。
翻っていた窓のドレスはパニエを脱ぎ、晴れやかな蒼穹に浮かぶ恒星は水平線へと落ちていく。
それを気にするでもなく、珍しい愛弟子の行動に驚愕を呟きながら、ウイエはいつもの剽軽としたような、穏やかでどこまでも続く深淵のような本調子にすぐ戻っていて。それに若干の落胆を感じながら、フク郎は身体を揺らすほどの鼓動に薄く汗をかく。
「フク郎みたいないい子、私好きだよ。」
シーツに置かれた深緑のスケッチブックに薄く鉛筆が光る。すっと寄せられた冷たいような温かいようなウイエの不思議な手は、そっとフク郎のまろい輪郭に添えられ、赤子を愛でるように優しく、母か、恋人か、師弟以上のそれを漂わせる手つきで頬を撫でる。
普段より熱を帯びたそれに満足を覚えながら、ウイエはそっと頰に触れていない手を腰に回す。ゆるやかな、しかし綺麗に流れる柔らかなくびれにそっと触れる。新雪のような、イチゴダイフクのような、真白く軟いものを触っている気分になる。
「もう、またそう言って…いい子ならみんな好きなんでしょう。」
その手を拒否するように添えられたフク郎の左手も、さほど拒絶はできず。むしろ興奮をそそる様な、なよやかな力で優しくウイエを拒絶する、フリをする。ウイエとフク郎の体つきは触ってみると意外と違い、その相違にフク郎はなおさら鼓動が高まる。
少し骨ばった様な手首が、スラリと通っているのに曲線美のある胴体が、以前までずっと顔や戦闘ばかり見ていたから、普段見ていなかった様々の部分が視界へ流れ込んでくる。赤らむ頬に応える様に、蒼穹の海原と晴天は、だんだんと薄い赤紫色になっていく。
「まさか、そんな浮ついた好き者じゃないよ。昨日はっきりしただろうに。」
ずいっと顔を近づける彼女を、どうしてもフク郎は拒絶できなかった。ああ、鼓動が、血脈が、五臓の六腑が、跳ね回って収まりそうもない。ウイエ様はこんなに婀娜っぽかっただろうか…いや、私の見方が変わったのだ。と、フク郎はこの恋のような愛のような欲のようなそれを理解する。
「フク郎だけさ、ね?」
手を一枚挟んだらもう何も挟めないほど、ウイエは愛おしそうにフク郎へ近づく。昂った鼓動を聞くように、熱を孕んだ腹部を愛でるように、柔らかで傷の一つもないような繊手を優しく包むように、いつにも増して色っぽく、そして離れられないように距離を詰める。
「それ、信じますからね。ウイエ様。」
その言葉を挟んだきり、二人だけの密室で小さなリップ音が響く。なんども、なんども、互いの存在を確かめるように、理解するように、なんども。六回目を通過したあたりで、とうとうフク郎の限界値が来たようで、ウイエの豊かな胸部に控えめに手が添えられる。それは腰に回された手へのなよい力と同じそれだった。
「ふふふ、存分に信じておくれよ。」
その控えめな手をすっと握る。今は確かに熱を帯びていたウイエの手に、真っ赤に染まったフク郎はなおさら顔に熱が集まるのを感じる。胴体が、足が、指先が触れ合っていく。
「きっと、後悔させないから。」
色の満ちた室内で、二人ははじめて自身らの関係を理解した。