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研修医として初めて産科に足を踏み入れた日、私は背筋を伸ばして宣言した。
「…今日から研修医として入りました。産科医希望で…まだ、未熟ですが…」
教育係に決まったのは四宮春樹先生。冷静沈着で、滅多に表情を崩さない。診察の横に立ち、オペでは必死に手順を追い、ポケットにはメモをびっしり詰め込んだノートが重く沈む。
寝る間も惜しんで復習し、気づけば夜が明けるのが当たり前になっていた。
⸻
深夜の当直。
机に突っ伏して、気づかぬうちにノートの上で眠ってしまった。
ナースコールに呼ばれて出ていった四宮先生に気づかないまま。
気づいたときには、すでに帝王切開の準備が始まっていた。
「おい、起きろ。」
肩を揺すられ、飛び起きる。頭がぼんやりして視界が揺れる。
手術室に立ちながら、必死に意識を保とうとした。
――しかし。
メスを差し出すはずの手が滑り、床に音を立てた。
一瞬、空気が凍りつく。
それでも四宮先生は何も言わず、淡々とオペを続けた。
私の胸は音を立てて崩れていく。
⸻
オペが終わり、処置室の片隅で再びノートを広げる。震える手で文字を書き足しながら、必死に取り戻そうとした。
その時、背後に気配が落ちる。振り返ると、四宮先生が冷めた眼差しで立っていた。
「…お前、医者向いてないよ。自己管理出来ないやつが他人を管理できると思うな。」
心臓を鷲掴みにされたみたいで、息が止まった。言葉が出ない。
「はぁ…私…医者向いてないなぁ…当直の日に寝落ちして、オペの助手で、ミスして…」
小さな声で零れた弱音に、隣から別の声が重なる。
鴻鳥サクラ先生だった。
「…四宮はあんな言い方するけど、君の努力は本当にすごいよ。」
優しい眼差しで私を見つめる。
「でもね、寝る間も惜しんでする努力は、医者として認められない。努力は時間じゃないよ。」
その声は静かに、けれど胸にしみ込んでいく。
「…少し、努力の方法、考え直してみなよ。」
涙が溢れそうになるのを、必死で飲み込んだ。
⸻
季節がいくつか過ぎた頃。
私は再びこの病院に戻ってきた。
研修医を終え、一人の産科医として。
白衣の裾を整え、深呼吸して医局の扉を開ける。
「…今日から産科医として入りました。…まだ、未熟ですが…」
初心を思い出すように口にしたその瞬間。
肩を軽く叩かれた。振り向けば四宮先生が立っている。
「前よりマシになったようだな。医者の顔、してる。」
言葉が胸に響き、頬が熱くなる。
思わず拳を握りしめた。
「…!!やったぁ…!!」
小さなガッツポーズに、四宮先生はほんの僅かに口元をゆるめたように見えた。