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春奈さんの家からの帰りの電車で、突然、瑞奈が泣きだした。
「ちょ、瑞奈」
あっという間に、周囲の乗客からの好奇の眼差しにさらされる。瑞奈の背をさする間も、瑞奈はぽろぽろと目から玉のような涙を流している。瑞奈が俺の手を、一度強く握ってから、離した。
「別れてもいいんだよ」
瑞奈が小刻みに息を吐きながら、顔を俺に向けた。真っ赤な目が俺を見据えている。「晴翔くんは別の人と恋愛をすべきだよ」
「おまえ、またそんなことを」
「晴翔くんも分かったでしょ。ALSが進行したら、モニター越しの会話になっちゃうんだよ。ううん、あたしは機械音痴だから、あんな風にモニターに文字を映すことなんてきっとできない。指使ってもできないことを視線だけでするなんてムリ。もう晴翔くんとはお話しできないんだよ。気持ちを伝えられないの。そんなんで晴翔くん楽しい? 歩けない、動けないあたしが彼女でいいはずないじゃない」
一気に喋った瑞奈が、涙と一緒に大きく息を吸った。喘息の発作のような激しい息遣いになる。
空気が破裂しそうなほどにぴんと張っていた。もう周囲の視線は気にならなかった。それどころではなかった。瑞奈のメンタルが崩壊しかけているのを感じた。
「瑞奈、落ち着け」
瑞奈の両肩を掴むと、瑞奈はいやいやをするように上体を激しく揺すった。
「『同じ感じ』の文字を最初に見た時、名前の『漢字』じゃなくて、雰囲気の『感じ』で当ってる気がしたの。同じ病気に罹患している『感じ』を、あたしも春奈さんから感じとった。春奈さんをまじまじと見て、自分の姿を当てはめて、身震いするほどの恐怖を感じた。同時に、そうかって納得できるものも感じた」
瑞奈が俺の手を払いのけ、逆に俺の肩を掴んできた。顔を寄せるほどに近づけ、肩に指をめり込ませながら俺に迫る。
「『久しぶりに凄く楽しかった』時間を、あたしは晴翔くんに強いることになるの。あたしに付き合うとそういう時間を過ごすことになるの。それで晴翔くんはいいの? いい訳ない。駄目だよ。動けなくなるあたしに、晴翔くんを付き合わせたくない。いつまでもこんな重たい女に付き合う必要ない。晴翔くんはあたしから羽ばたくべき。だから――」
俺は馬鹿だった。
春奈さんの部屋で瑞奈の目に浮かぶ涙を嬉し涙と解釈して、俺は悦に入っていた。
そんなことがあるはずなかったのだ。
瑞奈は予想される自分の未来図に怯え、泣くほどに悲嘆にくれていた。誰かの支えが無いと崩れてしまうほどの衝撃を必死に耐え、せめて俺だけは巻き込まないようにと瑞奈は葛藤していた。
どうしてそのことをすぐに気付かなかった。俺はまだ覚悟が中途半端なのでは。これじゃあ駄目だ。駄目なんだ。
「瑞奈ぁあああっ!」
きっと車両中の乗客全員が俺達を見ていたと思う。それで構わなかった。俺の瞳には瑞奈しか映っていないのだから。他人など気にしている余裕はなかった。
俺は支えないといけない。瑞奈と一緒に生きたい。
一緒に生きるために、瑞奈を支えると覚悟を決めた心持ちに偽りはない。中途半端じゃいけない。俺は、瑞奈と一緒に前を向いて、歩いて行くんだ。
「俺は何度でも言う。俺はおまえと一緒に生きていきたい。俺がお前を支える。サッカーが一人だけで勝つことができないのと一緒だ。チームメイトが必要だ。人生もそうだ。瑞奈の人生には俺が必要なんだ」
後から考えれば、人生をサッカーに例えるなんて随分と飛躍した例えだっただろう。だけど、この時の俺には、この例えが全てだった。サッカーが俺と瑞奈を結び付けてくれたのだから、これ以上の例えは考えられなかった。
「だから、俺はおまえと別れない。おまえと一緒に生きる」
瑞奈の目が見開かれる。不安な色を瞳に灯したまま、瑞奈は瞬きもせずに俺を見つめていた。
「いいの?」
弱々しい声と一緒に涙が零れていく。俺は頷きを返した。
「もう泣くな。約束だ」
すると、どこからともなく拍手が鳴った。
誰かの拍手につられて、車両内のあちらこちらで拍手の音が鳴りだすと、それは大きなうねりとなった。気付くと大音量の拍手の音に、俺と瑞奈は包まれていた。瑞奈と一緒に車両内を見回す。
好奇な視線を向けられていたと当初感じていた視線は、皆、優しく穏やかで温かな視線だった。
拍手が止まらない。さらに増幅されていく。騒ぎに気付いた隣の車両の人も拍手をしてくれていた。次から次へと拍手をする人が増えていく。名前も知らない、たまたま同じ電車に乗り合わせただけの人達が、俺と瑞奈に生きる勇気をくれていた。支え合う心の神髄を伝えてくれていた。
俺と瑞奈は図ったまでもなく、同時にゆっくりと、心を込めて頭を下げた。
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