テラーノベル
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「いってきます!!」
「いってらっしゃ〜い。 」
朝、バタバタと部屋を駆け回る足音で、ぼくは目を覚ました。
枕元に置いていたスマホを手に取って時間を確認すると、設定していたアラームより、だいぶ早い。
その事実に、まだぼんやりとした頭の中で(なんだよ…)と、ほんの少しだけムッとした。
「あ、起きちゃった?」
キッチンの方からリビングに入ってきた涼ちゃんが、ぼくが目を覚ましたのを見て、声を掛けてきた。
「うん、おはよう…。」
「ごめんねぇ。」
あのバタバタした足音は絶対に若井だ。
どうせ、早い集合時間に起きる事が出来なくて、ギリギリで飛び出していったに違いない。
だから、謝ってくるなら、涼ちゃんじゃなくて、若井なのに。
「まだ、寝ててもいいよ?」
そんな事を思ってると、涼ちゃんが、上半身だけを起こして、まだ布団の中にいるぼくの横にしゃがみ込んだ。
そして、そのまま、眠そうにしているぼくの頭を、ぽんぽんと優しく撫でた。
…その瞬間。
眠気は一気に吹き飛んで、代わりに心臓がドクンと大きく跳ねた。
頭を撫でる手のぬくもりがじんわり伝わってきて、まるでそこだけ時間が止まったような感覚になった。
さっきまでの眠気が嘘みたいに、ぼくの頭は急に覚醒し、胸の奥ではドキドキと音を立てて心臓が大袈裟に動き始めた。
「だ、大丈夫! 」
とてもじゃないけど、もう一度眠れるような状況じゃなくなったぼくは、バッと勢いよく布団を蹴るようにして立ち上がった。
そしてそのまま、涼ちゃんの顔もちゃんと見られないまま、逃げるように脱衣場へと足を向けた。
ぼく自身、なんでこんなに動揺してるのか分からない…
だけど、涼ちゃんの手の感触と、あの優しい声だけが、ぐるぐると頭の中で何度も繰り返されていた。
洗面台で自分の顔を見たら、ほんのり赤くなっていた。
冷たい水でバシャバシャと顔を洗い、火照った顔の熱を冷ましていく。
ついでに歯も磨いて、何とか自分を落ち着ける時間を稼ぐと、おそるおそるキッチンへと向かった。
「…めっちゃバターの匂いする。」
「今日はねぇ、オムレツに挑戦してます!」
もしかしたら、赤くなった顔に気付かれたかもしれない…と思って身構えていたのだけど、どうやらそれは杞憂だったらしい。
キッチンでは、ぼくの動揺なんてまるで気づいていない様子で、涼ちゃんは鼻歌まじりに卵をかき混ぜていた。
目玉焼きも、ましてやスクランブルエッグだってまともに作れた試しがないのに、なぜオムレツなんて高度なものに挑戦しようとしているのかは謎だ。
でも、そんなことはお構いなしに、涼ちゃんは楽しそうにフライパンと格闘していて…
ぼくはその姿を見て、思わず笑ってしまった。
「オム…レ…ツ…?」
「うーん、オムレツって難しいねぇ。」
完成したそれは、どう見ても“オムレツ”とは呼べない代物で、思わず言葉を失った。
卵がなんとなく固まっているだけのそれを、おそるおそるひと口。
途端、口の中いっぱいに、しつこいくらいのバターの風味が広がった。
キッチンに入ったときからバターの匂いが強すぎるとは思っていたけど…
これは、久しぶりの胸焼け案件かもしれない。
いつも、即座にツッコミをいれる若井が、今日は居ない為、何とも言えない雰囲気になり、ぼくは『明日はスクランブルエッグがいいな…』とだけ呟いた。
案の定、胸焼けと戦いながら、なんとか完食。
いやもう、頑張った、自分。
・・・
今日は、ぼくも涼ちゃんもバイトの日。
朝だというのに、すでに夏の陽射しがじりじりと照りつける中、額にじんわり汗を浮かべながら、ぼくらはバイト先へと足を運ぶ。
途中、涼ちゃんが『気持ち悪い…もしかして熱中症かな?』と言っていたけど、ぼくは心の中で(いや、それは絶対朝ご飯のせいだよ)とツッコミを入れた。
バイトは、今日も平和そのものだった。
波の出るプールや他のエリアでは、色々なトラブルが起きていると耳にするのに、 なぜか、ぼくの担当する場所では、そんな気配が全くない。
(もしかして、見逃してる…?)
そう思って、いつもよりも注意深く監視してみたけれど、 結局なにも起こらないまま、 お昼休憩を迎えた。
いつも通り、涼ちゃんが居るフードコーナーに向かっていく。
『今日はホットドッグにしようかなー』なんて考えながら歩いていると、カウンターに、見覚えのある後ろ姿が何人か立っているのが目に入った。
嫌な予感がして小走りで近づいて行くと、やはり、その後ろ姿は、この前の例の連中だった。
この前は6人居たけど今日4人。
それでも相変わらず、涼ちゃんに向かって心ない言葉を浴びせている。
『今日こそは…何か言ってやる!』
決意を込めて足を速めたそのとき。
ぼくが声を掛けるよりも先に、奥からひょいっと出てきたのは、 前にぼくたちの事を『仲良しだねぇ』と言ってくれた、あのおばちゃんだった。
「なに、あんたたち。何も買わないなら、どっか行きな!」
大声で、そして、まっすぐ彼らを睨みつけるように言い放った。
おばちゃんの迫力に圧倒された連中は、何も言えずに、いそいそとその場を後にした。
そんな中…
一番最後に立ち去った男が、小さく『…ごめん。』と呟いたのを、ぼくは確かに聞いた。
その人は、どこか若井に似た雰囲気があって…
もしかしたら、あの人が、涼ちゃんが告白した相手だったのかもしれない、なんて、ふと思った。
「おばちゃ〜ん、ありがと〜。」
「いいのよ!あ、ほらっ、お友達来てるわよ!」
「ん?あ、元貴〜。」
「彼奴ら…また来てたんだね。」
「あ〜、うん。でも大丈夫!僕には元貴と若井が居るから平気だよ!それに、おばちゃんも強いしねっ。」
そう言うと、涼ちゃんは本当に気にしてないって言うような顔で、ニコッと笑った。
「それに、あまりにしつこかったら、奥の手もあるからぁ。」
今度は、ちょっとだけ悪い顔。
ニッと笑う涼ちゃんの目が、ほんのりいたずらっぽく光った。
「それより!お昼休憩でしょ?僕も丁度お昼だから一緒に食べよ〜。」
「うん!ぼく、今日はホットドッグ!」
「じゃあ、僕もそれにしよっと。」
涼ちゃんは、ぼくと若井がいるから大丈夫だって言ってくれた。
その言葉が、本当に凄く嬉しかった。
涼ちゃんが気にしてないなら、きっと、今はそれでいいんだと思う。
だからぼくも、あれこれ考えすぎるのはやめて、 素直に、お昼ごはんを楽しむ事にした。
おばちゃんがフライドポテトを一つサービスしてくれて、ぼくと涼ちゃんはホットドッグを片手に、フライドポテトを半分こして食べた。
暑い夏は苦手で、真夏の日差しは相変わらず眩しかったけど、 涼ちゃんの笑顔を見ていると、なんだか夏も悪くないな、なんて、思える気がした。
・・・
明日も朝からバイトな為、夕飯を終えて、少しだけ課題をやると、早めに布団に入った。
前に若井が不在だった時は、それぞれ自分の部屋で寝ていたけど、今回は同じ部屋。
いつも電気のスイッチから一番近い若井が消してくれていたので、その癖が抜けず、布団に横になったあと、今日の電気消す係は自分だと気が付いた。
起き上がろと上半身を起こしたぼくを、まだ布団に入ってなかった涼ちゃんが、『僕が消すから大丈夫だよぉ。』と言ったので、お言葉に甘えて、また布団にゴロンと横になる。
「消しま〜すっ。」
数分後、涼ちゃんの声と共に、パチッとスイッチを押す音がして、 部屋は一気に静かで暗くなった。
「…わっ、真っ暗〜。」
電気が消えた直後、涼ちゃんのちょっと不安そうな声が暗闇の中から聞こえた。
と、思った瞬間、直ぐにガタガタッという音が聞こえてきた。
「っ、いったぁ〜。」
そして、その次に聞こえてきた涼ちゃんのその声で、さっきの音は何かにぶつかった音なんだと分かった。
たぶん、家具の角だろうか…
暗い部屋の中で慣れない動きをしたせいで、ぶつかってしまったらしい。
「涼ちゃん、大丈夫?」
心配して声を掛けると、涼ちゃんの恥ずかしそうな笑い声が聞こえてきた。
「だ、大丈夫〜。…ただ、元貴がどこに居るか分かんなくてさぁ。もし、踏んずけたらごめんね?」
今、とてつもなく不吉な言葉を聞いた気がする…
涼ちゃんの布団に辿り着くには、どう考えてもぼくの頭の上を通過するルートしかない。
そして、涼ちゃんのドジっ子ぶりは筋金入りで、今の一言をほぼ確実に現実にするだけのポテンシャルを持っている。
これはもう、“事故る未来”が見えた気すらする。
「ちょ、ちょっと待って…今、スマホで…うわぁっ!」
「わぁ…!」
危険を回避しようと、スマホで涼ちゃんの足元を照らそうとした、その時、 なにかがぼくの足にゴツンと当たった。
そして次の瞬間。
視界いっぱいに、涼ちゃんの顔が飛び込んできた。
てっきり頭を踏まれる想像をしていたのに、一体どう動いたらぼくの足に躓くのか…
ぼくの上に覆い被さるように倒れ込んできた涼ちゃん。
ほんの数十センチどころか、数センチ。
息をするのもはばかられるほどの距離に、ぼくは思わず息を止めた。
心臓の鼓動が、胸の奥でドクドクとうるさく響いている。
涼ちゃんにこの音が聞こえてたら、どうしよう…
声も出せず、瞬きも忘れたまま、 ぼくらはただ、暗闇の中で見つめ合っていた。
「ぁ…ご、ごめんっ…今、退くね…!」
少しして、ハッとしたように涼ちゃんが目を見開き、 慌ててぼくの上から身を起こそうとする…..が。
「えっ、わぁっ!」
身体を起こした瞬間、今度はぼくが掛けてたタオルケットに足を取られ、バランスを崩した涼ちゃんが、再びぼくの上に倒れ込んできた。
危ない!と思い、手でガードすると、丁度、涼ちゃんの胸板をぼくの手のひらが支えるような形に…
ガリガリだと思っていた涼ちゃんの胸板は、意外としっかりしていて、きゅっと引き締まった感触だった。
その“思ってたより男らしい”手応えに、ぼくの心臓はさらにドクドクとうるさく鳴り出す。
「…ごめん!今度こそ退くから…!」
涼ちゃんはそう言うと、バタバタと立ち上かわり、 今度は足元をしっかり確認しながら、静かに自分の布団へ向かっていった。
そして、しばらくすると、左側からガサゴソと布団に入る音が聞こえてきた。
「お、おやすみ。」
「う、うん。おやすみ…。」
互いにどこか気まずさをにじませながらも、『おやすみ』の言葉を交わし、 ぼくはぎゅっと目を閉じた。
涼ちゃんを手のひらで支えた時、その胸板越しに心臓の鼓動が手に伝わってきた。
その鼓動は、ぼくのそれと同じくらい早くて…
その事実にぼくは顔がじんわりと熱くなるのを感じた。
こんなハプニングが起きたのは、この暗闇のせいだ。
でも、ぼくの顔が赤くなっていることに気づかれなかったのも、暗闇のおかげで。
ぼくはこの暗闇に心の中で恨みながらも、ほんの少しだけ、感謝をした…
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