2025.2.10
水目線
重い腰をあげ、その辺にあったパーカーにお気に入りのスニーカーを履く。
「……いってきます。」
日差しに目を細め、少し涼しくなってきた空気に身を包む。
「変移、してますね。今のあなたの第二性はSubです。」
医者から告げられた言葉は予想を的中した。
「あー、やっぱ変わってたかーw」
「今まではSubにはなりたくないと嫌がっていたのに嬉しそうですね。いい人と巡り会えたんですか?」
「え…まぁ、そうです、ね。」
「今までの生活とは違うことも増え、大変かと思いますが、その方と結ばれるといいですね。」
「…はい、ありがとうございます。」
原因はわかっている。
あのときから異変はあった。
もしかしたらと思っていたが、この違和感や不具合は最近の忙しさからくるストレスだろうと、思い込んで無視をしてきた。
中学生の頃にやった第二性検査。
第二性を持っているだけでも珍しいのに、俺は”Switch”という特に珍しい結果だった。
簡単に言えばDomとSub、どちらにもなり得る可能性を持ったダイナミクス。
そして俺は、とある要因によってSubへと変異した。
変わっていてよかった。
変わったところでなんになる。
俺の第二性が変わったら彼の心まで変わるというわけではないのに。
長年お世話になっている病院から、初めて貰う薬や資料を持って外に出る。
俺を嘲笑うように曇りない青。
「……叶うわけ、ないよなぁw」
最高に最悪な気分だ。
薄れゆく夏の色に似合わない感情は空へ滲んだ。
まだまだ暑い夏の日。
伸びてうざったい髪を高い位置で結んで街へ出る。
SubをナンパをするDomの声がする。
生憎だがここは待ち合わせ場所。
動くわけにもいかず無視を続けていると、肩を叩かれる。さっきから声をかけてやってるのに無視なんて酷くないかと、軽くGlareを浴びせられた。
おい、その行為は犯罪だぞ。
それに残念だが俺はSubじゃない。
いつものよく回る軽い口でいいくるめ、仕方なくその場から離れた。
つもりだった。
身体が硬直して動かない。
Domに逆らうなと身体が言っている。
やめてくれ、俺はSubじゃないんだ。
逃げたい。
逃げれない。
逃げてはいけない。
本当にこいつの命令は聞かないといけないのか?
「…なにしてんの?うちのなかむ離して。」
「ぶるーくっ!?」
待ち合わせ時間をすこし過ぎた頃、待ち望んでいた人が来た。
でも、いつもの雰囲気とはまるで違う。
冷酷な怒りを纏い、Glareで威圧する。ぶるーくの方がランクが上だったのか、狼狽え悪態をつきながらヤツらは離れていった。
「あ、ありがとう……Dom、だったんだ。」
「うん、らしいねぇ。自覚も支配欲もないけどw」
「そう…なん、だ……」
「時間おくれちゃってごめんね?買い物いこっか。」
不機嫌そうだったのはその一瞬だけで、いつもの柔らかい雰囲気を纏った彼に戻っていた。
助けてくれた。
これは善意による行為。
なのに彼のGlareを感じたとき、最低な考えがよぎってしまった。
彼に支配されたいと。
ひとつ、心臓が強く脈打ったのを鮮明に覚えている。
Playをしない影響も薬のおかげでだいぶマシになっている。
今日もワイテハウスにみんなで集まって会議をして食事をして、ゲームをする何事もない日常。
「ああ”っ!もうやだっ!!嫌い!!!!」
「あぁwぶるーくの心壊れちゃったww」
執筆作業のBGMにしていた彼らの遊ぶ声。ゲームに対して向けられたものだと頭では理解しているのに彼の言葉が刺さる。
“嫌い”
大丈夫、俺に向けられた言葉じゃない。
大丈夫…なのに指が動かない。
文章は頭の中で構築されてゆくのに書き出すことができず困惑していると、ふと呼吸を止めていることに気づく。
あぁ、呼吸しなきゃ。
……あれ?
空気が上手く吸えない。
呼吸ってどうやってするんだっけ。
呼吸数を上げても肺に空気が入ってこない。
視界が滲み、端から黒に塗り潰される。
みんなの声がぐちゃぐちゃになっていく。
水の中みたいになにを言っているのか分からない。
手足が痺れ身体が硬直してゆく。
頭が、身体が、肺が、心臓が痛い。
とにかく空気を取り入れようと必死になって息しようとする。
……
なぜ?
なぜ生きようとする?
おれはぶるーくに必要とされていない。
それじゃあ、存在するいみは?
……ない。
おれのそんざいり由なんてない。
かれにひつようないならこのよにいらない。
ゆびにかけたこれもいらない。
そっとみをゆだねてしずむ。
くるしみがうすれゆく。
いしきがきえる。
かれのこえがきこえたきがした。
くらいくらいうみのそこ。
なにもない、ただのくらやみ。
ひかりもないひとりだけのくうかん。
つめたい。
だれもいない。
さみしい。
ごめんなさい。
おれ、いいこにするから。
すてないで。
きらいにならないで。
ごめんなさい。
ひとりにしないで。
ごめんなさい、ごめんなさい。
いいこになるから。
ごめんなさい、ごめんなさい。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
だれか、たすけて。
ふわふわする。
つめたいうみとはちがうかんかく。
だれかによばれている気がする。
春の日ざしのような匂い。
大好きな人の匂い。
「……ぶるー、く…?」
「…っ!!なかむ!?……よかったぁ、もどってきてくれた……おはよ。」
認識、驚愕、理解、安堵。
一瞬でころころと表情を変える彼に頬を緩める。
自分の状況を把握すれば彼の膝の上で抱きかかえられた状態。
4人もこちらの様子を伺っている。
恥ずかしさのあまりに飛び降りようとしたが、手足が痺れて動かすことができない。
どこかへ行こうとしたのを察したのか、ぎゅっと音がしそうなほどにきつく抱きしめられる。
「ごめんねなかむ……Subだって知ってたけど言わないから言いたくないんだと思ってなにも聞かなかった。ごめんね、言ってたら落ちなかったかもしれないのに。」
「…ぶるーくは、悪くっないよ。俺が……俺が、全部っ悪いの…」
「そんな自分を責めないで?僕のせいだから。”Sub drop”からどうやったら連れ戻せるか分かんなくて…なかむのことは僕しか助けられないのになんっにも分かんなくて、なかむのこと苦しめた。抱きしめてるのにどんどん冷たくなっていっちゃうの……本当に怖かった。」
「もうどっかにいかないで……一生僕のそばにいてよ。」
身体が軋むほど強く抱きしめられる。
ぶるーくのことが好き。
だからこそ、俺じゃない人と幸せになってほしいんだ。
俺では子供が産めない。
彼だったら手にできるはずの幸せを与えることはできない。奪ってしまう。
だめだ、だめなんだよ、俺なんかじゃ。
彼の言葉に首を振る。
「なかむ、ごめんね。……”Say”」
「…っ!ぁ、うっ……すき…好きなのっ、ずっと、ずっと前からっ!ぶるーくのことが好き…一緒にいたいっ!でもっ、俺じゃ、幸せにできない…ダメっ、なんだよっ…」
「うん……ありがとう、ちゃんと言ってくれて。”Good boy”いいこだね。僕も一目見たときからずうっと好きだよ。」
「ねぇ、なかむ……」
「marry me?」