「この世に生まれて初めての上げる産声、固く握った小さな手、未来へと受け継がれる命。その現場に遭遇して生きている事の大切さを改めて考えさせられたんだ。生きているのに心を凍らせて死んだような毎日を送る自分を恥じ、心が動き出した私は、保留にしていた出版の話を受けて話を進めた。まさか、その本の表紙に指名したクリエーターがあの日の妊婦さんとは思わなかったけどね」
二人で顔を見合わせてふふと笑った。私の手を包む朝倉先生の手に力が籠る。
「夏希さんが必死に子育てをしているのを見て、いつもパワーを貰っていたんだ」
「翔也先生、すみません。私、自分に自信がなくて、翔也先生に似合わないんじゃないかとずっと思っていたんです」
不安を吐露すると、朝倉先生は優しい瞳で私を見つめる。
「もっと、自分を誇っていいんだよ。夏希さんは、明るくて、頑張り屋さんで、愛情深くて、優しくて……」
と、恥ずかしくなる事を言い出した。
「朝倉先生!」
アワアワと朝倉先生の言葉を遮ったけど、止めてくれない。
「恥ずかしがり屋さんで、照れ屋さん」
朝倉先生は私を揶揄い、ふっと微笑む。
「呼び方が戻っているよ」
「……翔也さん」
私たち親子の事を身代わりだなんて朝倉先生は思っていない。
自分の自信の無さから勝手にネガティブ思考に陥って悪い考えに囚われてしまっていたんだ。
「翔也さん。辛いお話をさせてしまいました。ごめんなさい。二人で解決していこうと言ってもらえて嬉しかったです」
「いや、もっと早くこの話をしておけば良かった。すまない」
朝倉先生は私の頬を手で包み込み、唇に優しいキスを一つ落とす。
優しいキスに心が温まるような気がした。
私もちゃんと、朝倉先生に言わないと……。
言いづらくても伝えなければ、信頼関係は築けない。
「翔也さん、私もお話しておくことが、あります」
朝倉先生は頷き、私に視線を合わせた。
「あの、先日、うちに来て頂いた時に会った人が美優の父親で、美優の認知の話が進んでいます」
ここまで言うと心拍数が上がっているのが自分でもわかる。先日、家の玄関先で朝倉先生と将嗣が会った時の事が脳裏を過る。
「彼と付き合っていた時、彼が既婚者だって知らなかったんです。既婚者である事を知って直ぐに彼と別れました。その後、妊娠している事に気が付いて、授かった命を消してしまうなんてしたくなかったから黙って美優を産んだんです。そうしたら美優の健診で区役所に行った時、偶然会ってしまって……。その後、月齢で付き合っていた時の子供だっていう話になったんです」
「それで、既婚者でありながら今も夏希さんに付きまとっているのか?」
「いえ、離婚したそうです」
朝倉先生は、ハァーと息を吐いた。
「夏希さん、人が良いから心配だよ」
「大丈夫ですよ。私も大人なんですから」
とは、言ったものの 先日、隙をつかれてキスをされた事を思い出し目が泳ぐ。
「美優ちゃんを盾にされたら断り切れない話が出てきそうだ」
「……それで、ですね」
付き合い始めのこの時期に誤解を生むようなことをしたくないから、かくかくしかじか、美優の祖父母に当たる将嗣の両親に会わせたいと言われた事を正直に話した。
「ウチは、両親が既に亡くなっているので、親が孫に会いたいという話を彼に言われるまで気が付かなかったんです。言われてみると、そうだなって思ったんですけど、元カレとその実家に行くのって抵抗があって返事はしていないんです」
と、告げた後、朝倉先生は眉尻を下げ、困ったような表情をした。
「夏希さん、あなたって人は、素直すぎますね」
そう言われても意味が解らず首を捻っていると朝倉先生の言葉が続く。
「離婚した彼の実家に彼とその子供、その母親が行ったら、御両親はどう受け止めますか?」
「居ないと思っていた孫が出来た?」
私の返事を聞いて、朝倉先生は苦笑した。
「夏希さんの事を彼の両親はどう思いますか?」
「あっ! 新しい嫁が来た?」
「そうですね。良い意味で受け入れられれば可愛がられるでしょうし、夏希さんの本意ではなかったにしろ、不倫の期間があるのですから悪い意味に受け取られてる可能性があります」
「やっぱり、そう思いますよね」
「夏希さんの場合は、大歓迎されて、お嫁さん候補と勘違いされたのが、そのままの勢いで結婚まで話が進んでも、断り切れずに丸め込まれそうで心配だな」
「やだな、朝倉先生いくらなんでも、それは、はっきり断りますよ」
そう言った私を朝倉先生の瞳が捕らえた。その真剣な瞳に吸い込まれたようなって動けない。
「夏希さん、私は、結構独占欲が強いんですよ」
スッと首筋を撫でられ、ドキッと心臓が跳ね上がる。
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