「制服、似合ってるじゃない」
「桜汰も今日から高校生か」
身支度を整えてリビングに顔を出すと、父さんと母さんが満足そうにそう言った。
俺の結婚を機にカナダに移住したので、画面越しではない両親の顔を見るのは3年ぶりだ。
──そう、この実家もその時に売ったはずなんだ。なのに、この状況はなんなんだ?
「ていうか、あんたネクタイの結び方なんて知ってたの」
「まあ一応…」
一応どころか、10年以上サラリーマンをやってたんだから完璧だ。
紺地に赤いラインと校章が入ったネクタイ。白いシャツに、チャコールグレーのスラックス、新しくてまだ着心地が悪いブレザー。
まさかまた、この制服を着る日が来るなんて。
「入学式、後から行くからな」
「いってらっしゃい」
わけがわからなかったけど、にこにこと上機嫌にそう言われたら家を出ないわけにはいかなかった。
***
『走馬灯』。影絵の仕掛けを施した、回る紙灯籠のこと。人が死ぬ間際に過去の記憶が脳裏に浮かんでは消えて行くことは「走馬灯現象」や「走馬灯体験」とも呼ばれる。
「う~~~ん……」
通学電車の中で、思い当たる可能性を調べてみるがどうも腑に落ちない。消えると表現するには長すぎるし、第一、俺は『死ぬ間際』ではなく死んだはずだ。
そして、この手にあるのは間違いなく高校の入学祝いで買ってもらったスマホ。ちゃんと入学式の日付が表示されている。
なんだっけ、こういうの。少し前に流行ったヤンキー漫画で、似たようなことがあったような…。
「…タイムリープ…」
思わず口をついて出た、もうひとつの可能性。
36歳で死んだ俺が、20年の時を遡って16歳の高校入学の日に戻って来た。
「…………」
いや、ないだろ。そんな都合のいいことが、自分の身に起こるわけが──
「っ!」
キキー、ガタン!!
『…お急ぎのところ申し訳ありませんが、ただ今線路内に異常が見られたため緊急停車いたします』
「えー?何それ」
「緊急停車ってどれくらい?」
「乗り換え間に合わないじゃん」
ざわつく車内で、俺は手すりに捕まって立ってるのがやっとだった。
同じだ、20年前と。忘れるわけがない。
この緊急停車は結局1時間近くかかって、入学初日に遅刻する羽目になったんだ。
「…マジかよ…」
***
「えーと、藤崎桜汰です。とりあえず入学式には間に合ってほっとしてます」
同じ遅刻なら堂々としていたほうがいいと思ってあえてホームルームの途中に教室に入ると、担任から自己紹介のトップバッターに指名された。真面目過ぎず、軽薄過ぎない、適度に力が抜けた挨拶に教室の空気が和んだのを確認して、俺は席についた。
やっぱり、何もかもあの日と同じだ。
まだ信じられない。こんなことが本当にあっていいのか?
「あと一人、藤崎と同じ電車遅延で遅刻のヤツがいるな」
担任の言葉に、心臓が大きく跳ねた。全意識が俺の斜め前にある空席──海生の席に注がれる。
20年前も、こうしてあの席を見ていたっけ。同じクラスになれたことが嬉しい半面、また1年、消えない海生への気持ちと付き合っていかなくてはいけないことに苦しくもなった。
「じゃあ自己紹介、藤崎の後ろの席から順番にまわしていくかー」
だけど今は、期待に弾む胸をなだめるので精一杯だ。懐かしいクラスメイトたちの自己紹介も右の耳から左の耳に抜けていってしまう。
海生に会える。
また、海生に会えるんだ。
控えめに言って奇跡だ。俺は初めて、神様を信じたくなってきた。
***
ホームルームが終わり、いよいよ入学式という晴れ舞台に備えて浮足立った雰囲気の中、海生は静かに教室に入って来た。
「同じクラスだな、海生」
「……藤崎?」
俺が同じ高校に、ましてや同じクラスにいるなんて思わなかったのか。それとも、遅刻してきた自分に気づいた人間がいることに驚いたのか。
16歳の海生は、病院で再会したときよりもずっとあどけない、きょとんとした表情を浮かべる。
ああ、俺は本当に20年前に戻って来たんだ。もうこれがタイムリープでも、走馬灯でもどっちでもいい。
「入学初日から電車遅延なんてツイてないよな。自己紹介もう終わっちゃったぞ?」
「…それってツイてない?」
「え、だってクラスメイトの名前がわからなかったら困るし、海生のことだって」
「別に。特に話すこともないだろうし困らないと思う」
淡々と答える海生は予想以上にそっけなくて、俺は話を続けるべきか、この場を離れるべきか逡巡してしまう。すると横から、ぽんと肩をたたかれた。
「なあお前、藤崎だっけ。俺は田沢──」
「おぉっ、雄介!」
「え、あ、おぉ…」
田沢雄介。高校で一番最初に仲良くなって、同じサッカー部だったこともあり3年間つるんでいた。卒業後も交流は続いたけど、雄介が地方に転勤してから疎遠になっちゃったんだよなぁ。
でもそれは俺目線の話で、突然下の名前で呼ばれた雄介は見るからに戸惑っている。
「あ…ごめん。なんかその…昔の友達に似てて、勝手に親近感沸いた」
「なんだそれ(笑)まあいいけど。じゃあ俺も桜汰って呼んでいい?」
「おー、なんでも」
そんな話をしている間に、海生は入学式が行われる体育館のほうへ歩き出してしまった。
「桜汰、あいつのこと知ってんの?えっと、名前…」
「七森海生。地元が同じでさ、小中一緒だったんだ」
「へぇー、仲良いん?」
「…いや。あんま話したことないかも」
そうだ、落ち着け俺。
今は高校の入学初日で、俺と雄介は初対面だし、海生とは小中同じだけど友達ではないという微妙な関係だ。さっきの俺は、慣れない環境で知った顔を見つけて旧友ヅラしてしまった痛いヤツだ。恥ずかしすぎる。
海生に会えるという期待ではち切れんばかりに膨らんでいた胸が急速にしぼんでいく。
36歳の海生が俺と一緒にいてくれたのは、俺が余命僅かの末期癌患者だったからだ。
俺は何を期待していたんだろう?
***
2回目の入学式を終えると、だらだらと教室に残るクラスメイトたちに挨拶して、俺は学校を出た。
20年前は俺も残って友達作りに励んでいたけど、今は色んな意味でしんどい。とにかく家に帰って、ゆっくり休んでからこれからのことを考えよう。
──そう思ってた。ホームで同じ電車を待つ海生を見つけるまでは。
「…っ」
とっさに海生の死角になる位置で立ち止まった。なんとなく気まずいし電車を一本遅らせよう。もっとも、海生は二宮金次郎ばりに本に夢中になっているから必要がない気もするけれど。
『間もなく電車が参ります。白線の内側に下がってお待ちください』
ホームに電車が滑り込んでくる。
海生が本を鞄にしまおうとして、表紙が目に飛び込んできた。青い海の中でくっきりと浮かび上がる鮮やかな赤。長い触手を優雅に波に遊ばせるアカクラゲ。
「『クラゲの世界』…」
同時に、頭の奥で海生の声が聞こえた。
『古い本だけど、いいよね。表紙のアカクラゲが綺麗で』
夏の暑さとは無縁の白い病室で、海生と過ごした時間が蘇る。
ベッドの脇で穏やかに話す海生が、時々小さな子供みたいに瞳を輝かせたこと。
笑うと優しそうになるのは、今の海生も同じなのだろうか。
『ドアが閉まります。閉まるドアにご注意ください』
発車ベルと同時に、足が動いていた。
海生が乗り込んだ車両に身体を滑り込ませると、ほとんど同時にドアが閉まる。駆け込み乗車を咎めるアナウンスに、心の中で謝りながら車内を見渡すと──いた。
8割くらい埋まった座席に座り、海生はまた『クラゲの世界』を開いている。
「…綺麗な表紙だよな」
座席の前まで行って声をかけると、海生がゆっくりと顔をあげた。
心臓がドキドキしてる。落ち着け、今度は間違えない。
「…藤崎…?」
「なんだっけ、そのクラゲ。確か…アカクラゲ?」
「え、知ってるの?」
海生の意識が、海の世界から俺のほうへ向いたのがわかった。
掴みは成功だ。ありがとう『クラゲの世界』。
「うん。俺もその本、結構好き」
「藤崎が?意外だね」
「前にさ、海でクラゲに刺されたことがあって」
嘘ではない。俺の中では『前』の出来事だ。
今この時点では4年後の未来の話だけど。
「それで色々調べたらさ、結構面白いのな。クラゲってちぎれた触手でも触ったら刺すらしくって、すごくない?」
「…!うん、すごいよね」
その目を見たとき、海生の世界のドアが開いたのがわかった。
「刺胞動物っていうんだっけ?脳も心臓もないのに生きてるって、不思議だよな」
「海の生き物には多いよ。サンゴとかイソギンチャクとかも」
「え、あれ植物じゃないの?」
「うん。ちゃんとプランクトンを捕まえて食べてるからね」
話しながら、海生がドアを大きく開けていくのがわかる。
教室で話しかけた時とは別人のようだ。本当に極端なやつ。
海生が言った『特に話すこともない』というのは、決して『話したくない』という意味じゃないんだろう。むしろ、彼の興味を惹いてやまない世界のことを話し合える誰かを求めているんじゃないだろうか。
「…隣、座る?」
隣に座っていたOLらしき女性が電車を降りると、海生は俺が座れるように空間をひろげて座りなおした。
マジか。普段あんなにそっけないのに、自分の世界に入ってきた相手には懐くの早いとか、可愛すぎる。
「あ、うん。じゃあ」
座ってから、案外距離が近いことに気が付いた。
なぜか死ぬ前に海生に抱きとめられたことを思い出して、余計にそわそわしてしまう。
「…なんか藤崎、変」
「え!?どこが!?」
「今日はやたら話しかけてくるよね。どうしたの?」
よこしまな気持ちに気づかれたのかと焦ったけど、そういうことではないようだ。
色気づいた同級生たちのネタにされないように距離を置いていた中学時代を考えれば、当然の疑問だろう。俺にとっては20年前のことだけど、海生にとってはつい2週間前のことなんだから。
「いやたまたま、その本俺も好きだったから…」
「うん」
「…教室でも、知った顔見て嬉しくなったっていうか…」
今の俺と海生の関係でもおかしくない答えを選んだつもりなのに、この違和感はなんだろうか。なんかダメな気がする。海生は納得するかもしれないけど、なんか大事なことを伝えられてないような──
「…海生と、話したかったんだ」
──ああ、そうだ。最初からこれを言えばよかったんだ。
その場の空気や周囲の目を気にして、蓋をしてしまっていた気持ちを自由にさせてやれば、驚くほどすんなりと言葉が出てきた。
「…え、藤崎が俺と?」
海生は困惑を深める。気にならないといえば嘘になる、けど。
どうせ一度死んだ身だ、失うものなんてない。
「うん。俺、ずっと海生と仲良くなりたいって思ってたから」
だから病院で、お前のことを呼び止めた。
同じ本を読んで、海生が好きなものを知りたかった。
やっと少しだけ近づけたのに、もう終わりなんて絶対に嫌だ。
「…よくわかんない。なんで俺?」
「なんでって?」
「俺と仲良くなってもつまんないと思うよ。そもそも誰かと仲良くなったことないし」
「じゃあいいじゃん。俺が最初の友達ってことで」
「…変わってるね。藤崎みたいな人初めて見た」
海生はますます首をかしげる。俺は構わずに笑った。
同じ学校に通っていたというだけで、ずっと名前がなかった俺と海生の関係が、今この瞬間に少しだけ変わったんだ。これからもっと変わることだってできるかもしれない。
その可能性に気づいて、俺の胸は熱くなる。
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