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朝の光は、思っていたよりも静かに差し込んできた。白いカーテン越しの柔らかな光が、部屋の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせる。
ノワールは、すぐには目を開けなかった。
まぶたの裏で、光の気配だけを感じる。
規則的で、穏やかな呼吸音がすぐ隣から聞こえてくる。
(ステラは起きてるだろうか)
確かめたいのに、確かめるのが怖い。
夜中、どうやってここまで来たのか、記憶は曖昧だった。
ただ、気がついた時には、誰かの温もりがそばにあって、
それに縋るように眠りに落ちたことだけは覚えている。
ノワールは、そっと指先を動かした。
シーツの感触。
柔らかく、清潔で、ひどく現実的だ。
(……夢じゃ、ない)
その事実を確認しただけで、喉の奥が熱くなる。
でも声は出さない。
出し方が、わからない。
隣で、かすかに寝返りの気配がした。
シーツが擦れる音。
それだけで、心臓が跳ねる。
「……起きてる?」
小さく、控えめな声。
驚かせないように選ばれた音量。
ノワールは一瞬、息を止めてから、ゆっくりと頷いた。
声は出なかったけれど、それで十分だったらしい。
「そっか」
それ以上、何も聞かれない。
理由も、説明も、求められない。
その沈黙が、ありがたくて、少しだけ苦しい。
ステラはそんなノワールを見て微笑んだ。
そしてふわっと頭を撫で「おはよう」と囁いた。
その手は、重さを感じさせないほど軽かった。
指先が髪に触れ、すぐに離れる。
撫でる、というより、そこに「在る」ことを確かめるみたいに。
「……」
ノワールは、何も言えずに瞬きをした。
胸の奥で、何かが小さく跳ねる。
朝に「おはよう」と言われた記憶が、ほとんどない。
少なくとも、こんな声色では。
返事をしなければ、と思う。
でも、喉が動かない。
「無理しなくていいわ」
そう言って、ステラはそれ以上近づかなかった。
距離を詰めない選択が、ノワールにはよくわかる。
だから、少しだけ安心して、息を吐けた。
ベッドの中はまだ温かく、
外の世界が始まっている感じは、遠くにある。
ノワールは、天井を見つめたまま、ぽつりと口を開いた。
「……あさ、なんだ」
確認するような、独り言のような声。
「ええ。朝よ」
それだけ。
“もう起きなさい”も、
“そろそろ出ましょう”も、ない。
ノワールは、シーツの端を指でなぞる。
線を引くみたいに、何度も。
(……行かなくていい?)
その言葉が、喉の奥まで来て、止まる。
聞いてしまったら、答えが返ってきてしまう気がして。
ステラは、ノワールの小さな動きに気づきながらも、何も言わない。
ただ、同じ速度で呼吸を続けている。
709
沈黙が、怖くない。
ノワールは、そっと横を向いた。
視線の先に、ステラの横顔がある。
眠りから完全には覚めきっていない、柔らかな表情。
(……怒ってない)
当たり前のことを、何度も確かめる。
朝なのに。
何もしていないのに。
「……ここ」
小さな声が、こぼれた。
「ここ?」
聞き返されても、責める色はない。
「……ここ、まだ」
言葉が足りない。
それでも、伝えようとしているのはわかる。
ステラは一瞬だけ考えてから、静かに頷いた。
「いいわよ。まだ、ここにいましょ」
理由を聞かない。
条件もつけない。
その返事に、ノワールの胸の奥が、じんわりと緩んだ。
(……ほんとに)
本当に、急がなくていい。
本当に、出ていかなくていい。
ノワールは、再び目を閉じる。
眠るわけじゃない。
ただ、光から少しだけ逃げるため。
ステラは、何も言わず、隣にいる。
それだけで、十分だった。
ノワールは、閉じたまぶたの奥で、朝の気配を探る。
外の世界が動き出している音は、まだ聞こえない。
(……まだ、なにも始まってない)
そう思うだけで、胸の奥が少し軽くなる。
朝はいつも、始まりの合図だった。
起きろ。動け。役に立て。
何かを求められ、何かを試される時間。
でも今は、隣にいる人が、何も言わない。
ノワールは、そっと息を吸った。
胸が上下するのを、確かめるように。
(……ここでは)
まだ、何者にもならなくていい。
何かを返さなくても、許されている。
その感覚が、怖いくらいに新しい。
ステラの気配は、すぐそばにある。
触れない距離。
でも、離れてもいない距離。
見張られている感じはなくて、
放っておかれている感じでもない。
ただ、隣にいる。
それだけのことが、
こんなにも心を落ち着かせるなんて、ノワールは知らなかった。
「……」
何か言葉を探して、やめる。
言葉にした途端、壊れてしまいそうで。
ステラは、ノワールの沈黙をそのまま受け取っている。
急かさず、埋めようともせず。
窓の外で、小さく鳥の声がした。
ノワールは、ほんの少しだけ体の力を抜く。
肩が、わずかに下がる。
(……今日も)
今日も、ここにいていい。
それだけで、十分だと思えた。
再び、静かに目を閉じる。
今度は、逃げるためじゃない。
朝の光の中で、
ノワールは、確かに“守られている場所”にいた。
二人の時間は、まだベッドの上にあり、
外の世界は、もう少し先で待っている。