テラーノベル
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朝の光は、優しすぎる。カーテンの隙間から差し込む淡い白が、
ノワールの瞼の裏を透かしてくる。
起きてしまえば何かが始まってしまう、
そんな予感だけが先に立って、
身体が言うことをきかなかった。
ベッドの中はまだ安全だった。
毛布の重みも、シーツの温度も、
昨夜からほとんど変わっていない。
動かなければ、何も壊れない。
そう思っているのに、胸の奥がじわじわと焦れてくる。
「……出たくない」
思ったよりも弱い声が、部屋に落ちた。
わがままだと分かっていた。
朝は来るし、日常は待ってくれない。
それでも今日は、 床に足をつける勇気がどうしても湧かなかった。
少し間があって、ステラが笑った。
「いいよ」
拍子抜けするほど、あっさりとした声だった。叱られる準備をしていたノワールは、
肩の力が抜けるのを自覚して、戸惑う。
「でも、ご飯は食べよう?」
そう言って、ステラは手を差し出した。
命令ではない。引きずり出すでもない。
ただ、選択肢としてそこにある手。
ノワールはすぐには触れなかった。
指先が少し震えているのが、自分でも分かる。
拒んでもいい。
戻ってもいい。
そう分かっているからこそ、余計に迷った。
――それでも。
そっと、その手を取る。
思っていたより温かくて、強くは握られなかった。
キッチンに立つステラの背中を、
ノワールは少し離れたところから眺めていた。
鍋の音、食材を刻む規則正しいリズム。
生活の音が、部屋にゆっくりと満ちていく。
「ノワール、カトラリー並べてもらえる?」
名前を呼ばれて、はっとする。
「……うん」
短く返事をして、
引き出しからナイフとフォークを取り出す。
置く位置を何度も確認しながら、丁寧に、慎重に。
間違えないように。
怒られないように。
けれど、誰もそれを監視してはいなかった。
朝食は静かだった。
二人で向かい合って、同じものを食べる。
ただそれだけなのに、ノワールの胸は妙に落ち着かなかった。
食べ終わると、ステラが今日の予定を話し始める。
修道女としての務め。
訪問。
祈り。
変わらない一日の説明を、淡々と。
「……私はそんな感じ。ノワールは、今日はどうしたい?」
問われて、言葉が詰まる。
期待されているのか、いないのか、分からない問いだった。
「……休みたい」
勇気を振り絞るように言った。
主張、と呼ぶにはあまりに小さい声だったけれど。
「そっか。じゃあ、ゆっくりしてて」
それだけだった。
否定も、理由の追及もない。
安堵が先に来て、遅れて別の感情が滲む。
何も任されなかったこと。
役割を与えられなかったこと。
その事実が、胸の奥を静かに冷やした。
部屋に戻り、ベッドに腰を下ろす。
窓の外は相変わらず明るい。
世界はちゃんと動いているのに、自分だけが取り残されている気がした。
涙が少しだけ溢れた。
声を出すほどでもない。
ただ、無力さを確認するみたいに。
それでも、今日はまだ始まったばかりだ。
ベッドの上で、ノワールは天井ではなく、窓の外を見ていた。
空は青く、雲は薄く、世界は何事もない顔をして朝を進めている。
(……僕は、何もしてない)
泣いたあとの目は少し腫れているはずなのに、涙はもう出なかった。
悲しい、というより、空っぽだった。
役割がない。
やることがない。
誰かに必要とされていないわけではないと、頭ではわかっている。
ステラは拒まなかったし、責めもしなかった。
それでも――
「何もしなくていい」と言われることが、
こんなにも心細しいとは思わなかった。
ノワールは、指先でシーツをつまむ。
布の感触は朝と変わらないのに、自分だけが取り残されているような気がした。
コンコン、と控えめな音がした。
返事をする前に、扉の向こうから声が落ちてくる。
「ノワール。無理なら、返事しなくていいよ」
その言い方が、あまりにも優しくて、胸がぎゅっと縮んだ。
「……大丈夫」
小さな声だったけれど、ちゃんと出た。
扉が静かに開いて、ステラが顔を覗かせる。
「起きてたんだね」
「……うん」
ステラは部屋に入ってこなかった。
距離を詰めない。
でも、離れすぎもしない。
「これ」
そう言って差し出されたのは、温かい飲み物だった。
湯気が細く立ち上っている。
「全部終わったわけじゃないけど、ひと段落したから」
ノワールはゆっくりと体を起こし、カップを受け取った。
両手で包むと、じんわりと熱が伝わってくる。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
それだけ言って、ステラはほんの一瞬、視線を伏せた。
「さっきのことなんだけど」
その言葉に、ノワールの肩がわずかに強張る。
責められる準備を、無意識にしてしまった。
「休みたいって言えたの、悪いことじゃないと思う」
ノワールは返事ができなかった。
褒められている、と頭では理解できるのに、
胸の奥では別の感情が、ゆっくり渦を巻いている。
嬉しい、ではない。
でも、拒みたいわけでもない。
どう受け取ればいいのかが、わからなかった。
「……でもね」
ステラは、言葉を置く場所を探すみたいに、少しだけ間を空けた。
「今日は何もしない日でもいいけど、
ひとりきりで過ごさなきゃいけない日じゃないよ」
ノワールは、思わず顔を上げた。
その声が、あまりにも静かで、
逃げ道をちゃんと残した言い方だったから。
「私が戻るまで、ここにいてもいいし、眠ってもいい。
退屈だったら……聖堂にきてもいいよ」
約束というほど強くない。
指示でも、命令でもない。
それでもその言葉は、
胸の奥で固まっていたものを、少しずつ、ほどいていく。
「……待ってるだけでも、いいの?」
自分でも驚くほど、小さな声だった。
「うん」
即答だった。
ためらいも、条件もない。
ただ、そこにいていい、と言うみたいに。
「来なくてもいいし、来てもいい。
ノワールが選んで」
ステラはそれだけ言って、扉に手をかけた。
「夕方には戻るから。
お茶、いれよう」
扉が閉まる音は、やけに静かだった。
ノワールは、しばらくその場から動けずにいた。
窓の外には、さっきと同じ光、同じ空。
でも胸の中には、
待つという選択肢と、
行ってもいい場所が、並んで置かれている。
(今日は、何かをしなくてもいい)
(でも、誰かの輪郭は、消えてない)
そう思えたことが、
ノワールが初めて手に入れた安心だった。
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