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Side佐久間
俺の名前は佐久間。
人魚族の末っ子で、自由気ままがモットー。
……なんだけど、ここ最近はちょっとだけ、“禁じられたこと”に夢中になってる。
――それは、“地上”のこと。
海の底は静かで美しくて、確かに悪くはない。
けど、俺の心はいつも、もっと上、もっと向こうを見てる。
水面を越えたその先には、空っていう果てのない青があって、光がぽかぽかしてて、
布っていうもので体を隠して、足で歩く生き物たちがいるらしい。
それが「人間」。そして俺が、会ってみたいと思ってる存在。
「さっくーん! また変なもん拾ってきたんか!」
賑やかな声が背後から聞こえてきて、俺はくるりと振り返った。
「変なもんじゃないってば、康二兄。これは“くつ”っていうんだってさ! たぶん人間の足に履くやつ!」
俺はニコニコしながら、砂の中から拾った片方だけの靴をひょいっと持ち上げて見せた。
「はー……まったく、さっくんは昔から人間に憧れすぎやで。父さんに見つかったら怒鳴られるで?」
康二兄は呆れたように言いながらも、ちゃんと興味津々で近づいてきて、俺の手元をじろじろ覗いてくる。
「俺、人間になりたいわけじゃないよ? ちょっと……ちょっとだけ、見てみたいだけ!」
そう言って笑った俺の声に、さらに低く、冷ややかな声が重なる。
「“ちょっとだけ”でも、禁じられているのは知っているだろう、佐久間君」
振り向けば、影のようにぬるりと現れたのは長兄・目黒。通称蓮兄。
蓮兄は昔から変わらない。冷静で真面目で、いっつも厳しい顔してる。けど本当は、俺たち弟のことちゃんと見てくれてるのも知ってる。
「俺、ちゃんと気をつけてるよ! まだ地上行ったことないし。水面のちょい下ぐらいまで、ね!」
得意げにピースをしてみせたら、目黒兄のため息が聞こえた。
「……それを“気をつけてる”とは言わないよ」
俺はまた笑った。だって、本気なんだ。
光が揺れるあの場所のことを、夢見てるんだ。
いつか、見てみたい。
触れてみたい。
人間の世界に、ほんのちょっとだけでいいから、俺のこの手を伸ばしてみたい。
「ねえ、康二兄、蓮兄――もし人間と話せたら、どんなこと聞く?」
ぽつりと問いかけた俺に、ふたりの兄はそろって顔をしかめた。
……でも、誰も「無理だ」なんて言わなかった。
それが嬉しくて、俺はまた少しだけ、夢を見た。
――――――――その日は、なんだか変だった。
康二兄の声も聞こえない。
蓮兄の視線も感じない。
いつもは誰かがいて、何かしらの音がするこの海の城が、今日はやけに静かだった。
「……あれ、もしかして、チャンス?」
俺はそっと部屋を抜け出した。
背びれが水を切る音すら、いつもより控えめに感じるくらい、空気が張りつめてる。
……いや、海の中だから“水気”か。どっちでもいいけど。
心臓が、どくんと鳴った。
バレたら怒られる。蓮兄は絶対に許してくれない。
けど──それでも。
俺は、行ってみたかったんだ。
あの光の向こう。
水面より上の、まだ誰も見たことない世界。
「……ちょっとだけ。ほんのちょっと、ね?」
自分に言い訳するみたいにそう呟いて、俺は尾ひれをぐん、と蹴った。
珊瑚礁を超えて、潮の流れに乗って、ただただ上を目指して泳ぐ。
水の色が少しずつ変わっていく。
濃い藍色から、群青へ、そして――光の射す、碧。
「……わ、すっげ……」
水面近くに来たのなんて、生まれて初めて。
水の中でさえ、こんなに明るいなんて思わなかった。
キラキラした泡が、光をまとって浮かんでいく。
空が、水の天井みたいにゆらゆら揺れてる。
手を伸ばせば、届きそうだった。
でも、それを破ってしまうことが怖くて、しばらくそのまま、ただ見ていた。
「蓮兄が言ってたな……“あそこは人魚が行っていい場所じゃない”って」
分かってるよ。
でも、見てるだけなら、いいでしょ?
光が、風みたいに水を揺らしてくる。
心がざわざわする。
地上の空気って、どんなふうに胸をざわつかせるんだろうか。
俺は、そっと目を閉じて、耳を澄ませた。
水面まであと少し。
その一線を越えてしまったら、もう戻れないような気がしていた。
けど――
そのとき、ふいに風が吹いた。
いや、正確には、水の上から風が“降りてきた”みたいだった。
やわらかくて、冷たくて、まるで誰かの手がそっと髪を撫でていくような感覚。
その感触に、俺の胸の奥が、ふるっと震えた。
「…………行ってみよう」
そう、小さく呟いたときには、もう尾ひれをぐんと蹴っていた。
水面を、突き破る。
そして――
世界が、開いた。
「……っ、わ……あぁ……」
言葉なんて、出なかった。
出そうになったのに、どこかで全部こぼれて、音にならなかった。
空があった。
果てしなく広がる、大きな、大きな、空。
俺が生まれてからずっと見上げていた“あの揺れる天井”は、天井なんかじゃなかったんだ。
それは空のほんの一部でしかなかった。
青かった。
吸い込まれるような青。
海の青とは違って、もっと乾いていて、どこまでも遠くて、静かに澄んでいた。
雲があった。
ふわふわと浮かぶ白いかたまりが、空をゆっくり流れていく。
まるで巨大な魚が、空の海を泳いでいるみたいだった。
風が吹いた。
潮とは違う匂いがした。
少しだけ草の匂いが混ざったような、あたたかくて懐かしいような、不思議な匂いだった。
俺は水面にぷかりと浮かんだまま、ただ、見上げていた。
地上のすべてが神様のつくった奇跡みたいで、胸がぎゅっとなった。
「……こんな世界が、あったんだ……」
ぽつりと呟いた声が、海に溶けて消えていく。
この空の下で、たくさんの人間たちが生きてるんだろうか。
笑って、泣いて、誰かと手をつないで、日々を過ごしてるんだろうか。
会ってみたい。
話してみたい。
――触れてみたい。
そう思った瞬間、俺の胸に“なにか”が宿った気がした。
それは、まるで泡のように儚いのに、確かに熱を持った、ひと粒の願いだった。
見上げた空が、あまりにも綺麗すぎて。
触れられそうなのに触れられない、あの雲が愛おしすぎて。
胸の奥から、なにかがこぼれ出しそうになった。
言葉じゃ足りない。
この気持ちをぜんぶ伝えるには、もっと違う形がほしかった。
それが、歌だった。
「──ら、ら……♪」
最初は小さな音だった。
指先で水面をなぞるような、かすかなメロディ。
けれど、ひとたび声に乗せれば、それは確かに“生きた”。
俺の喉から生まれた音が、風に溶けて、空に昇っていく。
「……らぁ~~……♪ ふ、ふふ……あはっ……♪」
歌は止まらなかった。
笑い声と一緒に、溢れるように次の音が生まれる。
それは言葉にならない想いのすべてだった。
“ありがとう”でも“感動した”でも足りない。
もっと深くて、もっとひらけた、俺だけのことば。
歌声は、風に乗って、海の上を滑っていく。
水面がほわり、と揺れた。
月のない昼の海。
けれど、水面にはきらきらと光の粒が浮かんでいた。
それはまるで、俺の声に応えるみたいに、光の精霊が踊っているようだった。
海が、共鳴していた。
水面がやさしく震えるたびに、泡が浮かび、音の粒が波紋となって広がっていく。
まるで世界が、俺の歌にそっと耳を傾けているようだった。
「──ぁあ……あぁあぁぁ~~♪」
声は高く、まっすぐ空へ。
空と海の境界が消えていく感覚。
俺という存在が、いま、この広い世界に溶けていくような、そんな夢みたいな時間だった。
息が切れるまで、俺は歌い続けた。
―――――――――――
Side阿部
その日、風は穏やかで、海は静かだった。
船の帆は緩やかにたわみ、波は一定のリズムで船体を撫でていた。
特に急ぐ航海でもなく、誰もが気を抜いたように甲板を行き来し、従者たちは笑いを交えながら次の寄港の話をしていた。
けれど、俺だけは違った。
「……今の、聞こえたか?」
ふいに問いかけた声に、近くにいた従者の青年がきょとんとした顔を向けてきた。
「何を、でございますか? ……波の音なら、いつも通りかと」
「いや、違う。……“声”が、聴こえた」
自分でも妙なことを言っているのはわかっていた。
けれど、それは確かに“声”だった。
風の流れに乗って、どこか遠くから届いた、澄んだ、高い……それでいて、どこか切ないような。
それはただの歌ではなかった。
まるで、心の奥底を、やわらかく撫でてくるような音だった。
言葉の意味はないのに、何かを語っているような気がした。
「船を止める必要はない。ただ……少し静かにしてくれ」
俺は立ち上がり、甲板の端へと歩み寄る。
手すりに手をかけ、海をじっと見つめる。
空と海のあいだ、どこかに、あの歌の主がいる。
そんな根拠のない確信が、胸の奥にあった。
「……なぜ、俺にだけ聴こえる?」
不思議だった。
この船には十人以上の者がいる。耳のいい者も、音楽に詳しい者も。
けれど誰も、この声を感じていない。
それなのに、俺の耳だけが――いや、心だけが――確かにその旋律をとらえていた。
……これは、偶然ではない。
風が気まぐれに運んできた歌ではない。
呼ばれている。
そんなふうにすら、思った。
「……誰なんだろう」
空を仰ぐ。
風は変わらず穏やかで、空は眩しいほどに青い。
けれど俺の胸の中では、何かが、ひっそりと芽吹いていた。
風の向きが、変わった。
ほんの少し前まであれほど穏やかだった海が、まるで不機嫌に唸るような気配を纏っている。
「……殿下!」
慌ただしい足音とともに、従者の一人が駆け寄ってきた。
その表情には、明らかな焦りと警戒が走っている。
「西から嵐が近づいております! すでに黒雲が──おそらく、まもなく……!」
「全帆を畳め。舵を固定しろ。人員を甲板から下げさせて、備えを万全に」
即座に指示を出す。
俺の声に従い、船員たちは散っていく。
風が強まってきている。雲の色もおかしい。
……だが、まだ間に合う。冷静に、的確に動けば、この船を守れるはずだ。
それでも──心のどこかで、あの歌声の残響がまだ微かに揺れていた。
(なぜ、今このタイミングで……)
そんな思考が、一瞬の隙を生んだ。
強く吹き上がった突風が、船の帆をたわませ、マストのロープがばさりと俺の肩に絡みついた。
「っ……しま──」
気づいた時にはもう遅かった。
体が、空へと引き上げられ、次の瞬間には逆に、重力に引かれるように傾いた。
視界がぐるりと反転する。
風の音が耳を裂く。
叫び声が遠ざかっていく。
そして――
ドボンッ!!!
冷たい衝撃が全身を包んだ。
海だった。
すぐに気づく。服が水を含み、重く、まとわりつく。
船の明かりが水面の向こうで揺れている。
上へ行かなければ。息が、苦しい。
(落ちた……俺が、落ちた……?)
指揮どころか、嵐の前に──俺は、船から落ちたのだ。
──苦しい。
水が、肺に迫ってくる。
手足が重い。もがこうとしても、思うように動かない。
意識が、徐々に遠のいていく。
(……俺は……ここで……)
そんなときだった。
視界の端に、ふわりと、光が舞った。
泡だった。
けれどそれは、ただの泡じゃない。
月の光もないはずなのに、まるで星みたいに瞬いていた。
やさしく、包むように、俺のまわりをくるくると漂う。
……そして、その中にいた。
──誰かが。
水の中にあって、ゆれる髪。
目も鼻も口も、はっきりとは見えない。
でもその存在は、たしかに“ここにいる”と、体が感じていた。
(……誰……だ)
思うより先に、問いが心の奥で泡になった。
その“誰か”は、俺の顔をのぞきこむように近づいてくる。
……少年のようだった。いや、青年かもしれない。
髪は光を含んでふわりと揺れて、瞳は海より深く、でも温かかった。
口が、何かを言った気がする。
けれど、音は聴こえない。
ただその表情だけが、どこか懐かしく、切なかった。
その“彼”が、俺に手を伸ばす。
すぐそこにあるはずなのに、まるで光の幻のように、すり抜けていく。
触れたい。
その存在が誰なのか、知りたい。
けれど、俺の手はもう動かない。
意識が、沈む。
視界が、暗くなる。
最後に感じたのは、頬に触れるような、あたたかくて柔らかい水の感触。
まるで──誰かが、泣きながら、俺を呼んだような──
──そこで、俺は、意識を手放した。
―――――――――――
Side佐久間
歌っているときの俺は、だいたい無敵だ。
頭の中は真っ白で、心は透き通って、世界の全部とひとつになったような気分になる。
しかし…
「……え?」
水面の向こうに見えたのは、大きな船。
青い帆。白い船体。豪華で立派な、王族が乗ってそうな……そんなやつ。
その船から、何かが、落ちた。
いや、**“誰か”**だった。
ばしゃり、と大きな音。
空気の泡が弾け、波が立つ。
揺れる水面のその先、沈んでいく影が見えた。
「……人? お、おいおいおい……っ!」
体が勝手に動いていた。
考えるより先に、尾ひれを強く蹴っていた。
俺は、泳ぐのが速い。
自慢じゃないけど、兄たちにも負けたことない。
だけどそのときの俺は、記録とか関係なしに、とにかく“間に合え”って祈りながら泳いでいた。
沈んでいく人影が、徐々に近づく。
……男の人だった。
まだ若い。でも、立派な服を着ていて、きっと偉い人。
そして、とても綺麗だった。
髪が水に揺れて、目は閉じられたまま。
呼吸の泡も出ていない。
このままだと、間違いなく──
「っ……!」
俺は迷わず、彼の体に腕を回す。
驚くほど軽い。いや、そう思いたかっただけかもしれない。
胸元に耳を当てる。かすかに、鼓動があった。
よかった──まだ、間に合う。
「大丈夫、助けるから……!」
返事はない。
でも俺は、そう言わずにはいられなかった。
ゆらりと水を蹴って、彼を腕に抱えたまま、水面へと向かう。
―――――腕の中の人は、ぐったりとしていた。
それでも、俺の心臓の方がうるさいんじゃないかってくらい、どくどく鳴っていた。
なんとか海面に顔を出させて、浅瀬まで運ぶ。
潮の満ち引きのリズムを読んで、波に乗せながら、一気に岸へ。
ざばぁ……っと水音が響いて、砂の上にその身体をそっと横たえる。
息は……息、してる?
「……っ、あ……よかった……!」
耳をすませば、かすかに聞こえる呼吸の音。
胸が、わずかに上下している。
ほんの数秒だったけど、俺には永遠に思えた。
「大丈夫……息してる……よかった……!」
張りつめていたものがふっとほどけて、全身が力を抜いたみたいに重くなる。
けど、安心したのも束の間だった。
目の前で、静かに寝息を立てているその人──
……綺麗だった。
水で濡れた髪が額に貼りついていて、まつ毛が長くて、横顔のラインがすごく整ってて。
まるで、絵本の中に出てくる王子様そのまんまみたいだった。
「……この人……」
知らない人のはずなのに、なぜか目が離せなかった。
俺が歌ったとき、水面が揺れたとき──
あの船の上で、この人は、俺の声を聴いてたんじゃないか。そんな気がした。
「誰なんだろ……」
触れてしまいそうになる。
けど、濡れた指先が頬にかかる前に、俺は手を止めた。
これは人間。
俺とは違う世界の生き物。
声をかけることも、名を聞くことも、できない。
でも今だけは、そばにいさせてほしい。
せめて、もう少しだけ。
そう思いながら、俺は黙ってその人を見つめ続けた。
静かな時間が、ほんの少しだけ続いた。
波が砂をさらう音と、彼の呼吸だけが世界にあった。
俺は、ただ見ていた。
知らない人間の、柔らかな寝顔を。
助けたはずなのに、なぜかこっちが救われたような気さえした。
──そのとき。
「殿下ーっ!!」
「おい、火を──明かりを持て!」
遠くから声がした。
船の方角。
慌ただしく飛び交う足音。
人間たちが、彼を探しているんだ。
「……!」
俺は、そっと身を引いた。
砂の上に残る自分の尾ひれの痕跡が、波にさらわれていく。
振り返れば、まだ彼は目を覚ましていなかった。
名を呼ばれる声も、届いていない。
けれど、もう俺がここにいるべきじゃないのはわかっていた。
海へと戻る。
音を立てずに、静かに、泡のように。
「……美しい……人だったな……」
胸の中で、誰にも聞こえない声でつぶやいた。
それは感想であり、溜息であり、祈りのようでもあった。
振り向かずに、海へ沈む。
背中に陽がない。
でも、心は不思議とあたたかかった。
そして、俺は再び、海の中の住人へと戻った。
――――――――――
Side阿部
瞼を開けると、見慣れた天蓋があった。
船の寝室、揺れるベッド、白い天井布。
静かな波音が遠くに聞こえていた。
(……俺は……)
意識がふわりと浮いて、記憶がゆっくりと繋がっていく。
「……殿下、ご気分はいかがですか」
声がした。
顔を向ければ、従者が控えていた。緊張した表情で、安心と心配の入り混じったような声。
「……俺は……どうなったんだ」
自分の声が少しだけ掠れていた。
それでも、はっきりと訊ねた。
「嵐の直前、甲板から転落され……岸辺に、おひとりで倒れているのを発見いたしました。幸い、怪我はなく……本当に、奇跡でした」
「岸辺に……?」
目を閉じれば、あの瞬間が浮かんだ。
風がうねり、視界がひっくり返り、そして海へ。
冷たさ。苦しさ。沈んでいく感覚。
──そのはずだった。
「……あのとき……」
誰かがいた。
海の底で、確かに誰かに抱きしめられた。
やわらかくて、あたたかくて、まるで自分が海に溶けていくような感覚。
そして、歌。
風に乗って、耳に届いた、澄んだ声。
声というより、願いのような。光のような。
「……助けられた、んだな。……あの歌と、誰かに」
ぽつりと呟いた言葉に、従者は首をかしげた。
「歌……でございますか? ……殿下、落水の際に……水中で何かご覧になったのですか?」
ふと、窓の外を見た。
海は今や穏やかで、空も晴れていた。
「いや……ただの夢かもしれない。けど……」
夢にしては、あまりにやさしかった。
歌声も、あの瞳も。
忘れるには、あまりに深く刻まれていた。
「……ありがとう、と伝えたいな」
誰に、という言葉は呑みこんだ。
それを口にしてしまったら、もう二度と会えない気がしたから。
――――――――――
Side佐久間
あの日から、何度目の朝だろう。
太陽が昇るたび、気がつけば俺の尾ひれは、あの岸辺へ向かっていた。
「別に……会いたいとか、そういうのじゃないし……!」
声に出しても、自分の心はごまかせない。
本当は、会いたい。
名前も知らない“あの人”に、もう一度だけ。
でも、人魚の姿を見られたら大変だ。
父にも、蓮兄にも、絶対に禁じられている。
人間に見つかったらどうなるかなんて、想像したくもない。
だから、俺はいつも岩陰に隠れながら、岸辺を見上げている。
今日も、彼は来ていた。
──あの人が。
ゆったりとした動きで砂浜を歩いている。
白いシャツの裾を風になびかせて、時折、海に視線を落とす。
(……俺を探してくれてる…とかあるかな?)
そんなふうに勝手に思ってしまう自分が、ちょっとだけ恥ずかしい。
でも、彼の目が少しでも海を見つめてくれると、胸の奥がふっとあたたかくなる。
声をかけたい。
「俺が助けたんだよ」って、言いたい。
だけど、できない。
だって俺は、海の生き物だ。
「……近づいたら、ダメなんだよね」
岩に身を寄せながら、さざ波の音にまぎれてそっとつぶやいた。
彼の姿を、目に焼きつける。
優しい表情も、空を見上げる癖も、歩きながら時折振り返る仕草も、全部、全部。
人間は忘れる生き物だと、蓮兄は言っていた。
けど、俺は忘れたくない。
そして、できるなら──彼にも、忘れてほしくない。
俺という存在が、夢の中で見た幻じゃないって、いつか思い出してくれたらいい。
そんな想いを、海の泡に乗せて、今日もまた、彼を見つめていた。
――――――――その日も、いつもと同じだった。
朝日が海を照らす頃、俺は岩陰からひょっこり顔を出して、いつもの場所に目をやった。
岸辺には、白いシャツがふわりと揺れている。
「あ、来てる……今日も」
それだけで、胸の奥がふわっと軽くなる。
今日も見られる。あの人の姿。
それだけで、なんだか“ちゃんと世界が回ってる”気がした。
けれど──
今日は、違った。
彼の隣には、女の人がいた。
優しげな顔をして、彼に笑いかけていた。
彼も、笑い返していた。
ふたりの距離は、近かった。
歩幅もぴったり合っていて、まるで何度も並んで歩いたことがあるみたいだった。
楽しそうだった。
俺の知らない顔だった。
「……あ……」
喉の奥から、何かがこぼれそうになった。
でも、それが何の感情なのかも、まだうまく分からなかった。
ただ、体が勝手に反応した。
逃げるように、深く潜った。
尾ひれを強く振って、海の奥へ、奥へ。
光の届かない、珊瑚も眠る静かな場所へ。
何も考えたくなかった。
波の音も、潮の香りも、全部がうるさく感じた。
「ああ、やだ……やだ……やだ……」
何を“やだ”と思っているのか、口にするのが怖かった。
別に、自分が彼の隣に立ちたかったわけじゃない。
別に、特別な言葉をかけてほしかったわけじゃない。
ただ──
ただ、あの人の笑顔が、自分の見ていないところで誰かに向いていたことが、
思っていたよりずっと、胸を締めつけた。
「気づきたく、なかったのに……」
泡のように浮かび上がる想いを、ぎゅっと抱えて、俺は目を閉じた。
海は静かだった。
もう見たくない。
笑い合う声も、重なる影も、全部、胸に刺さった。
俺はただ、深く、深く、海の底へと潜った。
光の届かない場所まで。
冷たさだけが、心をなだめてくれた。
──これ以上、好きになんてなりたくなかった。
続きはnoteで作者名『木結』(雪だるまのアイコン)で検索して下さい。
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