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#フライギ
にもあえ
229
葉菜
26
その時ようやく千代は、自分が守りたいと思っている相手は、ずっと前から自分を守り続けてくれていたのだと痛いほど理解していた。
谷を吹き抜ける風が止まる。
いや、止まったように感じただけなのかもしれない。
大和と護衛は互いに間合いを崩さないまま静かに向かい合い、黒い靄と鋼の刃が僅かに揺れるだけで誰一人として不用意に踏み込もうとはしない。
実力を測っている。
それは相手も同じだった。
護衛の男は吹き飛ばされた仲間へ一瞬だけ視線を向けたあと、何事もなかったかのように再び大和へ剣先を向ける。
感情が見えない。
怒りも焦りもない。
任務だけを遂行するために立っているような、人間離れした静けさだった。
俺はその様子を見ながら、もう一人の存在へ視線を移す。
黒い外套。
深く被られた頭巾。
谷へ姿を現してから一度も口を開かず、ただこちらを観察し続けていたあの男である。
不思議だった。
護衛同士が戦闘態勢へ入っているというのに、その男だけは一歩も動かない。
逃げようともしない。
指示を出す様子もない。
まるで、この状況すら予定通りだと言わんばかりに静かに立っているだけだった。
「予紬さん」
しゆらが小さく呼ぶ。
その声につられてもう一度男へ目を向けた瞬間、背筋へ冷たいものが走った。
男がこちらを見ている。
距離はある。
顔など見えるはずもない。
それでも目だけが合ったような錯覚では済まされない感覚があった。
見られている。
観察されている。
そんな得体の知れない圧迫感だった。
「何だ……あれは」
思わず呟く。
その声が聞こえた訳ではないだろう。
それなのに男はゆっくりと片手を持ち上げる。
攻撃ではない。
術式を組む訳でもない。
ただ指先を軽く開き、空中を一度だけ撫でるように動かした。
その瞬間だった。
男の足元から黒とも紫ともつかない靄が音もなく広がる。
魔力ではない。
少なくとも俺が知る魔力の流れではなかった。
周囲の景色そのものが僅かに歪む。
陽炎にも似ている。
だが熱ではない。
空間が布のように波打ち、その中心へ男の姿がゆっくりと溶け込んでいく。
「消えるぞ!」
榊の叫びと同時に大和が地面を蹴る。
黒い靄を纏った身体が一直線に男へ迫る。
間に合う。
誰もがそう思った。
あと一歩。
本当にあと一歩だった。
大和の指先が外套へ届こうとした瞬間、男の身体は水面へ石を落としたように揺らぎ、そのまま跡形もなく消え失せる。
残ったのは静かに揺れる木々だけだった。
「……馬鹿な」
思わず声が漏れる。
転移ではない。
高速移動でもない。
少なくとも煌魔学にあのような術式は存在しない。
研究所で保管されていた文献にも見覚えはなかった。
大和もその場へ着地したまま僅かに眉をひそめる。
初めてだった。
あの男が相手へ届かなかったのは。
男の姿が消えたことを確認すると、護衛達はそれ以上戦う意思を見せなかった。
互いに短く視線を交わしただけで一斉に後退を始め、倒れていた仲間まで無理やり担ぎ上げると、統率の取れた動きで森の奥へ姿を消していく。
追おうと思えば追えた。
だが大和は右手を軽く上げ、それだけで全員の足を止めた。
「深追いはするな」
短い命令だった。
誰も逆らわない。
あの男が姿を消した場所を見つめながら、俺は胸の奥に残る違和感を拭えずにいた。
あれは人間ではない。
半魔でもない。
ましてや魔獣でもない。
今まで知ってきたどの存在にも当てはまらない何かが、人間軍のすぐ傍で当たり前のように動いている。
その事実だけが、これまで積み重ねてきた常識を静かに崩し始めていた。
その時、不意に岩陰から小さな石が転がり落ちる。
乾いた音が谷へ響いた。
誰かが動いた訳ではない。
護衛の男が僅かに視線を逸らしただけだった。
それでも十分だった。
大和の姿が消える。
否。
速過ぎて消えたように見えただけだった。
黒い靄が一筋の線となって谷を駆け抜け、地面を抉りながら一直線に黒衣の人物へ迫る。
先程までの静かな構えとはまるで違う。
一歩目から全力だった。
千代が傷付けられた。
その事実だけが、普段なら決して感情を表へ出さない大和の均衡を崩していた。
護衛の一人が割って入る。
間に合わない。
そう判断したのか、もう一人も同時に剣を振り抜く。
大和は止まらない。
黒い靄が腕へ収束した瞬間、二本の剣がまとめて弾き飛ばされる。
金属同士がぶつかる轟音が谷へ響き、護衛達の身体が左右へ吹き飛ぶ。
岩壁へ叩き付けられた衝撃で砕けた石片が雨のように降り注ぐ。
それでも大和は視線すら向けない。
狙いは最初から一人だけだった。
黒衣の人物まで残り数歩。
外套が風に揺れる。
フードの奥は相変わらず暗く、顔は見えない。
「終わりじゃ」
誰へ向けた言葉でもなかった。
静かな声だった。
それなのに谷の空気が震える。
黒い靄が一気に膨れ上がり、大和の拳が外套ごと相手の胸部を貫いた。
鈍い音が響く。
手応えはあった。
確かに何かを貫いた感触だった。
ところが次の瞬間、大和の表情が僅かに変わる。
違う。
生き物ではない。
拳を引き抜く。
黒い布が裂け、その奥から崩れ落ちたのは肉でも骨でもなかった。
乾いた木片。
複雑に組まれた金属の骨格。
内部へ刻まれた見覚えのない紋様。
人間大の人形だった。
「……何だこれは」
思わず声が漏れる。
護衛達も既に立ち上がっていたが、人形が破壊されたことへ動揺した様子は一切ない。
むしろ当然の結果だと言わんばかりに距離を取り始める。
大和も人形の残骸を見下ろしたまま動かない。
拳へ付着した黒い木屑が風に乗って散っていく。
俺は急いで近付き、崩れた内部を覗き込んだ。
木材だけではない。
金属。
魔鉱石。
細い管。
そして中心部には親指ほどの黒い結晶が埋め込まれている。
「……自律式か」
無意識に呟く。
研究所でも似た発想はあった。
危険地帯へ人を送らず、人形へ命令を与えて行動させる。
だが最後まで実現できなかった。
演算能力が足りない。
魔力消費が大き過ぎる。
何より制御できない。
だから机上の理論で終わった。
目の前には、その理論を形にしたような存在が転がっている。
「予紬さん」
しゆらも隣へ来る。
人形を見た瞬間、小さく息を呑んだ。
「これ……動いていたんですよね」
「ああ」
俺は頷く。
「しかも遠隔か、自律かも分からない」
内部の紋様へ指を伸ばそうとした、その時だった。
黒い結晶へ細かな亀裂が走る。
嫌な予感がした。
「離れろ!」
叫ぶのとほぼ同時に、大和が俺としゆらの腕を掴み、強引に後方へ引き寄せる。
次の瞬間、人形の内部から眩い光が溢れ、凄まじい衝撃と共に残骸そのものが爆散した。
爆風が谷を駆け抜け、木々を大きく揺らす。
破片はほとんど残らない。
証拠を消すために最初から仕込まれていたのだろう。
土煙が晴れた頃には、そこに残っていたのは黒く焼け焦げた地面だけだった。
俺はその光景を見つめたまま拳を握り締める。
研究所でも完成しなかった技術。
見たことのない紋様。
証拠を残さない自壊機構。
人間軍の背後にいる何者かは、俺が想像していたより遥か先を歩いているのかもしれない。
その考えだけが、谷を吹き抜ける冷たい風よりも深く胸へ突き刺さっていた。
コメント
1件
大和さんの均衡が崩れた瞬間、本当に心臓が跳ねました。あの「千代が傷付けられた」という一文だけで、普段は絶対に感情を見せない人が全力で動く——その切実さに胸が熱くなりました。それに、あの人形の自壊機構…研究所でも完成しなかった技術が既に実用化されている、その事実の重さがひしひしと伝わってきます。黒衣の男の正体も含めて、続きが気になって仕方ないです。素晴らしいお話をありがとうございます。