ジムを出て、扉に鍵をかけながら岩崎さんは言った。
「今日はこれで終わりになります。お疲れ様でした」
「どうもありがとうございました」
そのとき、ふと思った。
「もしかして岩崎さん、今日、お休みの日だったんじゃないんですか?」
「いえ、休館というのは店舗部分だけです。私たち事務スタッフは基本的に土日が休日なので、今日は出勤日ですよ」
わたしはほっと息をついた。
「それならよかったです。わたしのために休日返上されたのだったら、申し訳ないと思って」
「いいえ。それにもしそうだとしても、そんなお気遣いはいらないのに。今回の件はこちらから加藤さんにお願いしていることですし」
そう言いながらも、岩崎さんはにっこり微笑んでくれた。
「加藤さんが優しくていい人で良かったです」
「こちらこそ、ご担当が岩崎さんで本当に良かったと思ってました」
わたしたちは何、褒め合っているんでしょうね、と言いながら、顔を見合わせて、ふふっと笑いあった。
「苗字で呼び合うのも、なんだか堅苦しいですよね。えーと、優紀さんって呼んでもいいですか?」
「もちろん、岩崎さんは」
「|律《りつ》っていいます。男みたいでしょう」
「いいえ、とっても素敵な名前。じゃあ、律さんでいいですか」
彼女は、はいと元気に答えた。
「優紀さんのお宅は、道を渡ったところの一本裏にある本屋さんですよね」
「はい。祖母とふたりで細々と営んでます」
「わたし、あそこの商店街の『アンジェ』によく行くんです。レトロで可愛いでしょう、あそこ。今度、本、買いに行きますね」
「わあ、ぜひ」
律さんとはエレベーターの前で別れて、わたしは従業員口に向かった。
「ありがとうございました」と警備員さんに挨拶をして、出て行こうとドアに向かったそのとき、後ろから「優ちゃん」と声をかけられた。
見ると、玲伊さんが「終わった?」と言いながらこちらに向かって歩いてきていた。
「あ、玲伊さん。お客さまはお帰りになったんですか」
「いや、今、カラー中で、時間を置いているところ。すぐ戻らないといけないんだけどね」
「わざわざ降りてきてくれたんですか?」
「うん、今日の夜、時間があるかどうか訊こうと思って」
「今日の夜ですか?」
「一緒に食事したいんだけど」
えっ? 食事? 一緒に?
でも……
ふと、さっきのエレベーターでの会話を思い出し、少しの間ためらっていると、玲伊さんは付け加えた。
「ほら、これからしばらくの間、好きなもの食べられなくなるだろう。だから、今日はカロリーを気にせず、思いっきり食べてもらおうと思って」
玲伊さん。
なんで、わたしなんかに、そんなに優しくしてくれるんだろう。
でも、そういえば小学生のころから、彼は優しさの権化みたいな人だった。
兄がわたしを邪険にすると、いつも|庇《かば》って遊んでくれた。
やっぱり、彼の中のわたしは、きっとあの頃の小さな女の子のままなんだ。
だから、落ち込んだわたしをほっておけないのだろう。
《優ちゃんは俺にとっても大事な妹みたいなものだから》
はじめてシンデレラ・プロジェクトのモデルをしてほしいと言われたときの玲伊さんの言葉が、頭のなかによみがえってきた。
そうだ。彼はあくまでわたしを妹として見ているのだ。
じゃあ、わたしも、玲伊さんをもう一人の兄と思えばいい。
律さんだって、幼なじみというだけで、あんなに羨ましがってくれていたのだ。
玲伊さんの〈妹ポジション〉
うん。もうおつりがくるぐらい、ありがたいことだ。
「行きます……行きたいです」
ようやく答えたわたしに、玲伊さんは嬉しそうに口角を上げた。
「よし。夕方、迎えに行くよ。お店、何時で閉めるんだっけ?」
「7時です」
「じゃあ、そのころに」
わーっ。
叫び出したいような、そんな気持ちを抱えたまま、わたしは自分の店に戻った。
高木書店の看板を見たときほっとため息をついた。
上の空のままで道を歩いていて、よく車にぶつからずに帰れたと。
「おかえり」
祖母の声で我に返る。
「なんだい。まるでたった今、夢から覚めたような顔して。お昼はもう済んだ?」
「あ、帰りにコンビニで買ってこようと思って忘れてた」
「おやおや、今日に限って、何にも残ってないけど」と祖母は肩をすくめた。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!