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——–18:00。
美紗のお母さんと約束がある為、残業をせずに退社。
宣言通り、美紗は就業時間内に資料を作り終えてくれた。
2人共、残業をせずに帰れるというのに、一緒には帰れない。
今日、美紗はこの後どうするのだろう。真っ直ぐアパートに帰るのだろうか。それとも今日も和馬と一緒に……。
一足先に事務所を出て行く美紗の後ろ姿を目で追いながらも、追い掛けることは出来ず、美紗の実家へと急いだ。
会社の近くの洋菓子店で、手土産というよりはお詫びの品に近い菓子折を購入し、電車に乗り込んだ。
同じ中学だった、美紗と真琴。
だから、美紗の実家は俺の実家からそう遠くない場所にある。
俺の実家の最寄駅を2コ過ぎた駅が、美紗の実家の最寄駅。
電車を降り、美紗の実家まで歩きながら、今日話さなければならないこと、謝りたいことを頭の中で整理する。
正直、心の整理が出来ていないから、頭の中の整理整頓もままならない。
ちゃんと話すことが出来るのか、不安を抱えたまま美紗の実家に到着した。
美紗の実家のベルを押すと、
「いらっしゃーい‼ 待ってたわよー‼」
美紗のお母さんが、元気よく玄関のドアを開けた。
「突然すみません」
が、俺はそのテンションに合わせられない。だって、俺がこれからする話は、全く明るい話題ではない。
「ウチはいつでもウェルカムよー‼ ほら、靴脱いで上がって上がって」
美紗のお母さんが俺の腕をグイグイ引っ張るから、
「お邪魔します」
靴を揃えることも出来ずに家の中に入った。
そのままリビングに連れて行かれると、
「お腹空いてるでしょう? 張り切っていっぱい作っちゃった」
と美紗のお母さんが俺の為に夕食を用意してくれていた。
ダイニングテーブルの上には、俺の好物が並んでいた。
美紗のお母さんは、俺が何気なく話した好きな食べ物の話をしっかり覚えていてくれたのだろう。
「……なんか、すみません。これ、良かったら……」
美紗のお母さんの心遣いに、余計に申し訳なさが込み上げる。
美紗のお母さんに菓子折を手渡すと、
「全然‼ 勇太くんが来てくれるのが楽しみで、勝手に作っちゃっただけだもの。迷惑だったらごめんね。お菓子、ありがたく頂戴します」
美紗のお母さんが、それを頭の上に持ち上げながらお辞儀をして笑った。
陽気で、快活で、優しくてお茶目な美紗のお母さん。
美紗と結婚しようと思った時、美紗のお母さんのことも大事にすると心に決めたのに……。
「俺も有難く御馳走になります。俺の好きな物ばっかり……。ありがとうございます」
「どういたしましてー。とりあえず、食べてからお話聞かせて」
美紗のお母さんが「座って座って」とダイニングの椅子を引いた。
美紗のお母さんが『話は食べてから』と提案してくれて良かった。食べながら話せる楽しい話ではないから。
椅子に座り、「いただきます」と手を合わせると、好物である豚の角煮に箸を入れる。
良く煮込まれた豚肉は、簡単に箸で一口大に切れ、口に入れるとトロトロにとろけた。美味い。
俺なんかの為に手間暇をかけて作ってくれた美紗のお母さん。
どうして俺は、こんなに優しくてあったかい人を悲しませなければいけないのだろう。
美紗のお母さんの手料理を完食し、美紗のお母さんにお茶を淹れてもらったところで、
「で、勇太くんの話って何なのかな?」
美紗のお母さんが話を切り出した。
「……あの、美紗から何か聞いてませんか? 俺たちのこと」
「何? 喧嘩でもしたの?」
美紗のお母さんは、何も知らない様子で、眉間に皺を寄せながら首を傾げた。
「……すみません。俺、美紗と結婚出来ないかもしれません」
美紗のお母さんに向かって、机に顔がつく寸前まで深く頭を下げた。
俺のことを快く受け入れてくれていた美紗のお母さんに申し訳なくて、そのまま顔を上げる事が出来ない。
「……どういうこと? 美紗が何かした?」
美紗のお母さんが「とりあえず、顔を上げて。目を見て話しましょう」と俺の肩を叩き、頭を上げる様に促した。
顔を振り上げると、悲しそうな目をした美紗のお母さんの顔があった。
「美紗は何も悪くありません」
顔を左右に振り、美紗のお母さんの疑念を否定する。
「じゃあ、どうして? 勇太くんの問題なの?」
「俺は、結婚したいです。美紗のこと、大好きだから。大切だから」
諦められない思いが、口をついてしまう。
「だったら尚更どうしてなの? 何があったの?」
美紗のお母さんが真相を知りたい気持ちは当然。『結婚出来なくなりました』『あ、そうですか』で済むわけがない。
ただ、美紗と『誰にも言わない』と約束をしてしまったことを、美紗のお母さんに喋っていいものか……。
だけど、俺が美紗のお母さんの立場なら、絶対に知っておきたい。
「……今からする話は、美紗に口止めをされている話です。誰にも知られたくない、プライドのかかった話だと美紗が言っていた話です。でも、美紗は自分のプライドというよりは、俺の体裁を守りたくてそう言っている気がするんです。だけど、美紗に了承を得ていない。だから、俺が話すことはどうか美紗の前ではしないでください。俺が怒りの全てを受け止めますから」
美紗のお母さんに、話そうと思った。美紗のお母さんが、美紗のプライドを汚すわけがないから。
「……とりあえず、話してくれる?」
俺の嫌な予感しか招かない前置きに、美紗のお母さんの顔が歪んだ。
すぅっと息を吸い込み、覚悟を決めて言葉を吐く。
「……先日、俺の家族に会わせる為に、美紗を実家に連れて行ったら、美紗、突然過呼吸になってしまって……」
「……え?」
美紗のお母さんの目が、大きく開いた。
「美紗が中学時代に苛めに遭っていたことは知っていましたか?」
「……」
言葉を失くし、固まる美紗のお母さん。
美紗のお母さんは、きっと知らなかったのだろう。
「3年間、ずっと虐められていたんです。それも、壮絶で卑劣なやり口の苛めです。美紗はそれに、3年間耐え続けていました。……美紗を虐めていた首謀者が……俺の妹でした。妹の顔を見た途端、美紗が過呼吸を起こしたんです。本当に申し訳ありませんでした。謝って許されることではないのは分かっています。すみません。すみません。すみません」
再度頭を下げる。
目を見て話すべきなのは分かっているのに、やっぱり頭を上げられない。
「……赦せない」
後頭部から、美紗のお母さんの震えた声が聞こえた。
「本当に申し訳ありませんでした。何をしたら美紗への償いになるのか分かりませんが、でも俺に出来ることなら何でもします。本当は美紗と結婚したいです。だけど、美紗が妹と家族になるのに抵抗があるのは当然だと思います。美紗が嫌がることはしたくない。だけど、美紗とずっと一緒にいたい。……すみません。何を言っているんだろ、俺。矛盾していますよね。本当にすみません」
謝罪中に自分の自分の願望を挟み込む馬鹿な自分が、本当に嫌になる。
そんな俺に、美紗のお母さんだって嫌気が刺しただろう。
「……言っていることが滅茶苦茶ね。……本当に赦せない」
美紗のお母さんが、嫌悪感を露わにした。
「本当に申し訳ありません」
「勇太くんを赦せないんじゃないわよ。美紗を虐めたのはあなたじゃないでしょ。勇太くんの妹でしょ。……美紗は、何をされたの?」
美紗のお母さんが「ねぇ、しっかり視線を合わせて話しましょう。ちゃんと聞かせて欲しい話だから」と、俺の肩を掴んだ。
逸らしちゃいけないと思った。
美紗のお母さんの視線から逃げてはいけないと思った。
「……蛙やカタツムリを炙って食わされたこと。口の中に虫と土を詰め込まれたこと。便器に頭を押し込まれたこと。机の上に花を生けた花瓶を置かれたことは聞きました。だけどきっともっとされたと思います。だって3年です。……あまりに長い」
「……酷い。酷すぎる。赦せない」
美紗のお母さんは、声を荒げることはせずとも、静かに確実に怒りを放っていた。
「本当に申し訳……」
「勇太くんは悪くないって言ってるでしょ⁉ 美紗だって勇太くんを責めたりしなかったでしょう⁉ 私の娘は、むやみに人を憎む様な、そんな子ではないもの‼ 謝罪すべきは勇太くんの妹さんの方‼ 赦せないのはアナタの妹‼ ……と、私」
謝罪を繰り返す俺を遮り、美紗のお母さんが泣き崩れた。
「……私ね、親バカなんだけどね、美紗を【自慢の娘】だと思ってるの。私、離婚してからずっと【美紗は私1人で立派に育て上げる】って意地になってた。お金に困らせる様なことはしたくなくて、昼夜構わず働いた。そんな私を見て育ったせいで美紗、『お母さんは毎日お仕事を頑張ってくれているから、家のことは私がする』って、小学校の頃から家事全般をやってくれてた。申し訳ないなって思いながらも、勇太くんとの結婚が決まった時にね、『美紗にたくさん苦労をかけてしまったけれど、おかげで嫁入り準備は万端だ。これで良かったのかもしれない』って、自分に都合よく考えていたの。……全然気付かなかった。美紗、私の前ではいつも『お仕事ご苦労様』って、毎日笑顔だった。笑顔の美紗しか思い出せない。全部隠して笑ってくれていたのね。辛かっただろうに…。私、美紗は必死に働く私の姿に喜んでくれていると思っていたの。私自身もね、『美紗の為なら何でも出来るのよ。頑張れるのよ』って、体現しているつもりだった。……独りよがりな愛情表現よね。忙しそうに振る舞ったせいで、美紗に気を遣わせて何も言えなくさせてしまった。母親らしいことを何もしなかった上に、甘えさせることも悩みに気付いてあげることこともしなかった。……最低。本当に最低な母親だ」
美紗のお母さんが、テーブルの上で拳を握りしめた。
美紗のお母さんの目から落ちた涙が、テーブルに落ちて広がった。
「それは違います。俺、美紗がお母さんを悪く言っているところなんて、1度も見たことがないです。独りよがりの愛情表現なんかじゃないです。ちゃんと美紗に届いてました。美紗、自分の為に懸命に働いてくれたお母さんに感謝していました。美紗がいつも笑顔でいたのは、お母さんのことが大好きだからですよ。作り笑顔じゃないと思います。大好きだからこそ自然に零した笑顔だったと思います。……て、その時の美紗の笑顔を見たわけでもない俺が言っても説得力ないんですけど……でも、絶対そうだと思います。美紗はそういう人です。そういう素敵な人です」
テーブルの隅に置いてあった箱ティッシュを、美紗のお母さんの傍に置くと「ありがとう」と、美紗のお母さんがそこから2、3枚引き抜き、涙を拭った。
「……俺、今、どうしたらいいのか分からないんです。俺、美紗に軽々しく『イジメは昔の話だろ?』って言ってしまったんです。でも美紗にとっては『思い出したくない、消してしまいたい過去の記憶』でした。俺と結婚すれば、嫌でもその記憶は掘り起こされる。美紗にとっては地獄の3年間が、ずっと付きまとってしまう。『俺は俺。真琴とは違う』と言っても、美紗からしたら【加害者の兄】になってしまう。……美紗に言われたんです。『結婚出来ない』って。美紗、自分から婚約破棄言い出したからって、自分の責任だからって、俺が周りから変な目で見られない様に、会社で嘘吐いてるんです。『自分の浮気で結婚がダメになった』って。もちろんすぐに訂正しようとしました。でも、『私がかつて苛められっ子だったことはみんなに言わない欲しい。私のプライドを守って欲しい』と美紗に口止めされてしまって……。美紗、今会社で1人ぼっちなんです。すみません。美紗に辛い思いをさせてしまって、本当に申し訳ありません」
美紗のお母さんに追い打ちをかける様に、過去だけではなく、現在までも辛い状況にいる美紗の状態を話すと、涙が止まらなくなった美紗のお母さんが、また箱からティッシュを数枚抜き取った。
「諦めなければいけないのは分かっているんです。結婚したくない美紗と無理矢理出来るわけがないことも分かっているんです。美紗を不幸にしたくない。美紗が幸せになれるのなら、引かなければいけないと分かっているんです。……知り合いに言われたんです。『アナタの両親が年老いて、認知症などを発症して介護が必要なる時がくるかもしれない。そういった症状が出た人間は、本心でなくとも暴言を吐くことがある。自分を虐め倒した人間の親の暴言に、美紗を晒せるのか? または一切関わらせない様に出来るのか?』って。俺、答えられなかったんです。結婚したい気持ちは変わらない。でも、美紗の幸せを願うのであれば、結婚はしてはいけないのかもしれません」
頭では全部分かっているのに、それでも美紗を失いたくない俺は、美紗のお母さんに反対されて、拒否されて、とどめを刺して欲しいのかもしれない。
「……美紗の幸せの為?」
ティッシュで目頭を押さえ、黙って俺の話を聞いていた美紗のお母さんが口を開いた。
「美紗、勇太くんのことが大好きなのに、結婚しないことが美紗の幸せなの? 美紗、勇太くんと付き合うことになった時、結婚が決まった時、物凄く嬉しそうに、幸せそうに私に報告してくれたのよ。私はあの子の親だから、いつでも美紗が可愛くて仕方がない。そんな美紗が、今まで見たこともない程の可愛い笑顔で話していたのよ。私も本当に嬉しかった。美紗は勇太くんを嫌いになって結婚を辞めようとしているわけじゃないじゃない。大好きだから勇太くんを守ろうとしているんじゃない。美紗はまた、アナタの妹のせいで不幸に追いやられるの? そんなのあんまりよ」
美紗のお母さんが丸めたティッシュを握りしめた。
「美紗の気持ちが離れているのなら、勇太くんにはこれ以上美紗に関わって欲しくない。だけど、そうじゃないじゃない。……例えば、美紗が崖から落ちそうになっていて、勇太くんが崖の上から何とか美紗を助けようと、美紗の手を握って引き揚げようとしているとするじゃない? 美紗ってね、勇太くんが力を振り絞る為にちょっと顔を顰めただけでも、『あぁ、辛いんだな。申し訳ないな』って思ってしまう子なのよ。『もういいよ、放していいよ』って言ってしまう子なの。自分のせいで苦しむ人の顔を見ていられないっていうか……。それが、大好きな人だったら尚更よね。美紗は昔からそうなの。私が仕事で疲れて帰ってくると『ごめんね、ありがとうね』って、頼んでもないのにマッサージしてくれる様な子なの。勇太くんには、美紗がどんなに『放していいよ』って言っても、それでも美紗の手を握っていて欲しい」
俺に強い視線を向ける、美紗のお母さん。
「……俺、美紗を虐めた人間の兄ですよ? それでも、美紗の手を握っていてもいいんですか?」
美紗のお母さんは、俺に嫌悪感はないのだろうか。
「確かに引っかかるわよ。美紗を虐めた女の兄って部分は。だけどね、私の大切な娘を『大好きだ』『素敵な人だ』って言ってくれる人を憎むなんてこと、私には出来ない。どうしたって嬉しいんだもの」
泣いていた美紗のお母さんが、俺に笑いかけてくれた。
そんな笑顔を見たら、何だか胸が熱くなって、今度は俺の目から涙が出てきてしまった。
「ちょっと、泣いてる場合じゃないでしょ‼ 早く美紗を崖の上に引き上げてやって。美紗の手、肩が脱臼したくらいで放したりしたら怒るからね」
美紗のお母さんが笑いながら、ティッシュで俺の顔を拭いた。
「ありがとうございます。腕、引き千切れても美紗の手を掴んでいたいです」
泣いてしまったことが恥ずかしくて、無理矢理笑顔を作ると、
「うん。美紗のこと、どうか宜しくお願いします」
美紗のお母さんが俺の頭を撫でてくれた。
美紗のお母さんの手が、心が温かすぎて、やっぱり涙が溢れ出した。
——–美紗の実家からの帰り道、スマホを手に取り電話を掛けた。
『散々シカトしておいて、そっちから掛けてくるとは思わなかったわ。お兄ちゃん』
電話の相手は諸悪の根源、真琴。
「お前、美紗と和馬に恥かかされたからって、会社辞めたりしてないだろうな?」
真琴からのメールには『和馬と美紗が嫌がらせの様にやって来た』と書いてあった。2人はきっと、恋人同士を装って真琴の職場に行ったのだろう。
『あんなことをされて、みんなに可哀想で痛い人間扱いされて、本当は一刻も早く辞めてやりたいわよ。でも先月、鞄買うのにボーナス払いでカード切っちゃったから、辞めるに辞められないのよ。ホンットにタイミング悪いよね、お兄ちゃん。美紗を家に連れてくるなら、鞄買う前かボーナスが出た後にして欲しかったわ‼』
相変わらず自分勝手な妹。ほとほと呆れる。
「真琴はいっつも人のせいだな。どうしたら直るの? その性格。ずっと、俺に支障が出なかったから見過ごしてきたけど、それがいけなかったんだな。今物凄く後悔してるわ。猛省ってこういうことをいうんだな」
どうしても嫌味を言わなければ気が済まず、本題の前に憎しみの言葉を前置くと、
『は? 喧嘩売る為に電話してきたの?』
電話の向こうで『チッ』と真琴が舌打ちをした。
「イヤ。ちょっと真琴に聞きたいことがあるんだけど……」
意味のないことをしているのかもしれないが、じっとしていられなかった。
真琴を避けている場合ではない。
美紗の手を、握りたい。
コメント
1件
ああ、もう……胸がぎゅっとなりました。勇太くんが美紗のお母さんに全部打ち明ける場面、涙が止まらなかったです。お母さんが「美紗の手を握っていてほしい」って言ってくれたところ、本当に救われましたね。そして最後の真琴への電話。勇太くんが「美紗の手を、握りたい」って思えたのが、何より嬉しかったです。お母さんの温かさに泣けて、勇太くんの決意に胸が熱くなりました。素敵な話をありがとうございます。