魔性の梟の背中は快適とは言えなかったが、もう一つの提案である鋭い爪の生えた足に握られるよりはましなはずだと思って、ユカリは諦めた。
再び巨大な梟に変身した少年は帰り道も木々の間を飛ぶことを選択した。本人は幹を軽々と避けられるのかもしれないが、青黒い森を照らす光の色彩の洪水のために距離感を測りにくい中で、自分に枝がぶつかるのではないかとユカリは肝を冷やした。結局杞憂で済んだが、当然文句の一つも言いたくなる。森を抜けたところで向かい風に負けない声を出してフロウに尋ねる。
「ねえ、何でわざわざ森の中を飛んだの? 巧みな翼さばきを見せるため以外の理由があるなら教えて欲しいんだけど」ユカリの問いかけに対して魔性の梟は返事をしなかった。「ねえってば」
まさか心まで猛禽になってしまったのだろうか、とユカリは不安を覚える。このまま巨大な巣に連れて行かれ、巨大な雛に丸呑みにされるわけにはいかない。
魔を秘めた梟は上昇気流になる前の風のように山腹をなぞり、輝く羽根に照らされて星空よりも色鮮やかな地面すれすれを飛ぶ。もし梟の脚に掴まれていたならユカリは頭を地面で擦ることになっていたかもしれない。
風に目を細めつつも垣間見えた麓に広がるメハ村はまだちらほらと黄色い明かりが灯っている。狼狩りに出かけた勇敢で向こう見ずな若い男たちを待つ明かりだろう。
羊小屋が見えたところで地面に降り立つとフロウは元の姿に戻った。小さな男の子に背負われている状況に恥ずかしくなってユカリは跳ねるように飛び降りた。
「梟は森の中を飛ぶものですよ、巧みに、静かに。森の賢者であり、狩人ですから」とフロウは真面目な微笑みを浮かべて言う。
ユカリは首を傾げる。「何の話?」
「何で森の中を飛ぶのか、という話です」
「ああ、そのことね。何で今になって返事したの?」とユカリは不満げに漏らす。
「別の声を出すと別の生き物になってしまうからです」
合点がいった。鳴き真似をするとその動物の王に変身する魔法なのだから、空高く飛んでいる時に飛べない生き物の言葉を使えば悲劇が待っているというわけだ。
「そういうことね。少しだけ不便かも」とユカリは言う。「それにしたってあんなに狭いところを飛ばなくたっていいじゃない? 木々の上を飛ぶとかさ。次の瞬間に枝に叩きつけられるんじゃないかって、気が気じゃなかった。とっても怖かったよ」
「すみません。出来る限り見つからないように、です。あの姿は目立つので。ああいう怪しげな光で善良な麓の村人たちを不要に怖がらせたくはありませんから」
「そっか。ごめんね。そうだよね。似たようなことを義母さんにも言われたことがある気がするよ」
悪戯好きだったという産みの母はもっと沢山言われただろうな、とユカリは思った。
それにしても、ますます魔導書を譲ってくれと言いにくく思えた。もちろん騙したり奪ったりなど以ての外だ。少なくともフロウに対しては。であれば真っ当な方法しかない。ユカリは意を決する。譲ってくれとお願いして、何とか応じてもらうしかないのだ。
しかしフロウは明後日の方向に顔を向けていた。ユカリはその横顔に嫌な予感がした。大切なものを持つものなら誰でも知っている冷や汗の滲む予感だ。その緑の瞳に不安や焦燥が粘り気のある渦を巻いている。フロウの視線の先には羊小屋があった。視線を重ねるが、ユカリには何も感じ取ることができない。
「フロウ? どうしたの?」
ユカリのか細い言葉は重い沈黙に絡めとられ、フロウに届かなかった。
フロウは何も言わず、指示を得た猟犬のように羊小屋に向かって素早く駆け出した。
一瞬呆気に取られるが、遅れてユカリもフロウの後を追う。
フロウが羊小屋に飛び込み、ユカリも続く。羊小屋の異常を、フロウが遠くから察知した異常をユカリはそこへ来てようやく理解する。百頭近い羊の半数近くが消えている。残った羊たちも怯えた様子で鳴いている。
呆然と立ち尽くしているフロウに声をかける。
「気を保って、フロウ。羊たちに何があったのかは分からないけど……」
何があったのか、ユカリたちがいない時に起きた出来事の一部をフロウの肩越しに見た。
フロウの前で夜の闇よりもどす黒い血に塗れたピックが倒れている。
その時、「フロウ! 大丈夫か!」と呼ばわり、羊小屋に駆け込んできたのはメハ村の村長フェンダーだった。
「フェンダーさん?」とユカリは驚き、呟く。「いったい何が、何があったかご存知なんですか?」
「ユカリさんだったね。君も無事だったか」息も絶え絶えにフェンダーは話す。「実は、我々が追い立てた狼がトマン山の方に逃げてしまったのだ」
夕食前の会話を改めて思い出す。彼らは狼狩りに行くのだと言っていた。より正確には狩りではなく、狼を追い立てて、恐れさせることで村への被害を予防するのだ、と。
しかしフロウはそれを狼たちに忠告した。具体的な内容はユカリには分からなかったが、狼たちが人間を襲ったりしないようにフロウは交渉し、助言したのだ。ましてやフロウの飼っている羊を襲うなどということは考えられないし、そもそも真っすぐに森に行って狼に会い、真っすぐに羊小屋に戻ってきたフロウを狼たちが出し抜くことなど出来るはずもない。
フェンダーは嘘をついている。ユカリはフロウとの間に立つことを意識する。
「つまり狼が羊たちを襲った、ということですか?」とユカリは慎重に問う。
フェンダーが辺りを見回し、頭を抱える。今気づいた、という様子だ。
「何てことだ。すまん、フロウ。完全に我々の失態だ」といかにも申し訳なさそうにフェンダーは言った。「戸締りをするようにきちんと言っておけば良かった。とはいえお前たちが無事だっただけでも幸いと言えよう」
フロウが今何を考えているのかユカリには分からなかったが、その感情は推し量れた。
「本当に狼なんでしょうか?」とユカリは他意を感じさせないように言った。「狼や羊が暴れたような痕跡がありません」
ピックの亡骸にも爪や牙の傷跡はない。その体に突き立てられたものはもっと鋭利な何かだ。
「私も見たわけではないからな」フェンダーは臆面もなく言う。「狼の手口など分からん。もしかしたら巣に持ち帰ってしまったのかもしれん」
「ピックが死んでしまいました」とフロウがか細い声で言った。
フェンダーが横から覗き込む。「牧羊犬か。称えられるべき勇敢な犬だな。主人の財産を守るために狼と戦ったのだろう。見ての通り羊の半分は彼の頑張りで守られたんだ」
「羊を攫って、犬を捨て置く狼?」とユカリは呟くがその言葉に誰も返事をしない。
羊さえ鳴かない重苦しい沈黙が羊小屋の中に澱んでいる。
しばらくしてフェンダーが断ち切るように言った。「ではなフロウ。私は他に被害が無いか見回りしなくてはならん。気を落とすな。いつでも私や村のみんなに頼ってくれ」
フェンダーは立ち去り、振り返ることなく山を下りて行った。
ユカリはじっとフェンダーの背中を見つめ、義母に一つとして他人を呪う術を教わっていなかったことについて考えた。
フロウはピックの前にひざまずき、その冷たくなった体を優しく撫でていた。
「彼の言う通り。羊たちは財産です」フロウが背中を向けたままユカリに話す。「情が無いではありませんが、僕自身が育て、羊毛を売り、時には解体して食べる時もあります。だけど彼は違う。牧羊犬だって本来は羊飼いの財産に過ぎないのかもしれないけど、僕らにとっては朋輩なんです。馬鹿でしたけど気のいいやつでした」
そう言ってフロウは立ち上がり、振り返る。その表情は静かだったが、フェンダーのいない虚空を睨みつける瞳は暗闇の中で燃えていた、まるで狩りの前の狼のように。
ユカリは何も言わずにフロウの前に立ちはだかる。
「魔法を悪用しないと言ったばかりですが、はたしてこれは悪用でしょうか、ユカリさん」
フロウの声は平静でありながら煮立っている。
ユカリは慎重に答える。
「悪用とまでは思わない。けどフロウがそんなことをする必要はない。それでもなおフロウは人間と狼の争いを望んではいないんでしょう?」
ためらいがちながらフロウは俯いた。
「その通りです。無用な争いは好みません」
「じゃあ、狼の姿で人を襲ったりしたら駄目だよ。人間が憎悪を掻き立てるだけなんだから」そう言うと、ユカリはフロウの両肩に両手を置き、言い聞かせる。「ピックのそばにいてあげて。こっちは私に任せて」
しかしフロウは頑なな様子で首を横に振った。
「何にせよ、これは僕たちの問題ですから、ユカリさんを巻き込むつもりも、危険な目に合わせるつもりもありません」
「危険?」
神妙な表情でそう呟くと、ユカリは懐から魔導書を取り出す。
「それは……」フロウは目を見開いて言った。「魔導書、ユカリさんも持ってたんですか」
ユカリは悪戯っぽく微笑む。
「ごめんね。悪気はなかったんだけど」