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「……若井。……あ、……また、後ろ……」
助手席で小さく丸まっていた元貴が、
震える指でバックミラーを指差した。
時刻は深夜、場所は街の灯りも疎らな地方の国道。
若井が会社の経費精算用カードを使い、身分を隠して借りたレンタカーは、
雨混じりの闇を切り裂くように走っていた。
背後から、執拗に一定の距離を保ってついてくる、
一台の黒いセダン。
ハイビームが時折、車内を白く焼き尽くす。
その光に照らされた若井の横顔は、数日前のエリートサラリーマンの面影など微塵もなく、ただ獲物を守る獣のような鋭さを宿していた。
「……分かってる。……涼架だ。
……あいつ、どうやって……」
若井はハンドルを握る手に力を込めた。
指の関節が白く浮き出し、ミシミシと嫌な音が鳴る。
スマホの電源は切り、SNSもログインせず、足のつかない経路を選んだはずだった。
けれど、音楽という名の「魂」を共有してきた涼ちゃんにとって、元貴がどこへ向かいたいのか、
どこで息を潜めたいのかを察知するのは、呼吸をするよりも容易いことだったのかもしれない。
「……若井、怖いよ。
……僕、また連れ戻されるの?
……あんな、眩しいだけの光の中に。……喉が枯れるまで、誰かのために歌わされる場所に……」
元貴が若井の左腕に縋り付く。
その爪が、若井のシャツを突き破って肌に食い込む。
痛み。けれど、若井にとってはその痛みが何よりも甘美な「信頼」の証だった。
「……させない。……俺がお前を、誰の手も届かない暗闇に隠してやるって言っただろ」
若井はアクセルを深く踏み込んだ。
エンジンが悲鳴を上げ、車体が激しく揺れる。
背後の黒いセダンも、
それに呼応するように加速した。
静寂を切り裂くクラクション。
それは、涼ちゃんからの絶交の叫びであり、
元貴を取り戻そうとする執念の咆哮だった。
「……若井! 止まれ! 元貴をどうするつもりだ!
お前がやってることは、ただの誘拐だぞ!」
並走する車から、涼ちゃんの怒鳴り声が風に乗って聞こえてくる。
若井はチラリと隣を見た。元貴は耳を塞ぎ、若井の膝に顔を埋めて震えている。
(……うるさいんだよ、涼架。……お前は元貴を『歌』として愛しているかもしれない。……でも俺は、こいつの『絶望』ごと愛してるんだ)
若井は急ブレーキをかけ、スピンせんばかりの勢いで細い林道へとハンドルを切った。
ガードレールを掠める金属音。
車内には、元貴の短い悲鳴と、
若井の狂気に満ちた笑い声が響く。
「……元貴。……もうすぐだ。
……もうすぐ、波の音しか聞こえない場所に着く」
「……うん。……若井、……
一緒に、沈もうね……」
背後で、涼ちゃんの車が急停車する音が聞こえた。
けれど、もう届かない。
若井は、バックミラーに映るかつての「隣人」の姿を、暗闇の向こう側へと捨て去った。
二人が向かうのは、若井が子供の頃に一度だけ訪れた、今は地図から消えかかっている海辺の廃屋。
そこは、世界で一番静かで、世界で一番残酷な、二人だけの「301号室」の延長線上。