テラーノベル
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車のエンジンを切った瞬間、
辺りは耳が痛くなるほどの静寂に包まれた。
聞こえるのは、荒れ狂う冬の海が岩礁を叩く、
鈍い音だけ。
「……着いたよ、元貴」
若井が声をかけると、
助手席で丸まっていた元貴が、
ゆっくりと顔を上げた。
数日間の逃避行で、その頬はこけ、瞳は異様な光を放っている。
若井は車から降り、助手席のドアを開けると、力の入らない元貴の身体を横抱きにして車外へ連れ出した。
目の前に立つのは、かつての漁師小屋だったのか、潮風に晒されて外壁が剥げ落ちた廃屋。
若井は慣れた手つきで、ポケットからあの「301号室のスペアキー」を取り出した。
もちろん、この建物の鍵ではない。
けれど、若井にとってそれは、元貴という存在を閉じ込めるための、絶対的な「儀式」の道具だった。
「……若井。……ここ、……誰もいないね。
……波の音しか、聞こえない」
元貴が若井の首筋に顔を埋め、
熱っぽい吐息を漏らす。
廃屋の中は、埃とカビの匂いが充満していた。
若井は床に持ってきた毛布を敷き、その上に元貴を優しく横たえる。
窓の外では、遠く、本当に遠くの方で、赤と青のパトランプの光が明滅しているのが見えた。
涼架たちが、もうそこまで来ている。
「……元貴。
……お前は、またあいつらのところに戻りたいか?」
若井は元貴の上に覆い被さり、
その細い首筋に指をかけた。
絞めるためではない。
ただ、そこに刻まれた鼓動を確認するためだけに。
「……嫌だ。……あそこに戻ったら、僕はまた『大森元貴』を演じなきゃいけない。
……若井。……僕の喉を、潰してよ。
……二度と、君以外のために歌わなくて済むように」
元貴が、恍惚とした表情で
若井の手を自分の喉元へと導く。
若井の脳内で、何かがぷつりと切れた。
愛している。狂おしいほどに。
だからこそ、この声を、この体温を、
世間の好奇の目に晒すわけにはいかない。
若井は、バッグから一瓶の強い酒と、
いくつかの錠剤を取り出した。
「……一緒に、眠ろう。
……あいつらがこのドアを壊す前に、俺たちが誰にも触れられない場所へ行けばいいんだ」
「……ふふ、……心中? ……素敵だね。……若井と一緒なら、どこまでも深く沈める気がする」
元貴は、若井が差し出した酒を一口飲み、喉を焼く熱さに目を細めた。
若井はその唇を塞ぐように、
激しく、そして泣き出しそうなほど優しく口づける。
外では、拡声器を通した涼架の声が、
風に乗って微かに聞こえてくる。
『元貴! 若井! 頼むから、バカなことはやめろ!』
若井は、その声を嘲笑うように、元貴の首にかけられていた銀色の鍵を、自分の首にも巻き付けた。
二人の身体を一つの鎖で繋ぐように。
「……聞こえないよ、元貴。……俺たちの世界には、もう波の音しか流れてない」
意識が遠のき始める中で、
元貴が最後に小さく歌った。
それは、301号室の壁越しに若井が初めて聴いた、あの透明な旋律。
若井はその声を、自分の鼓動と共に、永遠の闇の中へと封じ込めた。
次回最終話です。
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