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ストックルームの扉を
ほとんど弾き飛ばすように押し開けた。
先程まで鼻腔を満たしていた
アルコールと嘔吐の酸味は
一枚の扉を挟んだだけで不意に断ち切られ
代わりにホテル特有の 人工的に調整された
空調と洗剤と香水が混じり合った
〝整えられた匂い〟が
波のように肺へと流れ込む。
その匂いの膜を破るように
足を一歩踏み出した瞬間だった──
影と影が、真正面からぶつかりかける。
「──っと」
反射だけで肩をわずかに捻る。
視界の中央に、二つの輪郭が立ち上がった。
ひとりは、よく磨かれた革靴に
喉元でわずかに詰めすぎたネクタイ。
もうひとりは、細身のスーツに
長い時間を
立ちっぱなしで過ごしてきた者だけが覚える
腰の重心を逃がした立ち方。
どちらも
ホールで銀盆を運ぶ給仕たちとは異なる
乾いた現場の空気を纏っている。
(クソ──っ、確認を怠っちまった)
舌打ちは、喉の奥だけで噛み殺す。
先程、喉を抉り込んでまで吐き出した
〝あれ〟の残滓が
まだ胸の内側でざらりと揺れていた。
「あぁ?
お前、どう見てもホテルマンじゃねぇよな?」
片方の男が顎をわずかに上げる。
視線が
ソーレンの胸元のネームプレートをかすめ
肩幅、立ち方、目に見えない気配の厚みまでも
測ってくる。
「なんで、こんな所から出てきたんだよ」
問いは、まだ刃にはなっていない。
けれど、重心を少し傾ければ
すぐに鋭利な疑念へと変わりそうな
そんな硬さを含んでいた。
ソーレンは、言葉より先に感覚を広げる。
廊下に満ちる空気の振動。
床を打つ靴底のリズム。
壁の向こう側を流れる人の気配の有無。
この瞬間、この廊下に存在する呼吸と気配は
目の前の二人だけだ。
遠くで働くスタッフたちのざわめきは
厚い扉と壁に柔らかく遮られ
この場所までは届いていない。
右手が、自然な仕草を装って背中側へと滑る。
指先に、静かに重力の意識を集める。
いつでも、骨を折り、心臓を止められる距離──
その事実だけを冷たく準備しながら
口元には、現場仕事に身を置く男が好みそうな
軽薄さを乗せた。
「──あぁ。悪りぃな」
肩を、わざとらしさにならない程度に
小さく竦め
唇の片側だけで笑みを形作る。
「雇主の奥様がよ──
目を離した隙にいなくなっちまってさ。
〝尻の軽い〟女なもんで──」
ことさらに下卑た言葉を選び
自分の存在を〝品のない雇われの護衛〟にまで
貶めてみせる。
「男の〝硬い〟もんを求めてさ
人気のねぇ所で楽しんでんじゃねぇかってな。
こっちはこっちで
影って影を片っ端から探してたんだよ」
笑い声の温度を、わざと廊下に落とす。
高級ホテルの品位を
ほんの少しだけ傷つけるには十分で
けれど現場の人間なら
眉をひとつ顰めて苦笑いで流しそうな下品さ。
「さっき〝殺人〟があったって
騒いでたスタッフもいたろ?
旦那が、余計に心配してんだよ」
最後の一文だけを、わずかに低い音で落とす。
〝殺人〟
〝旦那〟
〝心配〟
男たちの職務意識の神経を引き寄せるには
十分な言葉だった。
短い沈黙が、廊下の絨毯の上で薄く伸びる。
片方の男が再びソーレンの胸元へ
視線を落とした。
ジャケットの端から覗く、許可証のホルダー。
そこに印字されたIDカードの縁を認めた瞬間
目つきが、ごく僅かに緩む。
「⋯⋯確かに
許可証のIDカードは持ってんな」
短く鼻を鳴らし、男は一度肩を回した。
緊張を半歩だけ後ろにずらすような
そんな仕草。
「⋯⋯はぁ。
なら、モニタールームに戻るところだ。
お前さんも来るか?」
思わぬ誘いに、ソーレンの内側で
別種の光が小さく弾ける。
モニタールーム──
ホテル中の目と耳が集められる場所。
死角と盲点、そして逆に 夜会の裏側までもが
映し出されるだろう中枢へ
堂々と歩いて案内される機会が
こうもあっさりと転がり込んでくるとは。
(⋯⋯ついでに、何か見えてくるかもな)
そんな計算の色は
表情にはひと欠片も乗せない。
ソーレンは、あくまで
〝面倒臭そうな護衛〟の顔を崩さず
肩をひとつ竦めてみせた。
「助かるよ」
軽く片手を上げる仕草は、礼儀というより
同じ現場を歩く者同士の気安さを
演じるための合図だった。
「俺にまで〝腰を振る〟ような女でさ。
どこの影に隠れてんのか
探すのに骨が折れてたんだよ」
「はは。
良い〝仕事振り〟しそうだもんな、あんた」
男の笑い声が
絨毯に吸い込まれながら低く揺れる。
その響きに紛れるように
ソーレンの右手に集められていた重みが
静かに霧散した。
⸻
ソーレンは
両脇を固める男たちに挟まれる形で
奥へと延びる通路を進んだ。
ひとつ角を折れると
空気の色そのものが変わる一角が現れる。
重たい防音扉が
廊下の白い光の中で鈍く口を閉ざしていた。
その前で、片方の男がカードキーをかざす。
短い電子音がひとつ
乾いた金属の舌のように鳴る。
開いた扉の向こうは──
ひときわ暗い、建物の腹の内側だった。
窓はない。
天井から落ちる照明は必要最低限に絞られ
その代わりに壁一面を覆うモニターの光だけが
室内の輪郭を辛うじて浮かび上がらせている。
黒いフレームに収められた幾十もの光が
それぞれ別々の夜を閉じ込めていた。
「今回開催されてる会場のモニターは⋯⋯
この区画と、この区画だ。
参加してんのは、どっちだ?」
男の指先が、二つのモニター群を示す。
数台ずつ束ねられた画面の群れ。
ソーレンは、そこで僅かに眉を寄せる。
(⋯⋯どっち、だと?)
片方には、見慣れた光景が映っていた。
シャンデリア
白いテーブルクロス
グラスの森──
つい先程まで、自分が足を踏みしめていた
あの華やかな地獄。
そして、もう片方のモニター群が
異物のように視界へ割り込んでくる。
そこに映っているのも
構造だけ見れば似たような宴会場だった。
だが、決定的に違うものが
ひとつだけ存在する。
〝巨大なスクリーン〟が
会場の片側を占めていた。
そのスクリーンに投影されているのは──
今まさに行われている、あの夜会そのもの。
シャンデリアの下で笑い合う客たち。
グラスを傾ける手。
踊り、囁き合う影たち。
それらを
スクリーンの下から見上げる者たちの姿が
あまりにも異様だった。
全員が仮面を着けている。
それぞれ彩りの異なる仮面で
顔の上半分を覆い
それでもなお贅沢な布と宝石で
身を飾っている。
仮面の奥の視線は、ひとつ残らず
スクリーンへと吸い寄せられていた。
ひとつの宴を
〝別の宴が観客席のように〟覗き込んでいる──
そんな、地獄の鏡像めいた会場。
喉の奥で、言葉にならない息がひとつ揺れる。
ソーレンはそれを、胸の内側に押し込み
表情ひとつ動かさないまま
視線だけを答えるべき画面へと滑らせた。
「⋯⋯こっちだ」
指先で示したのは、先程まで自分がいた
華やかな会場のモニター群。
「なんだお前さん、そっちか⋯⋯」
男は、皮肉とも
同情ともつかない息を洩らし、肩を竦めた。
「なぁ、あんた。傭兵上がりかなんかだろ?」
軽く投げられた声音。
だが、その瞳の奥に宿る警戒だけは
未だ消えない。
「あ?──あぁ」
ソーレンは、過不足のない重さだけを
声に乗せて肯定した。
「そのガタイだもんな?」
男は冗談めかして
顎でソーレンの肩幅を指し示す。
「⋯⋯なぁ?
お前さんのとこの旦那さんは
金払いは良いのかい?」
薄闇の中で、口元だけがわずかに笑う。
軽口に見せかけた探り──
この夜会と同じく、金で動くかどうか
それだけを測る視線。
瞬きひとつ分の間に
ソーレンは天秤を頭の中に組み立てる。
ここで否定するか、乗るふりをするか。
どの答えが〝開く扉を一枚でも増やす〟か。
(ま、駄目なときゃ── その時はその時、だな)
唇の端が、ゆっくりと持ち上がる。
「⋯⋯は」
短い吐息のような笑いがひとつ漏れた。
「金持ちのお守りなんざ──
愚痴しか出てこねぇよ」
心底うんざりした者だけが吐き出せる響き。
その一部は、決して嘘ではなかった。
気障ったらしい
黒髪を揺らす背中が脳裏を掠める。
「今時、傭兵も暇でな。
──俺は、金で動くぜ?」
一歩だけ、相手の価値観へ寄り添ってみせる。
ここで求められているのは
〝誠実さ〟ではなく〝同類〟であるふりだ。
「はは!だと思った」
男は声を立てて笑った。
警戒が一枚、音もなく剥がれ落ちる。
「なぁ、もう〝あの会場には戻るな〟
そして、俺らのとこに来ないかい?
お前さんならきっと──⋯おっと?」
言いかけた言葉の途中で
男の視線が別のモニターへ跳ねた。
「おいおい!こいつらサボりか?
女担いで、どこに行こうってんだ!」
画面の中で、廊下を進む影。
乱暴に捲り上げられたドレスの裾。
肩に担ぎ上げられた細い身体。
その後ろを
獲物を奪い合う機会を嗅ぎつけた獣のように
数人の男たちがまとわりつく。
「おい!ちょっと行ってくる!!」
男は椅子から跳ね起きると
そのまま一目散に扉へ駆けた。
「悪いな、あんた。
ちょっと待っててくれるか」
言葉だけが置き捨てられ
重い扉がばたんと揺れる。
残されたのはソーレンと、もうひとりの男と
幾十ものモニターが映し続ける
夜会の断片だけ。
先ほど男が視線を止めた画面へ
ソーレンは目を向ける。
モニターに揺れるドレスの色とラインが
見覚えのあるものと重なった。
あの色。
あのシルエット。
肩に担がれた身体の輪郭。
垂れた足先の線。
無防備に肩から落ちる腕の白さ。
黒褐色の髪。
(⋯⋯は?ありゃ──時也、か?)
胸の内側で、何かがひとつ冷たく跳ねる。
だが、次の呼吸で
その跳ねは水面の下へ押し沈められる。
(何してんだ、アイツ⋯⋯)
雑魚にやられたと即座に決めつけるには
〝あまりにも場数違い〟な男。
ここまで来て、何も考えていないはずがない。
むしろ──
あの状況さえ、きっと策の一つなのだろう。
それが、ソーレンの
〝櫻塚 時也という男〟への信頼だった。
「⋯⋯探す手間が省けたな」
モニターの端に映る壁の看板
照明の高さ
扉の位置。
それらをひとつ残さず
視線と記憶に焼きつけると
ソーレンは踵を返し、扉へと向かった。
背後で、もうひとりの男が
焦燥に息を吸い込む気配がする。
「おい、あんた!」
鋭い声が、狭い室内の空気を震わせた。
「待ってろって言われただろ!
あの会場に戻らせるわけには──」
「うるせぇよ」
言葉が最後まで形をとるより早く
ソーレンの手が、静かに空を払う。
部屋の中で
重力がひと呼吸分──軋んだ。
穏やかだったはずの〝下〟という向きが
不意に捻じれ、男の身体を
四方から〝圧し潰す〟力へと姿を変える。
骨と肉と血と空気。
それらを別々に分解することなく
ただ一点に押し寄せるような──圧力。
悲鳴は、生まれる前に
〝喉だった〟肉の奥で押し潰された。
ついさっきまで、椅子の上に腰を下ろし
愚痴をこぼせる程度には生きていた肉体が──
たった一拍の間に
数センチほどの塊へと圧縮され、床に転がる。
落ちる音は、意外なほど軽かった。
ソーレンの革靴が
その小さな塊を簡単に踏み潰す。
ぐしゃり、とすら音は震えない。
ただ
皮と中身の形が変わっただけの、鈍い感触。
「誰がお前らなんかと連むかよ」
低く零れた声が
モニターの光だけを受けて淡く浮かぶ。
「どれだけウザったらしくてもなぁ
俺の居場所は──〝喫茶桜〟だ」
足元に潰れた塊を一瞥することもなく
ソーレンはモニタールームを後にした。
背後に残されたのは、歪んだ重力の残滓と
幾十ものモニターが映し続ける
夜会という名の地獄の断片だけだった。