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「おはようございます、シイマさん。起きれます? 無理そうならまだ寝ていてください」
『微睡み亭』の奥は食堂に比べてずっと狭い、シイマとキーチェカの住居に繋がっている。小さな炉辺の他には寝台や櫃、文机くらいしかない。すでに昼を過ぎていて、直接陽光が注ぎ込むことはないが、羽板の嵌められた窓の外の控え目な明かりに照らされている。
ベルニージュは椅子に座ったまま、寝台で横になるシイマのまだ眠そうな顔を覗き込む。少しばかり精気を失っているように見えた。
「ああ、えっと、誰だったか。そうだ。昨日の夜、ユカリと店に来てくれた子だったかね」
「はい。ベルニージュです。実はキーチェカさんは発掘に出向いていて、私が留守番と看病を仰せつかりました」
シイマは大げさにわざとらしくため息をつく。
「いつからあの孫は倒れた祖母を置いて出かけるような薄情な子になったんだろうね」
ベルニージュはシイマが冗談を言ったかのように気遣う風に笑う。
「キーチェカさんはキーチェカさんでシイマさんを想っての行動でしょう。財宝を手に入れて楽をさせてあげたいとか、早く独り立ちして安心させたいとか。そういう類の」
シイマは小鼻を鳴らし、自嘲的な微笑みを浮かべる。「もしくはうるさい婆から解放されたいとかね」
「否定はしませんが」
「否定しとくれよ」
ベルニージュは淡々と自分の考えを述べる。「捉え方の問題のようにも思えます。誰かのための行動が、自分のための行動でもあるからといって、献身性が失われるわけではないですから。シイマさんの思い通りにならないのは別にしてもいいお孫さんだと思いますよ」
シイマは不敵な笑みを浮かべる。
「言ってくれるね」
「よく言われます」
「あたしを想っての行動は、あたしの孫への想いよりも尊いのかねえ?」
「そうは思いません。どちらが正しいのかなんてワタシには分かりません。ただ、相手を想っているだけ上等だとは思いますが」
「自分に言い聞かせているのかい?」
ベルニージュはにやりと笑みを浮かべて、首を横に振る。
「残念。外れです。むしろ逆。今のは自嘲です」
その時、食堂の方に誰かが入って来る気配を感じた。ベルニージュは椅子から立ち上がる。
「おかしいですね。お休みする旨を書いた看板は出しておいたのですが」
それだけ言ってベルニージュはそばに置いていた背嚢を手に取って、食堂の方へと歩いていく。そもそも閂を閉じていたはずだ。食堂と住居を隔てる扉を開くと扉の前にゲフォードが立っていた。閂は閉じてある。煩わしい虫の方がまだましかもしれない。
「ゲフォードだったっけ? 昨夜ここにいたなら分かるだろうと思うんだけど、店はやってないよ。出直すか、永遠に来ないでくれる?」
ベルニージュの挑発的な言葉に臆することなくゲフォードは答える。
「何かできることはないかと思ってきたんだ」
「お昼を過ぎてようやく人を助ける決心がついたってこと?」
それに対してゲフォードは何も言い返さなかったが、その前の言葉には確かに真摯な想いが現れていた。
ベルニージュはため息をつき、首を横に振る。「ただの過労だよ。ワタシたちにできることはない。どうしても何かしたいなら神に祈ってて」
ベルニージュはそう言い捨てて住居の方へ戻ろうとした時、今度は扉を叩く音が聞こえた。ベルニージュが躊躇しているとゲフォードが道を開けるように店の端の方へ移り、椅子に座った。
「また誰か祈りに来たのかな? 神殿に行けばいいのに」そう言って、ベルニージュは戸口に近づき、閂を下ろす。敷居の向こうにいたのは小太りの男だ。
「申し訳ないけどしばらくお休みですよ」とベルニージュは言う。
ベルニージュはその男に見覚えがあったが、誰だったか思い出せない。言われても小太りの男は動こうとしない。
ベルニージュは数歩下がってもう一度毅然と言う。「今日はお休みです」
「いえ、店ではなく、貴女に用があるんです」そう言うと男は革袋を差し出した。
ベルニージュは革袋を睨みつけるだけで、微動だにしない。
「いったい何なんですか? 申し訳ないけど、あなたが誰だったか思い出せないし、何かを受け取る理由もない」
男は申し訳なさそうに腰の低い態度で言う。「先日、中央の裏通りで助けてもらったものです。凶悪な女に私が殺されそうになっていたところへ貴女が割って入ってくれた。ずっと探していたんです。今日この店へ来ているという話を聞いてやってきました」
この街に来たばかりの時、母に襟首を掴まれていた男だということをベルニージュは思い出した。
「思い出しました。それで?」
「これは謝礼です。どうか受け取ってください」男はすがりつくような声で言う。
「受け取れません。そもそも助けたわけではなく、たまたま通りかかっただけです。あなたがあなたを助けただけですから、それはあなた自身にあげてください」
頑として受け取らない意思をベルニージュは示すが、男も折れるつもりはないようだった。
「分かりました」そう言うと男は革袋を軒先に置いて走り去った。
何も分かっちゃいない。
「受け取ればいいじゃないか」と後ろの方からゲフォードが言うが、ベルニージュは返答しない。
閉じた革袋ほど怪しいものはない。ひらく、という行動の象徴性は大きな危険も孕んでいる。
かといってそこに放置しているわけにもいかない。あの小太りの男そのものに怪しいところはなかったが、ベルニージュの母と関わりを持ち、あの程度のことで謝礼を渡すためにこの大きな街で人探しをするという行動力には疑問を感じる。
ベルニージュは革袋を焼き尽くそうかとも思ったが、街の真ん中の店先で焚火をするのは心証が悪いだろうと思い改めた。
ベルニージュは呪文を唱える。その呪文は小さく細い糸のような力に欠ける呪文だ。平たい俗語であり、神秘も不思議も冬の水たまりに張る氷のように薄い。ただし王の墓のように層を重ねて反復し、また四つの折句を忍ばせる。開示と明示を要請すると同時に条件付きの拒絶を行う。
革袋は一人でにその口を開いた。いくつかの金貨をその奥に覗かせる。呪いや悪霊の類が現れ出でることはなかった。ベルニージュは身を屈め、二度指先で口の縁をつついたのち、ずっしりと重い革袋を拾う。
「いくら何でも警戒しすぎではないか?」とゲフォードは呆れたように言った。
「警戒しすぎだったかどうかなんて全て結果論でしょう?」ベルニージュはゲフォードの言葉を断ち切るようにぴしゃりと言った。
「さもありなん」とゲフォードは呟く。
ベルニージュが革袋を手近の机に置いて、扉を閉めようとした時、今度こそ本当にベルニージュには見覚えのない女が戸口に立っていた。上品な身なりをした妙齢の女性だ。
「何か御用ですか?」ベルニージュは再び警戒する。「食堂なら今日は休みですが」
「初めてお目にかかります。わたくし、雪の輝きと申します。昔お世話になったシイマさんに厚恩がありますの。今日はその恩返しに参りましたのよ」
エルセニアはそう一息に言い放つと淑やかに辞儀する。ベルニージュは出来るだけ無礼に聞こえないように断る。
「あいにくですがシイマさんは体調が悪くてですね。良ければまた後日にいらしてもらえませんか?」
女は残念そうに嘆く。「さようでございますか。そうしたいのは山々ですが、わたくし別の土地に移り住むことになりましたの。あなた、お礼だけでも渡していただけて? 中には手紙も入っていますから、きっと分かっていただけると存じますわ」
女はゆるりとベルニージュに近づき、美しい藍色に染色された麻の包みを押し付ける。明らかに金が入っている重みだ。
「それじゃあ、頼みましたよ。ごきげんよろしゅう」
ベルニージュが何か言う前にそう言い残して女は立ち去ってしまう。
もう十分だろう、とベルニージュは心の中で呟く。何が起こっているのか見定めなくてはならない。
しかし行き来する人々の中で目が合った初老の女がこちらへと歩いてきて、ベルニージュの表情は強張る。
「どうかなさいました?」とベルニージュは落ち着いて尋ねる。
「夢を見たのです」と初老の鷲鼻の女は呟くように言った。
「本当に?」ベルニージュは疑うように女を見つめる。
「え? ええ、本当です」思わぬベルニージュの問いに女は怯むが、さらに続ける。「通りに面して三つの窓のある食堂に福がある。そこへ寄付しなさいと、神のお告げがあったのです」
念のためにベルニージュは扉のある壁の左右を確認する。今は窓蓋を閉じているが、確かに『微睡み亭』には通りに面して計三つの窓があった。
再び鷲鼻の女に目を向ける。何を言っても聞かなそうな雰囲気を感じた。
「預かりましょう」
ベルニージュがそう言うと、女は懐から銀貨を三枚取り出したので、片手を伸ばして受け取った。
女は何やら祈りの言葉を呟いて、歩き去る。ベルニージュは他の誰とも目を合わせないように、扉を閉めて閂を下ろす。もうユカリやキーチェカ以外の誰が来ても開かないことにする。
ゲフォードがこちらを向いているが、あいかわらず帽巾を目深にかぶっており、その表情は読めない。だが気まずそうに目線を反らし、食堂の奥の方へ向くと、神に祈るように手の指を重ね合わせた。
魔導書だろうか。ベルニージュは机の上に寄付を置いて、ゲフォードの背中を睨みつける。富が集まる奇跡だとすればシイマではなくゲフォードだろう。本人も奇跡については自覚しているかもしれない。魔導書だとまでは分かっていないかもしれないが。だとすればこの街全体の裕福さが魔導書によってもたらされているのかもしれない。ただし今までの魔導書の影響範囲から考えると、これ程の大きな街に直接影響を与えるほどの力はないはずだ。せいぜい下町をまるごと飲み込む程度だろう。とはいえ自覚的に運用すれば何一つ不自由なくこの都市を発展させることはできるはずだ。
ベルニージュは革袋だけそこに残して、麻布の包みと銀貨を持って住居の方へ戻ることにした。その間、ゲフォードは何も言わなかった。