テラーノベル
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制服のシャツを着るだけで、うめき声が漏れた。
腹の打撲は内出血を起こし、紫がかっている。
肩も腫れていて、腕が上がらない。
シャツの前を閉じる動作すら、遅々として進まなかった。
鏡を見たくなかった。
けれど、髪だけは整えなければと、ぐしゃぐしゃのまま手で撫でつけた。
「……昨日より、マシだろ」
呟いて、自分を騙すように笑った。
足元はふらついていた。
階段を降りるたび、骨の軋む音が聞こえる気がした。
台所には誰もいなかった。
父はもう出勤したらしい。晃司も、いなかった。
──今朝は、静かだった。
その静けさが逆に怖かった。
昨日のことを考えたくなかったが、身体の節々が勝手に思い出させてくる。
「……学校、行けってことだよな」
誰にも命令されていない。
だが、「行かなきゃもっと酷くなる」とわかっている。
そして──
遥はその「酷さ」の幅を、もうこれ以上広げたくなかった。
ガラッ──
扉を開けた瞬間、空気が変わった。
湿っている。
妙に視線が集まっている気がした。
それは遥の思い過ごしではなかった。
「あ、来た」
「ほんとに来たんだ」
「……マジで昨日、潰されたらしいよ?」
小さな声が耳元をなぞっていく。
囁きではなく、はっきり聞かせにくる悪意。
教室の奥で、誰かが笑っていた。
録音か何かの再生音か──音量が低いのに、音の粒が鋭く刺さってくる。
──席についたときには、机の上に紙が置かれていた。
『バカは寝ててもバカ』
筆跡は女の子のように丸いが、内容はえぐい。
遥は何も言わず、紙をくしゃくしゃにしてポケットに突っ込んだ。
すると、すぐ隣の席から声がかかる。
「……で? 昨日、なんで休んだの?」
日下部だ。
無表情で、少しだけ顔をこちらに向けている。
「まさか──体調不良?」
遥は返事をしなかった。
喉の奥に何かが張り付いて、声を出す気力がなかった。
だが、日下部は構わず続けた。
「オレとの約束、忘れてた? “勝手な判断はしないこと”って、言ったよな?」
その声が、遠くから聞こえるような気がした。
教室中に聞こえる声ではない。
だが、周囲にいた生徒数人がこちらを見てクスクスと笑っていた。
日下部は、あくまで「雑談」のように淡々としたトーンを保っている。
「……昨日、さ。オレ、言おうかと思ったんだよね、いろいろ」
遥の指先が、ピクリと動く。
「けど……ま、やめといた」
そう言って、にやりと笑った。
「今日またサボったら──さすがに、わかんないけど?」
日下部は何も明言していない。
けれど遥には、それが“脅し”であることが、痛いほど伝わった。
──言われる。
──言われたら終わる。
晃司の声より、父の罵声よりもずっと低い音で、胸の奥を揺さぶってきた。
「……うるせぇよ」
かすれた声で、ようやくそれだけ返した。
笑った日下部の目に、少しだけ──愉悦が滲んでいた。
その瞬間だった。
教室の反対側から誰かが笑い声をあげる。
「なーに? 喧嘩? ラブトーク?」
女の声だ。
視線が集まり、ざわつく。
遥は背を丸めるようにして机に突っ伏した。
「はは、マジ従順……あれ、こいつ日下部のペットか?」
別の男の声。
日下部は無表情のまま、教科書を開くフリをしていた。
だが──
遥のスマホには、バイブレーションが走った。
通知:「Kusakabe」
メッセージ:《放課後。場所はあそこ》
“お仕置き”の続きが、もう決まっていた。
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