テラーノベル
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それからの日々、私と吉沢さんは少しずつ「二人でいることが当たり前」になっていった。休日は映画を見たり、街を散歩したり、ただ家でコーヒーを飲みながら話すだけの日もあった。
彼の笑顔を見ていると、あの頃の「人を信じるのが怖い」という感情が少しずつ薄れていく気がした。
――このまま時間が止まってくれたらいいのに。
そう思う瞬間が増えていった。
ある土曜日の午後。
私は用事を済ませるため、一人で駅前のショッピングモールへ向かっていた。
夏の終わりの湿った風が頬をかすめ、少し汗ばんだ額を手でぬぐったそのとき――
不意に背後から、聞き慣れた低い声が響いた。
「……やっぱり、君だ。」
振り返ると、そこには見覚えのある顔が立っていた。
――元彼。
息が止まったような感覚。
記憶の奥から、痛みと後悔とが一気に押し寄せてきた。
別れた日の冷たい雨、泣き疲れて眠った夜、何度も繰り返した「もう大丈夫」という自分への嘘。
「久しぶりだね。」
彼はそう言って、小さく笑った。
その笑顔は昔と同じだったけれど、私の胸を締めつけるだけだった。
「……何の用?」
自分でも驚くほど、声が硬かった。
「やり直したいんだ。」
彼はためらいなく言った。
「俺、本当に馬鹿だった。あの時のこと、ずっと後悔してる。もう一度、俺にチャンスをくれないか?」
頭の中が真っ白になった。
今の私は吉沢さんと、少しずつ信頼を築いている。
けれど、この人は私の「最も深い傷」の一部だった。
言葉を探しているうちに、彼が一歩近づいてきた。
「君と別れてから、何をしても虚しかった。……もう一度だけ、君を大切にさせてほしい。」
その瞬間、ポケットの中でスマホが震えた。
画面には――「吉沢さん」の名前。
心臓が跳ねた。
この電話を取ったら、何を話せばいい?
今の状況を正直に話すべきなのか、それとも……。
私はスマホを握りしめたまま、元彼と吉沢さんの間で、呼吸の仕方さえ忘れていた。
画面に光る「吉沢さん」の名前が、妙に遠く感じる。
「……出ないの?」
元彼が私の視線を追い、口元に薄く笑みを浮かべた。
その笑みは、かつて私を惹きつけた温かさではなく、どこか計算された冷たさを帯びていた。
「君が誰と一緒にいるか、だいたい想像はつくよ。」
一歩、また一歩と距離を詰めてくる。
私の足は自然と後ずさり、背中が建物の壁に触れた。
「……やめて。近づかないで。」
「どうして? 俺はただ、君を迎えに来ただけだ。あの頃のように。」
声は優しげなのに、目はまるで獲物を狙う捕食者のように光っていた。
「もう終わったことよ。私たちは――」
「終わってなんかない!」
突然、彼の声が鋭く跳ねた。
通りを行き交う人々が一瞬こちらを見たが、すぐに興味を失ったように歩き去る。
彼は声を落とし、囁くように言った。
「君は俺のものだ。誰が何と言おうと、ずっと。」
ぞくりと、背筋に冷たい感覚が走った。
この人は、本気でそう信じている――危ない。
でも、声が出ない。
スマホはまだ手の中で震えている。
吉沢さんが、何度も私に連絡してきている。
けれど、この場で電話を取ったら、元彼が何をするかわからない。
「会いたかったんだ。本当は毎日でも、君の家の前まで行こうと思ってた。
でも、驚かせたくなくて我慢してたんだよ。」
その言葉で、心臓が強く脈打った。
――家の前?
背筋に冷や汗が流れる。
彼はすでに、私の生活圏を探っていたのかもしれない。
「……お願い、帰って。」
ようやく絞り出した声は、震えていた。
しかし彼は聞く耳を持たず、さらに一歩近づく。
「吉沢とかいう男より、俺のほうが君を知ってる。 君の笑い方も、泣き顔も、触れたときの温度も……全部。」
吐息がかかるほど近くで、その目が私を捕らえて離さない。
頭の中で警鐘が鳴り響く。
でも、体が動かない。
その時――。
「何やってるんだ!」
低く鋭い声が背後から響き、私と元彼の間に影が差した。
振り返ると、そこには吉沢さんがいた。
目は普段の柔らかさを失い、鋭く元彼を睨みつけている。
その瞬間、私の胸に安堵と恐怖が同時に広がった。
第3話
ー完ー