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俺は、渡〇翔太。
都内のそこそこ大きな会社で働く、いわゆる普通のサラリーマンだ。性格は地味め。仕事はそれなりに真面目にやってるけど、特別出世欲があるわけでもない。休日はだいたい家にこもって録画番組を消化して、観葉植物に水をやって、顔パックして終わる。
…まあ、そんな感じで、俺はもう30歳になった。
30歳。
節目の年齢。
人生の折り返しとか、男の本当の勝負はここからだとか、いろんなことを言われるけど——
そんな俺の30歳初日は、なんというか、**「世界観バグってんのか?」**ってくらい、わけがわからなかった。
出勤途中、改札で小走りしてたら、通りすがりの人と肩がぶつかった。
「あ、すみません」ってお互いに軽く会釈したその瞬間——
『朝からコーヒーこぼして最悪。てか遅刻かも…上司また小言言ってくんだろな……あ〜あ、家出たくなかった〜』
——…声が聞こえた。いや、心の声が、だ。
しかもその人、口は開いてない。普通に歩き去ってった。
意味が分からなすぎて、駅の柱の影で3分くらい固まった。
まさかと思って、駅員さんの制服の袖に触れてみる。
『終わったらビール……終わったら絶対ビール……』
うん、これ、ガチだ。
人に触れると、その人の考えてることが聞こえる。
テレビの中の超能力とかじゃなくて、現実で、俺に。
今日から。ていうか、30歳になった途端に。
しかも何がタチ悪いって、この現象、無差別で、しかも止められない。
エレベーターでうっかり後ろの人と腕が当たる。
電車の吊り革を持ってたら、隣の人の手の甲と触れる。
そのたびに、頭の中に**「マジで上司うざい」「今日もあの人の香水キツい」「あの営業の奴、鼻につく」**とか、もう聞きたくもない心の叫びがどんどん流れ込んでくる。
そして俺は悟った。
これは——
「30歳まで童貞だと、魔法使いになれる」っていう都市伝説、
まさか本当だったのか?
いやいやいやいや、そんなバカな話……って思ってた。ずっと。
けど、現に俺は今、他人の心が読めるという、どう見ても魔法的な力を手に入れてしまった。
……童貞のまま30歳になった代償(?)がこれか。
報われてるのか、地獄なのか、全然判断つかない。
とにかく、これは俺の30代の幕開けにしては、あまりに衝撃的すぎた。
――――――――――――――――――
翌朝。
魔法(?)の存在をまだうまく消化できないまま、なんとか会社のロビーまでたどり着いた。
……で、よりによってその日、エレベーターが混んでた。
しかもドアが開いた瞬間、真ん中に立っていたのは、俺と同期の——
宮〇涼太。
スーツ姿がいつもキマってて、笑顔は爽やか、言葉遣いは丁寧で気配りもできる。
営業部でも常にトップ成績、いわゆる「できすぎな男」。
入社以来、社内の“宮舘ファン”は男女問わず多くて、誰にでもやさしいけど、妙に一線を引いてる感じがまた人気らしい。
俺とは同期だけど、正直あんまり接点はない。
挨拶する程度、仕事が被ればやり取りするくらい。
……だから別に、こんなに意識する相手じゃなかった。昨日までは。
「おはよう、渡辺くん」
「……あ、うん。おはよ」
エレベーターに2人きり。
空気、妙に静か。心なしかちょっと気まずい。
そう思った瞬間——また、あれが聞こえた。
『あ、今日もかわいいな……あれ、なんか寝癖ついてる。いや、むしろそれが……めっちゃ良い。無防備…………』
「……っぶ!!」
俺は反射的にむせた。
いやちょっと待て。今の誰だ?こいつ、社内に推しでもいんのか?
寝癖ついてるかわいい?……って、まさか……
そっとエレベーターの壁にある鏡を見てみた。
そこには、バッチリ右側の髪がはねた自分の姿。
——終わった。
それ、俺じゃん。
「……っっっっ!?」
混乱してるところに、エレベーターが急にガタンと揺れた。
ビルの老朽化のせいか、一瞬バランスを崩し、俺は体勢を立て直すために、壁側に寄っていた舘様の腕に——手を重ねてしまった。
——その瞬間。
『あああああまた手ぇ当たった…やばい…今日も近い…寝癖かわいすぎてしんどい…!ていうかもうマジで無理、隣で笑われるだけで好きが漏れる…いやもうとっくに漏れてる…渡〇翔太が、好きすぎて、ほんっとにヤバい……!!!』
——ど う し よ う。
完全に心の声じゃない。これは愛の大洪水。
耳に残るっていうか脳にこびりつくっていうか、もう一度もらっても処理できないほどの**「俺への恋心」**が、エース・宮〇涼太から流れ込んでくる。
「……う、そだろ……」
俺は目を見開いて、そっと手を離した。
宮舘は何事もなかったように、「大丈夫?」と微笑んでいた。
でも俺はもう、心の中がとんでもないことになっていた。
——宮〇涼太が、俺のことを好き?
しかも、“好きすぎてヤバい”レベルで。
現実感がなさすぎて、夢かと思った。
でも寝癖はあるし、手も触れたし、心の声も聞いた。
どうやら、これが……本当の、始まりなの?
エレベーターを降りてからの記憶が、曖昧だ。
たぶん、無表情を装って歩いてたけど、口の端とかピクピクしてたと思う。自分で分かるレベルで顔面がうるさかった。
脳内ではさっきのあの声がリピート再生されてる。
——『渡〇翔太が、好きすぎて、ほんっとにヤバい……!!!』
うん、もうやめて。無理。頭パンクする。
やっとの思いで自分の席にたどり着く。
背もたれに沈み込むように座りながら、小さく深呼吸した。
俺のデスクは、営業部の壁際の端。
一方で、宮舘の席は部屋の反対側、窓際の島。ちょうど死角。
話す時は通路を挟む形になるから、基本的に離れてる。
それが、今だけはありがたい。
……でも、安心したのも束の間だった。
ビビビ……っていう、言葉じゃない第六感みたいなやつが、背中を突いてくる。
なんか、見られてる気がする。いや絶対見られてる。
心の中で「見んな!見んな!こっち見んな!」と念じながら、書類に集中するフリをした。
(でもやっぱ見てるよな!?視線感じるよな!?)
顔を上げたいけど、目が合ったら終わる。
あの“好きすぎてヤバい”の中の人と、今ここで目が合ったら、俺のライフはゼロになる。即退社だ。
っていうか、俺いま完全に“舘様の好きな人本人”っていう社内非公開重大情報、本人より先に知っちゃってるわけで。
そんなの重罪じゃない?もう罪状がでかすぎて手錠して帰ったほうがいい気がする。
ちらっと同僚のパソコン画面を覗き込んでるフリして、そっとあくびしてる風の顔で周囲を確認する。
すると——
舘様、デスクの間からこっち見てた。
しかも、なんか……ほわっと微笑んでた。
エースの余裕の笑み。犯人を見つけた刑事のような穏やかな顔。
顔面が熱い。手のひらもしっとり。心拍数120超えてる。
Apple Watchあったら「深呼吸してください」って通知くるレベル。
俺はただの平社員で、しかも恋愛未経験で、魔法はおまけでしかないのに。
社内の王子様に、好きだ好きだ言われて、
勝手に心を読んで、勝手に動揺して、
そして今、勝手にめちゃくちゃ意識してる。
……いや、ほんと、どうすんだこれ。
午前10時半。
会議資料の提出が10時の予定だったことを、俺が気づいたのは——
10時25分だった。
(やばい、やっっっっばい……!!!)
完全に提出漏れ。しかも上司が朝から何度も「時間厳守で」って言ってたやつ。
なんでこんな大事なとこでミスるんだ俺!昨日の寝癖どころじゃない!
今なら自分にツッコミいれられる。「魔法使ってる場合じゃねーだろ!」って。
あたふたしながら資料をメールで送り、上司に駆け寄る。
けど当然ながら、機嫌は悪化済み。
「渡辺くんさあ、これ今日の会議で使うって言ってたよね?」
「す、すみません……確認不足で……」
「確認不足?それって何回目?最近ちょっと気が抜けてない?“なんとなく”で仕事されたら困るんだけど?」
「……はい……」
怒られるのは久しぶりだった。
30にもなって、立ったまま上司に注意されてるこの状況、地味に精神削られる。
周囲の視線も感じる。誰も口には出さないけど、やっぱり見てる。
「怒られてるなー」って空気。しんどい。逃げたい。
でも、一番視線を感じる方向だけは、どうしても見られなかった。
それでも、どうしても気になって、そっと目だけ向ける。
そして、目が合った。
心配している。
心の声なんか読まなくても分かる雰囲気だった。
(……なんだよ、もう……)
怒られてるのに、胸の奥がじわっと熱くなる。
苦いのに、あったかい。
どうしようもなく恥ずかしくて、でも……少しだけ、救われた。
「……気をつけて。次、頼むよ」
上司がため息をついて去っていく。
深く頭を下げたあと、俺は一瞬だけ宮舘のほうを見た。
そしたら、彼はまだ同じ場所で、俺のことを見ていた。
ただ、それ以上はなにもせず、そっと目を伏せて、パソコンに向き直った。
——コチ、コチ、コチ。
会議室の壁掛け時計が、やけに大きく秒針の音を響かせていた。
静まり返ったオフィスの中で、その音だけがやけにリアルに聞こえる。
さっきまでいた喧騒はすっかり消えて、今は俺と、蛍光灯の光と、やり残した仕事だけが残っている。
目の前のパソコンに向かって、資料をひとつずつ修正していく。
文字を打つたびに、間違えたキーを押して、ため息が出る。
今日は、ほんとに何もかもがうまくいかない日だった。
「……はぁ……」
深く、長い、情けないため息が漏れる。
自分でも呆れるくらい、疲れていた。
身体も、頭も、気持ちも。
今日、朝からずっと調子が悪かった。
心の声が聞こえるとかいう、現実離れした魔法みたいなものに翻弄されて、
会社のエースのとんでもない“気持ち”を知ってしまって、
集中しようにも頭の中はカオス。
極めつけは、大事な資料の提出ミスで、上司に怒られる始末。
何をしてるんだろうな、俺。
ふと、パソコンの横にあるデジタル時計を見る。
「21:42」
同じ部署の誰もいない。いつもなら、宮舘が「帰ります」って声をかける時間だ。
あの人、残業ほとんどしない。効率いいから。
(ああ……たぶん、今日はもう帰ってるよな)
それが、少しだけ……寂しいと思ってしまった自分に気づいて、
苦笑いが出た。
「……なにやってんだろ、俺……」
パソコンのモニターに映る自分の顔は、ひどく疲れてた。
目の下にうっすらクマ。表情も死んでる。
でも何より、心がずーんと重たい。
“好きすぎてヤバい”
その言葉の破壊力は、ずっと尾を引いていた。
しかも言ったのは、宮舘涼太。同期で、仕事ができて、社内でも人気者で。
……俺とは、まるで違う人種みたいな存在。
なのに、その人が、俺のことを……?
頭のどこかで「そんなはずない」って思い続けてる。
でも心のどこかが、あの声を確かに覚えてる。
うれしい……とか、そんな余裕はない。
ただ、どうしたらいいのか分からなくて、
とにかく、疲れた。
「早く……寝たい……」
そうつぶやいて、またキーボードに手を伸ばした。
時計の針は、止まってくれない。
今日という日が、終わるのをじっと待つしかない。
「——おつかれ。」
唐突に、声が降ってきた。
まるで静かな映画のワンシーンに、誰かが不意に音を足したような、そんな響きだった。
びくっとして振り向くと、
そこに宮〇涼太が、いた。
スーツのジャケットは脱いで腕にかけていて、
ワイシャツの袖をラフにまくってる。
手には、缶コーヒーが二つ。
俺は思わず口を開けたまま固まった。
「……え、えっ、なんで……もう帰ったんじゃ……」
「ううん。ちょっと別件で外回ってた。さっき戻ったら、まだ明かりついてたから」
そう言って、俺のデスクの横にストンと缶コーヒーを置く。
「甘いの、でよかった?」
「……あ、うん……ありがとう……」
缶は少しだけ温かくて、
それを両手で包んだ瞬間、じわっと体がゆるむのが分かった。
なんか、ダメになる。誰かに優しくされると、こう、急に。
「今日さ、怒られてたよね?」
「……うん。ミスしたから」
「そっか。まあ、誰にでもあるよ。俺もこの前、メール送信ミスって資料古いバージョン渡した」
「え、それ舘様が?」
「“様”いらないから。普通に俺もポカるよ」
軽く笑ってるけど、それが逆に救われた。
怒られるのは俺だけじゃない。完璧に見えるこの人にも、ちゃんと「ミス」がある。
「で?どこまで終わってる?」
「え、いや、大丈夫……もうすぐ終わるから、舘様は——」
「だから、“様”いらないって。手伝うよ」
即答。あまりにも自然で、押しつけがましくなくて。
でも逃げられないくらいの強さがあった。
「……でも、自分の仕事じゃないし……」
「じゃあ、**“残業に巻き込まれた同僚”ってことで」」
そう言って、彼は俺のパソコンのサブチェアをくるっと引いて座った。
俺が言い返す暇もなく、画面をのぞき込んで、
「これ、俺がフォーマット整理する。翔太はグラフまとめちゃって」
と、どこまでも自然な流れで分担を決めていく。
名前呼ばれた。下の名前で。
心臓が一拍ぶん、明らかに跳ねた。
(……この人、やっぱずるいな……)
だけど、断れなかった。
というか……たぶん、どこかで断りたくなかった。
缶コーヒーの温もりは、もう消えかけていたけど、
代わりにその隣にいる人が、俺の夜を少しだけ温かくしてくれていた。
カタカタ、カタカタ。
静かなオフィスに、キーボードの打鍵音だけが響いている。
気づけば、二人並んで作業するのも、もう10分は経っていた。
会話はほとんどしていない。
でも、不思議と心地よい沈黙だった。
そんな中、不意に自分の中で引っかかっていたものが、言葉になってこぼれた。
「……名前呼び……」
ぼそっと、つぶやいたつもりだったのに、
隣の男はすぐに反応した。
「ん?なに?」
「あ……いや、さっき……普通に名前、呼ばれたなって」
目線は画面のままだけど、少し笑ってるのが分かった。
「嫌だった?」
「……いや。別に、いいけど」
「じゃあさ」
カタカタとタイピングを続けながら、自然すぎるテンポで、彼は言う。
「翔太も、俺のこと“涼太”って呼んでよ」
「は?」
「なんかさ、名前の雰囲気似てるし。語感?」
「語感……」
思わず苦笑いが出た。
真面目な顔して、さらっとよくわからないこと言うなこの人。
でも、それがたぶん、宮舘・涼太の“普通”なんだろう。
「……じゃあ、試しに呼んでみてよ。ほら」
「いや今、仕事中だし」
「別にいいよ。どうせ二人しかいないし」
言い返せない。
というか、なんでこんなに自然に“名前呼び”ハードルを下げてくるんだ、この人は。
(……やっぱ、すごいな)
仕事の手を止めずに、人の気持ちにするっと入り込んでくる。
しかも押しつけがましくない。余裕があるようで、ちゃんと相手を見てる。
さっきまで怒られてた俺に、まるで“気まずさ”なんて感じさせないような空気を作ってくれてる。
その余白のつくり方が、ほんとに上手いと思う。
それを思った瞬間、ふと、手が触れてしまった。
『翔太が名前呼んでくれたら……たぶん、今日はすっごくよく眠れる気がする』
……聞こえちゃった。
また、うれしそうな声で、そんなこと言う。
「……じゃあ……涼太」
つい、声に出してしまっていた。
涼太がキーボードを打つ手が、少しだけ止まった。
でもすぐに、ふっと笑って、
「うん。いいね、やっぱ似てる」
と、まるで何でもないみたいに返してきた。
だけど俺は今、自分の顔がめちゃくちゃ熱いことを自覚していた。
缶コーヒーよりも、たぶんずっと。
「……よし、こんなもんかな」
涼太が画面を確認しながら、少し背伸びをした。
つられて俺も椅子から身体を起こして、保存ボタンを押す。
さっきまでテンパってた資料が、ちゃんと整って、提出できる状態になってる。
あれだけ山のように見えた作業が、気づけば終わっていた。
「……助かった。ほんとに、ありがとう」
素直に頭を下げると、横から返ってきたのは、
「うん、おつかれ」
という、短くて、でもすごくあたたかい一言だった。
時計に目をやる。
22:58。まあまあ遅いけど、駅まで急げば——
……と思った瞬間、嫌な予感がしてスマホを取り出す。
時刻表アプリを開いて、最寄り駅を検索。
表示された文字を見て、思わず声が漏れた。
「……うっわ、終電……逃してる……」
涼太が「え?」と俺のスマホをのぞき込んで、すぐに状況を察する。
「マジか。まあ、時間的にギリだったもんね」
「やっべ……ホテル……いや、でも空いてるかな……」
一気に現実が押し寄せてくる。
財布の中身とか、明日のスケジュールとか、いろいろ計算しながら眉間にしわを寄せていたら——
「……じゃあ、うち来る?」
あまりにもさらっとした声だった。
「……は?」
「俺んち、会社から近いし。明日の朝、そのまま出社すればいいじゃん」
言ってることは理にかなってる。
めちゃくちゃ合理的だし、たしかに助かる。
でも——
「いや、それ……迷惑だし……」
「迷惑じゃない。っていうか、俺が言ってるし」
「え、でも、俺、そんなつもりじゃ……」
「“そんなつもり”って?」
その一言に、喉が詰まる。
違う。別に、変な意味で考えたわけじゃない。
でも、でもさ。
あの“魔法”のせいで、こっちはもう舘様が俺に向けてる感情を、知ってしまってる。
この誘いも、「ただの好意」なのか「それ以上」なのか、もうわけがわからなくなる。
それでも、目の前の涼太は、
さっきと何も変わらない穏やかな顔で、缶コーヒーを飲みながらこっちを見ていた。
(……俺、どうすれば……)
内心ぐるぐるしてるのに、時間だけがどんどん過ぎていく。
終電はもう戻ってこない。選択肢は限られている。
でも——それでも、今夜、この人の家に行くっていうのは……
「……」
次の言葉が、どうしても出てこなかった。
「じゃあ、行こっか」
そう言って、涼太がエレベーターのボタンを押す。
もう後には引けない空気だった。
(……うわ……マジで行くのか、俺……)
とりあえずうなずいたけど、心の中はパニックパニック。
会社の外に出て、夜の空気を吸っても、一向に頭は冷えない。
それどころか、むしろどんどん熱を持っていく。
(待って、普通に考えてこれ、やばくない?)
(いや、別にやましいことはない。舘様はそんな人じゃない。そう信じたい)
(でも、でもだよ?)
(“俺の家来る?”って……それって、え、やっぱそういうアレじゃん?)
隣では、いつも通りの顔をした宮舘・涼太が、ポケットに手を突っ込んで歩いている。
夜風に前髪がふわっとなびいてて、いやいや、かっこいいなおい。
やめろ、顔見るな、混乱が加速する。
(ていうかさ、こういう時って、どうすんの?)
(“流れでそういう感じになる”ってやつ?いや、なるの?)
(え、俺童貞なんだけど?マジで、こういうときって、何が正解なの?)
頭の中に、過去に観た深夜ドラマとか、AVとか、ネットの創作とか、
なんの役にも立たない雑な知識が高速で流れ出してくる。
(まずシャワー借りる?タオル?服は?てかパジャマとかあるの?)
(うわもう無理、想像するだけで動悸やばい……心臓に悪い……)
(てか仮にそうなったら……俺、絶対途中でテンパってやらかす未来しか見えない)
そんな思考の大洪水の中でも、
隣の涼太は、何食わぬ顔で駅からの道を歩いていた。
時々「この曲がり角の先」とか「あと5分くらいかな」とか、
普通にナビしてくれるのが逆に怖い。落ち着きすぎてて。
(……この人、こういうの、慣れてるのかな……)
(あれ?俺、今めちゃくちゃ変な方向に嫉妬しそうになった?)
だめだ、もうわけわかんない。
冷静ぶって歩いてるけど、俺の中では今、会議室で500人くらいが大声で「どうするべきか会議」してるレベルの混乱だ。
とりあえず、落ち着こう。うん。
まずは、部屋に着いてから考えよう。
(……って、着いたら着いたで、またパニクる未来しか見えないんだけど)
「おじゃまします……」
おそるおそる足を踏み入れた部屋は、
予想以上に“舘様っぽい”空間だった。
間接照明がふわっと灯る落ち着いた照明。
家具はシンプルだけど品があって、どれも統一感がある。
ソファも、クッションも、どこかホテルライク。
「え、……すご」
思わず声が漏れた。
「ん?何が?」
「いや、キレイ。ていうか……ちゃんとしてるんだなって」
「まあ、汚いの落ち着かなくて。疲れた時こそ、整ってるとこ帰りたいじゃん」
「……なるほど……」
(なんか……ちゃんとしてる男って感じ……)
スーツを脱いだ涼太が、その辺のラックにサラッとかける動作すら様になってて、
ついじっと見てしまった。
「とりあえず、これ。シャワー先に使う?それとも飲み物?」
「え、あ、じゃあ水もらっていい?」
「了解」
台所に向かう後ろ姿を眺めながら、ふと視界に何かが入った。
棚の端に、整然と並んだスキンケアアイテムたち。
その中に、見覚えのあるパックが置かれていた。
「あっ……これ、俺も使ってるやつ」
思わず立ち上がって指さすと、涼太がコップを持ったまま振り返った。
「え、マジ?これ、いいよね」
「うん!パックの密着感、全然違うよな」
「でしょ?他のだと物足りなく感じちゃう」
(あれ、なんかすげえ盛り上がってる……)
さっきまでの緊張感が、一気に薄れていく。
思いがけない“美容パック仲間”の発覚に、テンションが上がっていた。
「ちなみに、週何で使ってる?」
「最近は毎晩……肌の揺らぎやばくて」
「うわ、それ分かる。季節の変わり目、地味にくるよね」
「マジで。あと乾燥のケアも……あ、やば。俺、普通に語ってる」
「いいじゃん。そういうの、翔太っぽい」
「……いやなんか、恥ずかしい」
でも、不思議と嫌じゃなかった。
いつのまにか“距離”が、数歩分縮まってた。
涼太がソファに座りながら、コップを差し出す。
「ほら、水。落ち着いた?」
「……うん。なんか……ありがとう」
「美容の話で落ち着けるの、最高だね」
「……たしかに」
笑って言い合える空気が、あまりにも自然で、
それがかえってちょっと怖くなる。
この人の隣、落ち着きすぎてて、
どこかに引きずり込まれそうな感覚になる。
――――――――
「シャワー、使っていいよ。タオルここにあるから」
そう言って、涼太がバスタオルとフェイスタオルを手渡してくる。
タオルすらふわふわで、柔軟剤のいい匂いがする。
……こういうところでも、ちゃんと“舘様”なんだよな……
「じゃあ、お先に……」
「ごゆっくりー」
脱衣所のドアを閉めて、シャツを脱いだ瞬間、全身の神経がざわつく。
(やば……舘様の家の風呂とか……なんか……緊張すんだけど……)
体を洗うというより、緊張を洗い流したい気持ちのほうが強い。
シャワーを浴びながら、頭の中ではさっきからずっとぐるぐる考えが回ってる。
(落ち着け……ただのシャワー。何も起きてない。今のところ、ただの親切な同僚の家に泊まるだけ……)
(でも、でもさ。あの“好きすぎてヤバい”のやつ……あれが頭から離れない……)
(てかこれで今日、寝れんの?俺、舘様の家で?いやムリでは……?)
泡を流しながら、ため息をついた。
リラックスできるはずの時間が、一番心拍数上がってるという矛盾。
それでも、風呂場は綺麗で、ボディソープの匂いもよくて、
結局のところちょっと癒されてる自分がいた。
──
「ふう……おじゃましました……」
髪をタオルで拭きながらリビングに戻ると、
なんとそこには、きっちり敷かれた布団が一組。
「……あれ?」
思わず声が出た。
しかも、枕元には寝間着代わりにゆるっとしたTシャツと短パンが置いてある。
サイズも……なんかちょうどよさそうだし。
(……あれ?思ってたより……めっちゃ普通……)
勝手に身構えてた自分が、ちょっと恥ずかしくなって、
そっと布団の端に腰を下ろす。
「おまたせ、じゃあ俺も入ってくるね」
「……あ、うん」
涼太は風呂道具を持って、いつも通りの足取りでバスルームへ向かった。
本当に、それだけだった。
なんか、変にドキドキしてたのがバカみたいで、
でもちょっと安心して——でもその安心が、逆に胸を締めつけてくる。
(なんだよ……やっぱ、この人、ちゃんとしてるんだよな……)
(ちゃんと優しくて、ちゃんと距離感守ってくれる。……そんなの、ますます……)
そっと横になって、ふかふかの布団に包まれた。
(……今日は……もう、無理……)
そう思いながら、布団に潜り込んだ翔太は、目をギュッと閉じた。
(シャワー、いい匂いした……部屋、綺麗すぎた……涼太、やさしすぎた……)
(あと、あのパック……いや待て、もう思い出すな)
布団の中はあたたかくて、
でも心は落ち着くどころか、ずっとソワソワしてる。
(このまま寝たふりしとこ……!それが一番平和……)
気配に集中する。
——しばらくして、バスルームのドアが開く音。
バスタオルの擦れる音、スリッパの音、そして足音がだんだん近づいてくる。
「翔太……?もう寝た?」
低く、でもどこかやわらかい声。
その声だけで、ドキッとする自分がいて、思わず肩がぴくりと動いてしまった。
(やばい……バレてないよな……?)
返事をしないまま、寝息っぽい呼吸を意識する。
が、気配は止まらない。むしろ——近づいてきてる……!
(……え?まさか、何か……しようとしてる……?)
息が詰まる。心臓がバクバクいってるのに、
身体はぴくりとも動かさないように、必死に“寝たふり”を続ける。
そして、ふいに——
“ふれる”気配がした。
指先が、自分の髪のあたりに……
(やばい……読もう、読んでしまえ!これ以上ドキドキするの無理!!)
思考を拾おうと意識を集中する——その瞬間。
すっ……
「……俺のスマホこんなとこに」
(……え?)
目を開けそうになるのを、ぐっとこらえる。
静かに足音が遠ざかり、部屋のドアがふわりと閉じられる音。
部屋に、再び静寂が戻る。
(……え?なに今の)
(スマホ……だけ?それだけ?……俺の心臓返して?)
ひとり布団の中で、訳も分からず脳内が混乱する。
ドキドキを返せとは言わないけど——もうちょっと心の準備くらいはさせてほしい、
そう思いながら、俺は再び枕に顔を埋めた。
続きはnoteで作者名『木結』(雪だるまのアイコン)で検索して下さい。