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朝の光はいつもどおり校庭のコンクリートを白く照らしている。だが、その光に含まれる意味は以前とは少し違っていた。光はただの光であっても、そこに人の視線が加わると“見られる光”になり、人は自然と身をすくめる。校門のところで、ことははそのちいさな変化を感じ取っていた。昨日までの慣れた視線が、今日は誰かの観察のために整えられているように見える。彼女は背筋を伸ばし、クラスのドアを押した。
職員室の湿った空気の向こうで、佐久間先生が何度もため息をついている。ことはは廊下を通る短い時間の間に先生の顔を読み取った。額の皺、唇の動き、先生の掌に残る消しゴムの粉――どれも、日々の責任と不安を映す小さな証拠だ。先生はことはの姿を見ると一瞬ホッとしたように微笑んだが、その笑顔はすぐに影を取り戻した。
「ことは、あとでちょっと話があるんだ」佐久間先生の声は低い。ことはは静かにうなずく。やがて教室の前で、ことははクラスメイトの顔を順に見渡した。真白はリボンをぎゅっと直している。花北の指先は相変わらず震えている。西田はノートの角に蛍光ペンで印をつけ、目は冷たく光っている。双子は互いに小さな合図を送り、遠くの方へ視線を泳がせる。宮沢は教室の一角で、じっと窓の外を見ている。すべてがいつもどおりのようで、しかしどこかが決定的に違っていた。
午前中の授業が終わるころ、職員室前に数台の車が停まり、見慣れない大人たちが校門を入ってきた。ことははその異物感に胸がざわつくのを抑えられなかった。大人たちは控えめな黒のコートを羽織り、手には薄い書類鞄を持っている。綾川兄妹だった。綾衣ではなく、綾川瑠衣。瑠璃。兄の瑠衣は落ち着いた佇まいで、端正な顔立ちに冷静さが宿る。妹の瑠璃は兄より細やかに動き、感情の波を読もうとするように周囲を軽く観察する。ふたりが学校に入ると、空気はまたひとつ引き締まる。
「綾川さんたちが来てくれたんだって」大山が小さな声で伝えた。保護者会からの依頼で、学校側が綾川探偵事務所に連絡を取ったらしい。外部のプロの視線が入る──それは希望であると同時に、ある種の重圧でもある。ことはは胸の中で小さく拳を作った。真実が早く出ることを願う気持ちと、それが暴かれることで誰かが深く傷つくかもしれない恐れとが同居している。
綾川兄妹はまず先生や保護者代表と短く打ち合わせをした後、クラスルームに入ってきた。瑠衣が口を開いたとき、その声は低く、言葉は慎重だが明晰だった。
「こちらが今回の担当になります。生徒のみなさんには、できるだけ普段どおりに過ごしてもらいたい。変化があると、それが調査の妨げになることがあります」瑠衣の言葉は穏やかで、だが確実に計算された重みがあった。瑠璃は前に出て、にこやかだが観察眼の鋭い笑みを見せる。「私の方からは、皆さんの感じる些細な違和感も聞きたい。小さなことが手がかりになることが多いんです」
生徒たちは戸惑いながらもうなずく。だが、その表情の奥には確実に疑念と期待が交差している。ことはは瑠衣の目を見返した。冷静だが決して冷たいわけではない。どこかで、「観察者」としての距離を保つ覚悟が見えた。ことはは彼らに何かを期待しつつ、自分たち自身でも動かなければという責任を捨てられない感覚に捕らわれる。
綾川兄妹は翌日から本格的な調査を開始した。瑠衣は防犯カメラ映像の解析や、校内外の時間軸の再構築を行い、瑠璃は生徒個別への聞き取りを積み重ねていく。ふたりの手法は具体的で、しかしひとつの共通点があった——「感情の痕跡」を見逃さないことだ。瑠衣は冷静に事実の網を張り、瑠璃は人の目の奥の動揺を拾い上げる。その併走は探偵としての補完関係をはっきり示していた。
だが問題は、その存在自体がクラスの空気に新たな歪みを生むことだった。誰もが無意識に身を守り、言葉を選ぶようになった。夜のグループチャットでは、探偵が来る前にはなかった「情報の温存」が始まる。誰かが有力な証言をするたびに、その言葉は瞬時に議論され、編集され、消費される。嘘に蓋をするような沈黙もまた、信頼の剥がれを隠す布となった。
ことはは綾川兄妹に短いメモを渡し、佐藤愛子の机にあった「もうすぐ」という紙のコピーとリボンの写真、そして自分のノートの一部を見せた。瑠衣はそれを受け取り、ページの端を指でなぞった後にゆっくりと顔を上げた。
「あなたは、よく観察していますね」瑠衣の評価は淡白だが、ことはの胸には小さな誇りの火が灯った。「ただし、観察は常に盲点を作ります。近くを見るほど、遠くが見えなくなる。それを補うのが探偵の仕事です」その言葉はやさしく、同時に鋭い。ことはは自分の観察力が誰かの助けを必要とすることを、素直に受け入れた。
聞き取りの時間、瑠璃はクラスメイト一人ひとりの横にそっと座り、柔らかい声で言葉を引き出した。「その日は何時に帰ったの?」「その後、誰と会った?」「なんでその場所にいたの?」小さな質問が積み重なるうちに、些細な矛盾が輪郭を持ち始める。西田は最初、表情を崩さなかったが、瑠璃の質問が続くにつれて瞳の奥の不安が見え隠れした。花北は感情が先に出て、言葉が乱れる。真白は笑って誤魔化してしまう。宮沢は答えを選ぶのに時間をかける。ことははその全てを見つめ、メモを取り、人物の動線と心理の相関関係を心の中に組み込んでいった。
しかし、綾川兄妹の介入にも関わらず、決定的な手がかりは簡単には姿を見せなかった。防犯カメラの死角、偽装されたログ、そして誰かが意図的に改変した情報の断片——それらはあまりにも用意周到で、探偵とて一朝一夕で破れるものではない。瑠衣の眉が一度硬くなったのは、画面に映る一瞬のシルエットが、複数の人物の動線と矛盾していたときだ。だがその矛盾は確信に変わる寸前で消え、歯痒さだけが残る。
不確実さは学級の内部に新たな戦略を持ち込んだ。誰もが自分の行動を記録し始める。スマホの位置情報を保存し、通話履歴をスクリーンショットし、夕方の行動を誰かに証言してもらおうとする。信頼の証拠を物として提示する行為は、かつては必要なかったが、いまや自己防衛の基本になった。ことははこれを見て複雑な感情を抱く。証拠を求めることは真実を近づけるが、そのプロセスが人を監視へと向かわせる。監視は信頼を蝕み、信頼の欠如は更なる監視を生むという悪循環だ。
ある夕方、綾川瑠衣と瑠璃はことはを校庭の端に呼び出して、小声で話した。瑠衣の眼差しは真剣だ。
「ことはさん、君の観察ノートを見せてもらえないか。クラスの動きがわかる資料として参考にしたい」ことははためらいなくノートを差し出す。自分の記録が誰かに読まれるのは恥ずかしい気もするが、今は恥よりも真実だ。瑠璃はノートに目を走らせ、ふっと息をついた。
「あなた、ことはさんは人の心の裂け目を見つけるのがうまい。けれど、その穴を見つけたとき、どう埋めるかが重要です。私たちは誰かを浮かび上がらせる役割はできても、その後の関係を修復することはできないことが多い」瑠璃の言葉は柔らかいが、冷たさを含んでいる。ことはは胸が詰まりながらも、うなずいた。探偵は真実を照らすが、その光は必ずしも温かくない。
調査が進むにつれて、ある奇妙な傾向が見えてきた。匿名アカウントの投稿時間帯と、校内の薄暗い時間帯が一致しているのだ。その時間帯は放課後すぐから日没後の間に集中し、人々が最も油断する瞬間に駆け込むように情報が投下されていた。だがその時間にクラスメイト全員が同じ場所にいたわけではない。複数の証言が些細にずれており、そのずれがひとつの計算された混乱を生んでいる気配があった。
ことはは夜、ノートのページをもう一度めくり直した。綾川兄妹が見つけられないものは、もしかしたら「人の心の仕組み」そのものかもしれない。誰かが人の感情を逆手に取り、疑いを撒き散らすことで集団を動かしている。だが「誰か」はまだ見えない。見えないからこそ、その存在はいつも近くにいるように感じられる。
ある朝、クラスの掲示板にまた新しい貼り紙が出た。今度は誰かの名前ではなく、短い命令形が並んでいた。「黙れ」「見ろ」「動くな」その文字列は乱暴で、煽動的だ。生徒たちはその紙を恐れると同時に、心の底で刺激を受けている自分に気づく。誰かが仕組んだ演劇の台本の一部でもあるかのように、言葉が行動を引き出し、行動が噂を生む。綾川兄妹は紙の縁を慎重に調べ、筆跡の検証を試みるが、結果はまたしても決定的ではない。
夜遅く、ことはは自分の部屋の机にノートを広げ、ペン先を震わせながら書き込んだ。「探偵が来ても、心は隠れる。探偵がいる影響で、人は余計に嘘をつく」その文章は冷静な観察と、誰にも言えない焦燥でできている。だが、ことはにはまだ希望があった。希望は探偵に対する盲信ではなく、自分たちの中に残された小さな優しさだ。誰かが失踪し、誰かが傷ついている今、その優しさを見失うわけにはいかない。
翌朝の朝礼で、佐久間先生は全校生徒に向けて、冷静な説明と協力の呼びかけを行った。外部の大人たちが見守り、学校は一丸となって対応している、と。生徒たちの目には疲れと不安が宿っているが、先生の言葉は一瞬だけその波を抑えた。しかし長くは続かない。放課後になると、匿名のアカウントは新しい投稿で学内の一部の動きを示し、どんどん状況を攪乱する。
ことははふと思った。真実が明らかになったとき、クラスはどう変わるのか。誰かが犯人だった場合、罰と修復のどちらが先に来るべきか。社会は裁きを先に与え、癒やしを後回しにするのが常だ。ことはは自分がその狭間で何を選ぶかを考える。選択はいつも容易ではない。だが、彼女は決めている。真実を追い、同時にできる限りの優しさを持ち続ける——それが自分のやり方だと。
綾川瑠衣はことはのその決意を見抜くように、ふと優しく笑った。「君がいるから、全体が少し保てている。だが、ことはさん、警戒しすぎて人を見逃さないでほしい。観察は人を分断しがちだ。誰かを守るということは、時に自分が傷つくことも意味する」その言葉はことはの胸に突き刺さり、同時に温かい灯をともした。ことはは小さくうなずき、自分のノートのページをしっかりと閉じた。
その夜、ことはのスマホに一通のメッセージが届く。差出人は見知らぬ番号だ。本文は短く、ただ一行だけ——「見つけたよ」それだけ。ことはは指が震えるのを感じながら、その文面を何度も読み返す。期待か、罠か、挑発か。文字はどれも同じ白黒の世界だ。ことはは深呼吸してメッセージを保存した。綾川兄妹にも共有すべき情報かもしれないが、まず自分で内側を整理したかった。
窓の外では、夜風が桜の枝を静かに揺らす。風に乗る花びらはいつかの春の記憶を運ぶようで、ことははその柔らかな景色に心を委ねる一瞬を持った。探偵が来て、外部の目が入り、証拠が集められ、しかし答えはまだ遠い。だがことはは確信していた——このクラスの空気はもう元には戻らない。戻らないからこそ、これからの道を自分たちで切り拓くしかないのだと。
第5話はここで終わる。探偵の登場は希望でもあり、新たな緊張の始まりでもあった。次はその緊張がどのように破裂し、誰かの行動が物語を大きく揺らすかを描いていく。ことはの手は既に動き続けている。真実を求めるその手が、次にどんな痕跡を掴むのか——それはまだ、誰にもわからない。