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逃げるは恥だが役に立つパロディ~だてなべ編~
「家事代行は恋の始まりでした」~だてなべ編~
仕事、ねぇよ。
毎日が日曜日生活もそろそろ限界。いや、金が尽きるとかじゃない。俺んち、実家だし。衣食住に困ってない。けど、母親の圧がマジでヤバい。
朝、キッチンに降りると、母が妙にニコニコしていた。
「翔太、ちょっと。あんた、今日から仕事に行きなさい」
「は?仕事?履歴書すら出してないけど」
「そういうのいらないやつよ。知り合いのとこ。家事手伝いみたいなもん」
……怪しい。怪しすぎる。
でも、俺はその言葉に抗えなかった。
なぜなら母は既にタッパーに手作りの煮物を詰めていたから。逃げ道がなかった。
「場所は?てか、誰んち?」
「……宮舘さんとこ」
「……え?」
聞き間違いかと思った。でも母は笑顔のまま言った。
「宮舘さん。昔よく遊んでたでしょ、覚えてる?今は一人暮らしで忙しいのよ。部屋も綺麗にしないとって。だから、翔太、ちょっと住み込みでお世話になってきて」
住み込みて。
まって。
あの涼太?
ガキの頃、よく一緒に遊んだあの“りょーたくん”?
今じゃ東大出て、大企業でバリバリ働いてるとか聞いたけど——そんな人んちで俺が家事手伝い?ニートの俺が?
頭が追いつかないまま、俺は母に手を引かれて家を出た。
そして、10年ぶりに会う幼なじみの玄関の前に立った。
ピンポン。
「……はい?」
出てきたのは、思ってたよりちょっと老けた、けど相変わらず涼太だった。
スーツ姿で、眼鏡の奥の目がちょっと驚いている。
「……翔太?」
「……よぉ、りょーたくん。ひさしぶり」
「……なんで翔太がここに?」
「俺もそれ、めっちゃ聞きたい」
正直まだ頭がついていってないけど、目の前の現実は、俺にとってあまりにも異質だった。
「おじゃましまーす……」
玄関の靴はきっちり揃えられ、廊下にはほこり一つない。
空気が……澄んでる。これはヤバい。プロの一人暮らしって感じがする。
「とりあえず、座って。お茶入れるわ」
涼太が手際よくキッチンに向かっていく。動きに無駄がない。
俺、完全に“お客様”になってるけど、本来は俺が手伝う側なんじゃ?
「……母さんから何か聞いてる?」俺は恐る恐る聞いてみた。
「少しだけ。“働かずにいる息子を何とかしたい”って。それで“家事手伝いとして送り込みます”って連絡が来た。俺はてっきり、断ると思ってたけど……」
涼太が差し出した湯飲みを受け取りながら、俺はちょっと目をそらした。
「俺だってずっと家にいたかったわけじゃねーし。でも……なんつーか、うまく行かなくて。ま、ニート歴1年、更新中ってやつ?」
「……そう」
涼太は、昔から口数少ないけど、人の話をちゃんと聞くやつだった。
そのまなざしは変わってなくて、少しだけホッとした。
「で、俺、今日から何すればいいの?」と、ようやく本題を切り出す。
「うちは朝ごはんは簡単でいい。洗濯は週2、ゴミ出しは月木。掃除は…まあ、気になるとこがあったらで。夕飯はできれば自炊がいいけど、忙しい日はUberでも大丈夫」
「思ったより自由だな」
「そこまで求めてないから。家が清潔で、ご飯があれば十分」
「了解っす、舘さん」
「その呼び方やめて」
「……りょーたくん?」
「それも微妙」
「じゃあ何て呼べばいいんだよ!」
ふっと涼太が笑う。
やべぇ、昔のままだ。ちょっと優しげなその顔に、胸がチクリとした。
時計を見ると、もう出社の時間らしく、涼太が慌ただしくネクタイを締め直す。
「じゃあ、行ってくる。鍵はここ。今日は外出しないほうがいいと思うけど、買い物とか必要ならメモ残してくれれば夜に行く」
「お、おう。気をつけて」
ドアが閉まる音とともに、部屋に静けさが戻る。
俺はソファに座り込んで、深いため息をついた。
「……マジで、俺、何やってんだろ」
けど、ふとリビングの片隅にたまった書類や、微妙にカビくさいキッチンのスポンジが目に入った。
「とりあえず……掃除から、だな」
立ち上がってエプロンをつける。
見よう見まねで炊飯器のスイッチを入れる。
そう。今の俺の仕事は“家政夫(仮)”。
数時間後…
掃除って、始めると止まらない。
最初は「床にクイックルワイパーでもかけときゃいっか」と思ってたんだけど、気づけば風呂場まで磨いてた。
洗面台の水アカを落とすのに夢中になり、換気扇のフィルターを外して、「うわ、こんな詰まるんだ」とか言いながら洗っていた。
人んちの掃除でテンション上がってる自分、謎すぎる。
でも、どんどん綺麗になっていく空間に、なんか心までスッキリしてくる。
「これ、もしかして、ストレス発散……?」
ちょっと自分が怖くなりつつ、気づけばもう夕方。
キッチンに立って冷蔵庫を開けると、涼太の几帳面さが出てるラインナップが並んでいた。
ラベルがきっちり前向いてるし、豆腐の賞味期限も今日。使えってことか。
俺はスマホで「簡単 和食 豆腐」で検索して、作ってみることにした。
【翔太の本日のメニュー】
・肉豆腐
・ほうれん草のおひたし
・味噌汁(わかめと豆腐)
・炊きたてご飯
エプロン姿で盛り付けを終えた瞬間、「カチャ」と玄関のドアが開いた。
「ただいま」
その声に、俺は思わず背筋を伸ばして「お、おかえり」と振り返る。
涼太がコートを脱ぎながら、部屋の空気を一瞬くんくんと嗅いで、
「……いい匂い」
と、つぶやいた。
「え、作ってみた。食えるかわかんねーけど、一応全部レシピ通りにはした」
涼太はテーブルの上を見て、一瞬だけ目を見開いたあと、口元がゆるんだ。
「すごいな、まさか本当に料理するとは」
「おい、期待値低すぎじゃね?」
「いや、悪い意味じゃなくて……翔太がエプロンして料理してるのが、ちょっと新鮮で」
「それ褒めてる?」
「……褒めてる」
ちょっとだけ、沈黙。
でも、それは居心地の悪い沈黙じゃなくて、なんか柔らかい空気だった。
涼太が椅子に座って、箸を手に取る。
「いただきます」
「どーぞ、お口に合えば幸いです」
なんか緊張しながら見守ってると、涼太が肉豆腐を一口食べて、目を丸くした。
「……うまい」
「マジで!?」
「ちゃんと出汁きいてるし、味も濃すぎない。初めてにしては上出来だよ、翔太」
「あー……よかったー……」
思わずソファに崩れ落ちた俺を見て、涼太がふっと笑う。
「案外、家事向いてるんじゃない?」
「……案外、俺もそう思ってきたわ」
そんな他愛ない会話なのに、不思議と心があったかい。
“逃げた”先で、こんなふうに誰かの「うまい」が聞ける日が来るなんて、思ってなかった。
「ふぅ〜〜、食った食った……」
洗い物を済ませた俺は、ソファにどかっと腰を下ろして、さっきまでの戦場(=キッチン)を眺めた。
食卓はきれいに拭かれていて、炊飯器も保温モードに。
今日の俺、めっちゃ仕事したと思う。
「翔太」
呼ばれて振り返ると、涼太がテーブルに小さな封筒を置いていた。
「え、なにこれ?」
「今日のぶん。日当ってことで、手渡し」
「え、マジで? てか、いいの?試用期間じゃなくて?」
「だからこれは“仮”。ちゃんと継続してお願いするかは、家事のクオリティ見てから決める」
まっとうだ。超まっとうだ。
俺がテキトーにやってたら、これで終了だったわけだし。
けど逆に言えば、今日は“合格ライン”だったってことか。
「おっけ。ま、合否は任せるわ。働かせてもらえるならありがたいし」
素直にそう言えたのは、なんか自分でも驚きだった。
で、そのまま流れで聞いてみた。
「……で、さ。俺、母さんから“住み込み”って聞いてたんだけど……そのへん、どうなの?」
沈黙。
涼太の表情が、わかりやすく固まった。
「住み込み?」
「うん。母さんが“布団も持ってけ”とか言ってきたし、完全にそういうノリだった」
「……いや、それは聞いてない。というか……さすがにそれは、帰っていいよ?」
即答だった。
内心かなりホッとした。
だって住込みなんて俺絶対に無理だもん。
「……そっか。よかった~。いきなり居候とか本意じゃなかったんだよな」
「そっか、あっでも否定したいんじゃないんだ。ただ、そういう話が事前になかったから、準備も気持ちもできてないっていう意味だからね」
涼太が言葉を選んでるのはわかった。
こっちは全然気にしてないのに…やっぱり昔から変わらず優しい。
「うん、わかってる。じゃあ今日は飯作ったってことで泊まって、明日帰るよ。今後のことは、また連絡くれれば」
俺は笑ってみせたけど、ちょっと自分で気づいた。
なんか、ちょっと寂しい。…変だな。
―――――――――
家に着いたのは、もう21時を過ぎてた。
ただいま、と言いながら玄関を開けると、母さんがテレビを見ながらソファで半分寝かけてた。
「……翔太? あれ、泊まってくるって……」
「うん、帰ってきた」
「えっ、どうしたの?」
俺は靴を脱いで、リビングの端っこに座った。
母さんがリモコンでテレビを消して、真面目な顔になる。
「とりあえず家事手伝いは今日一日やった。掃除して、飯作って、好評だったよ」
「よかったじゃないの! それなら——」
「でも、住み込みはなかったみたいだわ。涼太には話いってなかったらしい」
「あら……そう……」
母の眉が申し訳なさそうに下がった。
俺は深く息を吐いて、少しだけ声を落とす。
「勝手に住ませる気だったのかよ。さすがに迷惑だろ、そんなの」
「……ごめん。でもね、翔太。あんた、あの子と昔仲良かったじゃない。信頼できる人のところなら、ちょっとくらい図々しくても大丈夫かなって……」
「“昔”の話だろ。それに、向こうはしっかり働いて、ちゃんと一人で暮らしてる。俺だけ、時間止まったまんまなんだよ」
言ってから、自分で驚いた。
そんなふうに思ってたのか、俺。
母はしばらく黙ってたけど、静かに言った。
「翔太、今日ちょっと顔が変わってるよ。少し、明るい」
「……は?」
「目が、生きてるっていうか。あんた、やっぱり“何かしてる”ときのほうが、いい顔してる」
俺は苦笑して、ソファにごろんと寝転んだ。
天井を見つめながら、なんか少しだけ泣きそうになった。
たった一日、掃除して飯作っただけなのに、なんでこんなに色々揺れるんだろうな。
「……また、頼まれたら行くわ。そのときは、“家政夫として”な」
母さんは「そう」とだけ言って、キッチンへ戻っていった。
ベッドに横になって、スマホを開く。
“おつかれ。また何かあったら言って”
さっき涼太から届いたLINEを、じっと見つめる。
既読はつけずに、スマホを伏せた。
なんか、答えを出すには、もうちょっとだけ時間がいる気がした。
―――――――――――
二日後の朝、俺は電車の揺れに揺られながら、駅を出た。
肩にトートバッグ、手にはエコバッグ。中にはエプロンとスケジュール帳、あと昨日母さんに無理やり持たされた「翔太印のだしパック」。
俺は今、家政婦として――いや、家政“夫”か? とにかくそれっぽい存在として、舘涼太の家へ向かっている。
呼び出されたのは昨夜のLINEだった。
「今週から本格的にお願いしたい。また家来れる?」
あの涼太が、そう言うってことは、本気だってことだろう。
________________________________________
ピンポーン。
インターホンの音が鳴って、数秒後にドアが開いた。
「おはようございま~す」
玄関先で、やや大げさに胸に手を当てて、俺は言ってみた。
「本日より正式に家政婦として雇われました、幼馴染・翔太くんで〜す!」
涼太が一瞬ぽかんとしたあと、ふっと口元を緩めた。
「……ふふっ何それ。朝からテンション高いな」
「これでも結構緊張してんだよ。第一日目って感じじゃん、今度こそ」
「うん、正式に“ようこそ”」
それだけの言葉なのに、なんだか胸が少し温かくなる。
スリッパを履いて家に上がると、すでに朝の空気は“出勤前モード”だった。
涼太は洗面所から戻ってきて、ワイシャツの袖をまくりながらネクタイを探してる。
「ちょ、朝ごはんどうする? もう用意する時間ない?」
「いや、あと20分ある。いつもコンビニで済ませてたけど、食べられるなら食べたい」
「了解。プロの家政夫におまかせあれ」
俺はエプロンをつけてキッチンに直行。
冷蔵庫を開けると、卵とウィンナー、冷凍ブロッコリーに昨日炊いた冷ごはん。
「はいはい、できるできる」
目玉焼き、ウィンナー、ブロッコリーの塩ゆで、味噌汁。
簡単なワンプレートモーニングでも、家で食べるだけできっと全然違う。
「あったかいごはんって、なんか落ち着くな」
涼太がそうつぶやいたのを、俺は聞き逃さなかった。
「そりゃそうよ。家って感じ、するでしょ」
「……する。久しぶりに」
言葉少なだけど、たしかに届いてる。
この家で“朝”を作るのが俺の役目。
仕事でも、なんでも、やるからにはちゃんと。
よし、翔太、今日もがんばろ。
――――――――
洗濯機がまわる音と、炊飯器の保温のピッという音。
最近、この静かな生活音が少しだけ好きになってきた。
掃除も、洗濯も、料理も。
最初は手探りだったけど、今では「この順番でやると効率いいな」とか「この洗剤の匂い落ち着くわ」とか、自分の中にルールができ始めてる。
でも。
ふと、掃除機のコードを巻き取りながら、思った。
——ていうか、なんで俺だったんだろ?
内心、ずっと聞けなかったことだった。
家事ができる人なんて、他にもいくらでもいる。家政婦の派遣サービスだってあるだろうに。
なのに、なんで“翔太”だったのか。
その夜、いつも通り夕食を出した後、意を決して聞いてみた。
「なあ、涼太」
「ん?」
「……正直な話していい?」
「どうぞ」
「なんで俺に頼んだの? いや、別に嫌じゃないんだけどさ、気になって」
涼太は一瞬、箸の手を止めた。
味噌汁を置いて、テーブルの端に視線を落とす。
「……前に来てもらってた人がね、すごく雑だったんだ」
「雑?」
「うん。掃除は一応してるんだけど、角とか全然掃いてないの。見えるとこだけ適当に済ませてて。なんなら俺より雑だった」
「うわ、それは……」
「あと、洗濯物もぐちゃぐちゃ。タオルも畳まず投げてく感じでさ。気を使って言ったつもりでも、結局“それくらい大丈夫ですって言ってたじゃないですか〜”って返されて……」
「なるほどな……」
「それで、途中からお願いするのもストレスになって、いっそ自分でやるかと思ったんだけど……」
「けど?」
「ある日ふと思い出したんだよね。翔太が昔、俺んちの学習机とかめっちゃ整頓してくれたの」
「……あー、あったかも。お前のプリントぐっちゃぐちゃで、“これは人間の生活じゃない”とか言って俺が片づけたやつな?」
「そう、それ。あと、掃除好きだったよね、昔から。掃除用具とか大事にしてたし」
「好きっていうか、気になるだけだけどな」
「それでも、俺からすれば十分“頼める”と思った」
涼太の声は淡々としてるのに、言葉の端々にちゃんと温度があった。
「……だから、いちかばちかでお母さんに連絡して、“翔太って今何してんの?”って聞いた。いやまさか本当に来てくれるなんて思ってもなかったから最初は驚いたけど」
「……」
俺はしばらく何も言えなかった。
なんだよ、そういう理由ならもっと早く言えって。
そんなこと、知らなかったら“ただの都合のいい幼なじみ”って思っちまうだろ。
「……へえ。俺、そんな印象残してたんだな」
「うん、意外とね。だから、来てくれて本当によかったよ」
そう言って、涼太がふっと笑った。
その顔を見た瞬間、俺の胸の奥で、何かがやわらかくほどけた。
“仕事”として来てるはずなのに、なんでこんなに心があったかくなるんだろうな。
たぶん、昔の「友達」って記憶が、今の「居場所」に繋がってるからだ。
俺は、ここにいていいんだって——少しだけ、思えた気がした。
――――――――――
「……いってきます」
いつものように、涼太は出勤前に短く言って靴を履いた。
けれどその姿勢は、ここ最近ますます重たく見える。
背中が丸まってるわけじゃない。でも、なんというか、“重さ”がにじんでた。
「……気をつけて」
俺はいつも通り言ったけど、本当はそれだけじゃ足りない気がした。
「……あんまり無理すんなよ」
とか、
「寝てないんじゃないの?」
とか、言いたいことはいくつもあった。でも——言えなかった。
ドアが閉まると、静けさが家の中に戻ってくる。
それが妙に寂しいと思ってしまった自分に、小さくため息をつく。
最近の涼太は明らかに疲れていた。
帰宅は夜9時過ぎ、たまに10時を回ることもある。
帰ってきてすぐシャワーを浴びて、夕飯を口に運ぶけど、無言のまま食べ終えることも増えた。
テレビもつけず、スマホもいじらず、ただ黙って。
俺が洗い物をしている間に、いつの間にかソファで眠ってしまってる日もあった。
それでも朝はちゃんと起きて、また仕事に向かっていく。
律儀すぎて、壊れそうで、見ていてこっちが苦しくなる。
俺は、彼の何をどこまで踏み込んでいいんだろう。
「家政婦」って立場で考えたら、家事をして食事を出して、それで終わりだ。
でも——それ以上を求めたのは、俺のほうじゃないか?
俺はこの家で、ただの作業員じゃない。
幼なじみで、今ここにいて、彼を知ってる俺だからできることが、きっとある。
それでも、勝手に心配されるのは、涼太みたいな人にはうっとうしいんじゃないか。
大丈夫? って聞くことさえ、地雷になったりすること、あるし。
——言いたい。でも言えない。
もどかしいまま、俺は食器を拭いて棚に戻す。
ふとキッチンの窓を開けると、涼しい風が頬に触れた。
その一瞬だけ、俺の中のざわつきが少しだけやわらいだ。
「……何かできること、ないかな」
呟いた言葉は、風に流れて消えていった。
でもきっと、次に彼が帰ってきたとき、少しでもほっとできるように。
部屋を少し丁寧に整えて、夕飯も、いつもより気持ちを込めて作ろうと思った。
声に出せないなら、せめて手で伝えよう。
今の俺には、それしかできないかもしれないけど——。
その日、涼太はいつもより遅く帰ってきた。
時計の針は、もう23時を回っている。
玄関のドアが開く音がして、俺は思わずキッチンから顔をのぞかせた。
「……おかえり。遅かったな」
靴を脱ぐ涼太は、声をかけた俺を一瞥もしなかった。
無言でジャケットを脱ぎ、そのままリビングに入る。
「夕飯、温め直そっか?」
反応はない。
少しして、ソファに崩れるように座った涼太が、ぽつりと呟いた。
「……失敗した」
その言葉が、空気を変えた。
「なにが?」
「全部。プロジェクト、スケジュール、チームの空気……ぜんぶ、俺のせいになってる。言い返す余裕も、なかった」
低くて、かすれた声だった。
「……そっか」
俺は、何も言えなかった。
「大丈夫」なんて言葉は、今いちばん言っちゃいけない気がした。
でも——次の瞬間。
「なんなんだよ……!」
突然、涼太が立ち上がって、机の上の書類を手で払った。
何枚かの紙がふわりと宙を舞って、床に散らばる。
「ちゃんとやってるつもりだったのに……何しても足りなくて、文句ばっかり言われて……!」
その顔には、怒りと悔しさと、そしてなにより——悲しさがにじんでいた。
「俺、そんなにダメか……? ちゃんとやってるだけじゃダメなのかよ……!」
唇を噛んで、拳を握ったまま、彼は震えていた。
俺は、一歩だけ近づいて、静かに言った。
「涼太」
「……」
「そうやって怒鳴れるなら、まだ平気だってことだよ。壊れてたら、怒ることすらできない」
「……何それ、慰めのつもり?」
「違う。俺は、ちゃんと見てたから言ってんだよ。誰よりも頑張ってたの、知ってる。お前が一日中どんだけ張りつめて、誰にも迷惑かけないようにって動いてたか……ちゃんと、俺は知ってる」
涼太の瞳が一瞬揺れて、それから、ふっと視線を落とした。
「……やば。泣きそう」
「泣けよ。俺以外誰もいねえんだから」
沈黙が落ちる。
そして——
「……少しだけ」
ぽつりと、彼が言った。
俺はそっとソファの隣に座って、ただ黙って隣にいた。
言葉なんかいらなかった。
この夜を、彼が少しでもひとりで抱え込まずに済むように。
俺は、ただそこにいた。
リビングの空気が落ち着きを取り戻した頃、涼太はソファにもたれて、ゆっくり息を吐いた。
少し赤くなった目をこすりながら、ふと我に返ったように呟いた。
「……ごめん。こんなとこ見せるつもりじゃなかった」
「……」
俺は返事をせず、キッチンから持ってきた常温の麦茶を差し出す。
涼太は「ありがとう」と言って、少しだけ口にした。
静かな時間が流れる。
けれどその沈黙は、さっきまでのような重さじゃなかった。
少しだけ、呼吸がしやすい気がした。
「……そういえば」
涼太が、ぽつりとこぼす。
「今日の分の残業代、払ってないな。……なんなら、今週分もまだ」
「は?」
「いや、だってさ。予定以上に手間かけてるし、夕飯も後ろ倒しで、待たせて……」
「あのな」
俺は涼太の顔を見て、小さく笑った。
「別に、俺、時給で動いてるわけじゃないし」
「でも、正式に頼んでる以上は……」
「……俺がここにいるのは、金のためだけじゃないよ」
涼太の手が止まる。
「今ここにいたいって、思ったから。だからいる。それだけ」
そう言った自分の声が、意外なほど真っすぐで、迷いがなかった。
俺はここで、誰かの役に立ててる。
たったそれだけのことが、今の俺には大きいんだ。
たぶん、仕事として割り切れた方が楽なのかもしれない。
でも俺は、涼太が壊れそうになる姿を見てしまった。
見てしまったら、もう「ただの家政夫です」なんて割り切れない。
涼太は少しだけ目を伏せて、照れくさそうに呟いた。
「……そう言われると、なんか……救われるな」
「うん」
「でも、だからって“タダ働き”にはさせないから」
「……だよな」
そんなやりとりが、どこか心地よくて。
俺たちはようやく、ただの雇用でも、ただの幼なじみでもない、“今の距離”に立てた気がした。
涼太が麦茶を飲み干し、少しだけ落ち着いた空気がリビングに漂っていた。
俺は、まだ何か言いたそうな彼の隣で、ふと口を開く。
「……じゃあさ」
「ん?」
「その“残業代”のかわり、ひとつだけ付き合ってくんない?」
涼太が目を細めた。
「なに、それ。急にどうした?」
「いや、前から思ってたんだよね。もうちょい掃除道具とか整えたら、もっと効率良くなるのになって。あとさ、キッチンの棚、ちょっと使いづらいんだよ」
「あー……たしかに、あれ高さ合ってないよな」
「うん。だからさ、忙しいのひと段落したら、一緒に買いに行こうよ。家具とか、掃除道具とか。どうせ長く使うもんだし、俺一人で選ぶより、お前と一緒のほうがいいし」
涼太は少し驚いたように目を丸くして、それから肩の力が抜けたようにふっと笑った。
「……なんだ、そんなことでいいの?」
「そんなことって言うなよ。俺なりに、けっこう勇気出したんだぞ?」
「じゃあ……」
そう言って、涼太は少しだけ意地悪そうに笑って、続けた。
「その買い物、“経費で落とす”ってことでいい?」
「ちょ、それ俺の労働がまるごと備品扱いかよ」
「だって家のことでしょ。立派な必要経費」
「人を備品みたいに言うな」
笑いながら、どこかあたたかい気持ちになった。
涼太の表情が、さっきまでとまるで違う。
力が抜けて、ちゃんと“話す余裕”が戻ってきている。
この数週間で、涼太は少しずつ俺に心を開いてくれてる——そう思えた。
「じゃあさ、忙しいの落ち着いたら、絶対行こうな」
「うん、行こう。……お前のこだわり、聞くのちょっと楽しみにしとくよ」
その言葉に、俺は思わず笑った。
家具を選ぶ。ただそれだけのことが、こんなに楽しみに思えるのは、きっとこの家にちゃんと“俺の居場所”ができつつあるからだ。
これからも、きっと少しずつ。
そう思いながら、ソファに座る涼太の隣に、もう少しだけ身を寄せた。
続きはプロフィール欄にあるBOOTHのURLへ。完全版やちょっとだけクスっと笑えるおまけ小説も投稿中☆
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