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足を揃えて座る姿勢が、思っていたよりずっと長く耐えられないものだと、その日初めて知った。
「もう少し、背筋を伸ばしてください。」
静かな声が聞こえた。私は小さく頷いたけれど、身体はもう固まり始めていた。膝から下の感覚が、少しずつ薄れていく。畳の感触だけが、やけにはっきりと伝わってきた。視線は自然と下へ落ちる。きちんと重ねられた自分の手。そしてその上に広がる、見慣れない布地。着物だった。
「……そのうち、慣れますよ。」
それが慰めなのか、確認なのかは、よく分からなかった。私は何も答えなかった。代わりに、ほんの一瞬だけ、東京の夜を思い出していた。
*
*
*
ネオンの滲んだガラス窓が、最初に浮かんだ。 雨なのか、湯気なのか分からない水気が広がっていて、外の景色はぼやけて歪んでいた。そこに色が重なる。赤、紫、青。音楽はうるさいほど大きくて、言葉は相手の唇を読まなければまともに繋がらなかった。
「アスカ、今日なんか雰囲気いいね。」
誰がそう言ったのかは覚えていなかった。似たような言葉は、いつも似たような顔で繰り返されていたから。私は笑った。鏡を見なくても、どんな表情をしているのか分かっていた。少しだけ目を細めて、口角をほんの少し上げる。それだけ。やりすぎず、でも物足りなくもない。そのくらいで十分だった。
グラスに残っていた氷が軽くぶつかり合って音を立てた。手首をほんの少し傾けるだけで、視線が追ってくるのを感じた。誰が見ているのか、わざわざ確認する必要はなかった。それは、いつものように当然のことだったから。
難しくない、ということは結局みんな似ていた。誰かが何を求めているのかを察すること。わざわざ言葉にしなくても分かる瞬間。視線が留まる位置、手が止まるタイミング、笑いが長く続く程度。そういうもの全部がヒントだった。
「アスカって、本当に……人をいい気分にさせるの上手いよな。」
また似たような言葉だった。私は笑いながら首を少し傾けた。今度はもう少し柔らかく、もう少し近い距離で。そのほうが、もっとよく見えることを知っていたから。たまに、自分じゃない誰かを真似しているみたいだと思うこともあった。でも、その感覚は長く続かなかった。そんなことを考えていると、表情が不自然になるって、もう知っていたから。
いつからか、考えないことにしていた。そして、その夜も同じだった。音楽が変わり、人が変わり、言葉が変わっても、私がやることはほとんど変わらなかった。ちょうどいいタイミングで笑って、ちょうどいい瞬間に視線を向けて、必要な時には何も言わない。それだけで十分だった。少なくとも、その時までは。
化粧室の鏡は、クラブの中よりずっと明るかった。蛍光灯の光がそのまま降り注いで、顔の輪郭を隠しようもなく浮かび上がらせる。さっきまでの空気が全部剥がれ落ちた場所で、私はしばらく立ち止まっていた。鏡の中の私は、少し前まで笑っていた人間と同じ顔をしているはずなのに、どこか違って見えた。どこが違うのか、すぐには分からなかったけれど、さっきの表情ではなかった。
「……さっき。」
小さく呟いた。少しだけ目を細めて、口角をほんの少し上げる。そのまま数秒。何かが足りなかった。さっきより不自然だった。私はもう一度試した。今度は、すぐには笑わなかった。先に視線を落として、もう一度上げるまでにほんの短い間を置いた。それからゆっくり口角を上げた。鏡の中の顔が変わる。さっきより、もっと。
……よく見えた。 私はそのまま数秒立ち尽くしていた。表情を消さないまま、その顔を確かめるように見つめた。不思議と、違和感はなかった。 ドアを押して中へ戻ると、音楽は変わっていた。誰かが私を呼んだ。私は振り返った。今度は、さっき鏡の前で作ったあの表情のままで。
「……アスカ、ちょっと。」
私は答えず、そのまま視線を合わせた。ほんの短く。それからようやく笑った。相手の言葉が途切れた。私はそれを見逃さなかった。言葉を続けられなくなるのは、いつも向こうのほうだった。
「……え、いや……なんか飲む?」
私は肩を軽くすくめて首を傾けた。答えはしなかった。その代わり、一度視線を外して、また合わせた。その間に、相手の目が私を追っているのを感じた。
「アスカって、何が好きなの?」
さっきより口調が柔らかくなっていた。私は少し考えるふりをした。本当は考えることなんてなかったけれど、その数秒が必要だった。
「……なんでも。」
短く答えて、グラスを持ち上げた。氷がぶつかる音が小さく鳴る。それだけで十分だった。相手はそれ以上聞かなかった。その代わり、もう少し近くへ寄ってきた。言葉数が減ったのは私のほうなのに、空気を引っ張っているのは不思議と向こうだった。私はそれを静かに眺めていた。ああ、こうなるんだ。さっき鏡の前で作った表情、タイミング、視線。その全部が繋がって、一つの流れみたいに動いていた。
私はその流れをわざと止めなかった。そのままにしておいたほうが、うまく流れることを、もう知っていたから。
「アスカ、今日……いつもより目立ってるの、自分で分かってる?」
彼がグラスを置きながら、身体を少しこちらへ傾けた。音楽が大きいとはいえ、そこまでしなくてもいい距離だった。私は答えなかった。その代わり、一度だけ視線を下へ落として、また上げた。その短い間を、彼が見逃さないことを知っていた。
「さっきから、ずっと目で追っちゃう。」
彼の視線は私の顔に固定されたまま動かなかった。私は笑わなかった。口角を上げる直前で、ほんの少しだけ止めた。
「……そうですか?」
短く、流すように言ってから視線を横へ逃がした。再び視線が重なるまでの、その短い空白が妙に長く感じられた。
「うん。本当に。」
彼は笑いながら首を傾けた。テーブルの上の手の甲が、少しだけ私のほうへ近づく。触れてはいない。でも意識せずにはいられない距離だった。
「このあと、出ない? ここうるさいし。」
私はその言葉をすぐには受け取らなかった。代わりにグラスを持ち上げて唇へ運ぶ。飲まずに、そのまま止めた。グラス越しに、彼の視線が追ってくるのが見えた。数秒後、ようやくグラスを置いて、ゆっくり顔を上げた。
「……どうでしょう。」
曖昧な返事だった。でも、それがむしろ一番はっきり聞こえたはずだった。彼は笑いを堪えきれないように、小さく息を漏らした。
「君って、本当に難しいね。」
私はその言葉を聞いてから、ようやく少しだけ笑った。これくらいで、ちょうどいい。彼は少し笑ってから、さらに近づいてきた。もう身体を傾けなくてもいい距離だった。肩が触れそうで触れない位置。音楽は相変わらず大きいのに、不思議と彼の声だけははっきり聞こえた。
「こうしてると、言葉いらないからいいね。」
私は視線を逸らさなかった。その代わり、ほんの少しだけ首を傾けた。彼がもっと近づきやすい角度だと分かっていたから。手の甲が触れた。わざとなのか偶然なのかは分からなかった。確認する必要もなかった。そのくらい曖昧なほうが、むしろ長く残ることを、今の私は知っていた。私は何の反応もしなかった。避けもしないし、握り返しもしない。その間に、彼がほんの少し呼吸を止めたように感じた。
「……アスカ。」
名前を呼ぶ声が、さっきより低くなっていた。私はその時になって、ようやく視線を少し下へ落として、また上げた。今度は笑わなかった。ただそのまま見つめた。それだけで十分だった。
クラブのドアを押して外へ出ると、音楽が一瞬で途切れた。代わりに夜の空気が流れ込んでくる。中に残っていた熱気が冷めて、肌の上に薄く冷たい気配が落ちた。
「静かだね。」
彼が笑いながら言った。でも私は答えなかった。通りにはほとんど人がいなかった。ネオンの滲んだ看板の光が、濡れたアスファルトの上で揺れていた。私はゆっくり歩いた。わざと歩幅を合わせることも、引き離すこともしなかった。彼が隣を歩くのを、そのままにしておいた。
「さっきより、ずっといい。」
彼の声が近づく。手が触れそうな距離。私は避けなかった。視線は前に向けたまま。数歩進んだところで、手が触れた。私はそのままにした。握りもしないし、離しもしない。そのまま数秒。短いはずの時間が、妙に長く伸びるのを感じた。
「……正直に言っていい?」
私は答えなかった。その代わり、少しだけ横目で彼を見た。話しやすいようで、でも完全には受け入れない距離。彼は少し迷ってから、結局口を開いた。
「今日……一緒にいたい。」
私は顔を向けた。
「どこでですか?」
分かっていながら、そう聞いた。 彼は少し笑って、視線を逸らさずに言った。
「……一晩くらい、いいじゃん。」
言葉が終わった瞬間、空気が少し冷えた。私はすぐには答えなかった。ただ静かに彼を見つめた。冗談っぽく言おうとして、失敗した顔をしているのを確認するみたいに。
「君だって……嫌じゃないでしょ。」
私はその言葉に小さく息を漏らした。そして少しだけ首を傾けた。
「嫌ではないですよ。」
彼の表情が少し緩む。その瞬間を待っていたみたいに。私は続けた。
「でも、行きません。」
彼はしばらく言葉を失った。
「……なんで?」
私は笑わなかった。
「それを決めるのは、私だからです。」
今度は視線を逸らさなかった。そのまま真っ直ぐ見返した。彼が何か言うのか、それとも止まるのかを確認するみたいに。数秒が流れた。彼は結局、笑いを消せないまま頷いた。
「……本当に難しいね、君。」
私はその言葉を聞いてから、ようやく少しだけ笑った。今度は、さっきよりずっと短く。
「そういうのが好きなんでしょう?」
返事を待たず、冷たく背を向けた。
しばらく歩くうちに、いつの間にか周囲の騒音は完全に消えていた。静かだった。さっきまで耳を埋めていた音楽が嘘みたいに消えた場所で、ハイヒールの音だけが残る。私は歩く速度を落とさなかった。止まらなければ、考えも追いついてこないことを知っていたから。
少し前の彼の表情、口調、タイミング。一つずつ浮かんでは、すぐ整理された。綺麗に断った。それ以上でも、それ以下でもない。私は路肩に停まっていた車の窓に映る自分の顔を横目で見た。照明のせいで輪郭がぼやけて滲んでいる。さっきより特別違って見えるわけではなかった。それがむしろ良かった。変わったのは顔じゃない。順番だった。いつ見るか、いつ笑うか、いつ何も言わないか。それを決めていたのが、自分だったということ。
私は視線を外して、また歩き出した。後ろから誰かが呼び止めてこないことを、わざわざ確認する必要はなかった。きっと彼にとって私は、少しずつ遠ざかっていく存在に見えていたはずだ。
さっきまでは、ただ自然に流れていくものだと思っていた。でも、そうじゃないことを、今は知っている。
そうして私はまた歩き始めた。何もなかったみたいに。でも、完全に同じではなかった。
「こういう誘いを受けるのも……もう慣れた。」
私は無意識に、小さく呟いた。
……それは、自分がどんなふうに見られているのかを、もう理解しているということでもあった。